5.願い事の顛末 1
アレックスに伴われて部屋を出ると、扉の前で壁に寄り掛かるようにして腕を組んだまま目を閉じているスヴェインがいた。
びっくりして駆け寄ると、その腕にそっと触れる。
「ああ、大丈夫でしたか?」
吸い込まれそうな瑠璃色の瞳が開き、ふわりと優しい微笑みを浮かべる。
「連絡も出来なくてごめんなさい。来てくれたの……?」
「私が預かると言ったはずだけど?」
「ですので、ここで待っていたんですよ。そうでなければ、扉を破っていました」
待っていた……とスヴェインの言葉を脳内で反復し、ユジィは自分の睡眠欲を呪う。
そうだった。この灰色狼は、放っておくとしおれてしまう方向の犬種なのだった。
(…………あれ、アレックスの方を見もしないけど…………)
ひとまず、アレックスは存在しない風に話している大事な保護者の心のケアを最優先する。
包容力満点に微笑んではいるけど、犬なら耳が寝てしまっているような表情だ。
「ちゃんと寝れた?体が冷えてるけど、まさか、ずっとここにいたの?」
「私たちの体温は、そもそもお前より随分低いんだよ」
背後のアレックスは、既に呆れた声だ。
「俺のことはともかく、まずは何か食べましょうか。お腹が空いたでしょう?」
「う、うん!」
アレックスの部屋で、果物的なものを振る舞われたことはこの際忘却することにして、ユジィはそろりと背後に視線を向けた。
(あれ、…………いない)
転移したのだろうか。
アレックスの姿はなく、スヴェインも王の退出には頓着する気もないようだ。
そのままスヴェインは城内に滞在する際に与えられている部屋にユジィを連れ戻り、用意したものをせっせと食べさせる作業に専念し始める。
(食の好みと、服飾一般のセンスが合う人で本当に良かった…………)
断る回数だけしおれるので、そのことには心から感謝している。
食べさせるのは好きだが、無理な量を勧めるわけでもないし、彼とは味の好みも似ているようだ。
「ほら、あなたの好きな無花果もありますよ」
「どうして私が無花果が好きだって気付いたの?」
そう言うとスヴェインは僅かに目を細めたが、好物に夢中のユジィは気付かなかった。
華美だったり、極端に少なかったり、よくわからない食生活のアレックスよりは、遥かに食生活を安定させてくれている保護者に、贅沢な喜びを噛み締める。
(食べ物って大事だ…………。幸せな気持ちになるもの)
綺麗で優しいものもだ、と目の前の過保護な人外者を見ながら思う。
星空と真夜中の花火に似た鮮やかな瞳には、はっとする程に鮮やかな愛情が滲む。
(もし、あなたが本物の灰色狼だったら、私はとっくにその毛並みを撫でていたのに)
それが理外れのアールによる、ただの弊害の結果だったとしても、不慣れな恩恵はやっぱり純粋にうれしい。
自分の心が持つ贅沢な欲求に開き直れたのも、それを許してくれる程に彼が優しいからだ。
(…………嬉しい。ほっとして、そわそわして、でも、結局ただ嬉しい)
どうすればその尊いものに報いるだけの歓びを返せるのか思案して、また素直に頼ってみることにする。
(とは言え、報告と相談くらいしか、今の私のレベルで出来ることはないけど……)
「あのね、ヴェイン。私の盾の錬成は、やっぱりアレックスのものみたいだよ」
案の定、その瞳を見上げて話し出すだけのことで、スヴェインは微かに口元を綻ばせた。
「王と、その話を?」
「うん。…………でもね、少し不思議なの。アレックスから何かを奪う機会なんて、到底なかったと思うんだけど、あの短い時間の中で彼に触れたかな?」
「触れなくても……」
何かを言いかけて、スヴェインは不自然に口籠る。
「ヴェイン?何か心当たりがあるの?」
「いえ、俺だけで充分です」
(どういうこと?)
不自然な黙秘に何度か問いかけたけれど、結局スヴェインは頑なにその問題について口を閉ざし続けた。
最終的には、俺では不満ですかという繋がりの見えない質問を返されてしまい、ユジィは渋々追及を諦める。
そうこうしている内に、控えめに部屋をノックする音が聞こえた。
「ここにいて下さい」
立ち上がったスヴェインが扉を開けにゆく。
基本的に単独行動を好む高位の人外者とは言え、このように滞在を必要とする場合の身の回りの仕事は、本来侍従の仕事なのだが、スヴェインはなぜか、ユジィを庇護してから従者をあまり連れ歩かなくなったらしい。
今回の滞在でも、スヴェインは一人の侍従も伴ってはいない。
ユジィは、彼の部下達が石炭飼育ストライキでも起こしていたらどうしようと、密かに悩んでいた。
「ユージィニア、エレノアです」
部屋の中には入れようとせず、声をかけられた。
不必要な接触か気遣ってくれたのだろうが、好意の特別枠のエレノアに、慌てて扉のところまで駆け寄る。
「エレノア?」
「良かった、ユジィ。少しお話出来ませんか?あの、…………ちょっとご相談があって」
そっと目を伏せる様は、儚げで抱き締めてあげたくなる。
こんな風に、他の代行者の部屋を一人で訪れるなんて、深刻な問題でなければいいが。
そう考えながら心配そうに覗き込めば、エレノアは困ったように眉を下げて可愛い顔になってしまった。
「行ってきてもいい?」
振り返って伺うと、てっきり付いてくると駄々をこねるかと思ったスヴェインは、何かを思案した後に快諾してくれた。
二人をエレノアの部屋の前まで送ってくれて、この後は別棟で執務をしてから部屋に戻ると言う。
「戻る際には、一人で出歩かないように。エレノアの部屋の連絡端末で、俺を呼んで下さい。捕まらなかったら、……そうですね、王に。俺が出れない場合は、そこでしょうから」
アールを組み込んだ小さな鉱石の連絡端末は、魔術仕様の電話のようなものだ。
綺麗に磨き上げられた指先サイズで、高位の人外者の手を必要とする精密錬成である。
「うん、わかった。有難う。………ヴェイン?」
立ち去り際に一度、彼はユジィの頭を撫でて物言いたげな逡巡を見せる。
「…………いいえ。アシュレイ領に戻ったら、あなた用の端末を新調しましょうね」
すぐにいつもの微笑みに戻って一礼すると、スヴェインは身を翻す。歩き去ってゆくその背中に、妙な胸騒ぎを覚えてしまって眉を顰めた。
「ユジィ?どうなされましたの?」
「…………ううん、大丈夫。それで、エレノアの話って?」
今日のエレノアは淡い萌木色のドレスを着ている。
透ける布地を重ねた繊細なドレスは、瞳の色と相まって、彼女を妖精の女王のように見せていた。
盗撮したい。心を犯罪者に急降下させる破壊力だ。
「座って下さい、ユジィ。こんな風に呼びつけてしまってごめんなさい。…………どうしてもあなたに、話しておかなければと思って」
どのようなアールの仕様か、二人の間にあるテーブルの上には茶器と、湯気を立てる紅茶の注がれたカップが並べられている。
姿を見せない妖精や精霊を使役する場合もあるので、その類の使用人がいるのかもしれない。
(こんな風に、エレノアとお喋りをするのは初めて)
女子会と称するには、あまりにも生き物としての根本が違い過ぎる。
スヴェインが抜かりなく心に手を添えてくれているので、嗜好品と石炭という身分の差でいたたまれなく、寄る辺なく思うことは今はない。
それでも、この可憐な生き物を脅かさないよう、何やら気を遣ってしまった。
しばし、お互いにそわそわもじもじした後、小さく意気込んだエレノアが喋り出す。
ものすごく可愛い。
「アグライア公を、どう思われます?」
いきなり質問の方向性が見えなくて、思わず固まった。
「アレックスのことを?」
(もしかしなくても、恋愛相談的なものだったりする?!)
一瞬冷や汗をかきそうになったが、エレノアは神妙な顔で補足してくれた。
「あのような仕打ちを受けて、言葉にし難い思いがおありなのも承知の上ですわ。あの方は、優しい微笑を見せて下さったと思えば、殊更に残虐に振る舞うこともある。ユジィは、あの方を憎んでおられますか?」
膝の上で組んだエレノアの手は、強く握りしめられている。
「エレノア、…………何かあったの?」
そう問いかけると、薄荷色の瞳が泣きそうに潤んだ。
「アレックスに何かされた?!」
「いいえ!…………いいえ。あの方は、わたくしにはお優しいのですわ。いつも」
何度か深呼吸をしてから、意を決したように話し始める。
「でも、あなたにはそうではない。ユジィ、わたくしは、あなたがどういうものであれ、また、彼らがどう位置付けようと、私達は同じ人間だと思っています。あの方達とてまた、私達と同じ心を持つものなのですわ。だからこそ、こんな仕打ちは耐えられない」
(…………もしかして、ノアの一件でまだ心を痛めてくれているんじゃ?)
エレノアの顔色は良くなく、ユジィは繊細な彼女のフォローをしていなかったことに今更気づいて、頭を抱えそうになった。
「エレノア、………ノアのことだったら、私の方こそごめんなさい。あれは、私が仕損じたんだ。あの場面でもっと上手に切り抜けるべきだったのに、付け入る隙を与えてしまった。大切な夜だったのに、怖い思いをさせちゃったよね、ごめんなさい」
「…………あなたは、あんなことをされて、あの方を憎まないのですか?」
何の意図もない、純粋な驚き。
それを見返して、ユジィは呑み込み易い言葉を選んだ。
「そういうものだと、知っていた筈だから。とても綺麗で可愛くて、なついてくれたように思えても、猛獣の檻に手を差し込んで噛まれたら、それは自己責任になるでしょう?そういうことだと思ってるの。勿論、あの時はものすごく悲しくて、彼等を憎んでしまいそうで怖かったけど、あの場でノアの死に一番の責任があったのは、私だから」
「でも、アグライア公とフリードリヒ様は、ご理解の上であんなことをされたのですよ?」
「うん。納得は出来ないし、腹は立ってるよ。でもね、理解しなくちゃいけないって思ってる。それは不愉快だし、悲しいことだけど、それでもきっと彼らは歩み寄らないから」
「…………ユジィは、強いのですね」
どこか悄然とした様子で、エレノアは頷いた。
(多分、強さは苦しみの免罪符にはならない。痛みは同じだし、悲しみだってそう)
でもユジィは一度、大切なものをすべて剥ぎ取られたことがあるから。
(それでもいいからって、思ってしまう。私はたぶん、とても贅沢なのだわ)
残酷でも、踏みつけられても、それでも彼等はとても美しくて特別で、
この世界のアールの温度や香りは、書の世界の無機質さに比べれば震える程に麗しい。
だから、いつも彼等やこの世界を赦してしまうのだけど、
それは寛容さではなくて、好きなものを失いたくないと願う贅沢さなのだと思う。
「ふふ。ヴェインが、美味しいものたくさん食べさせてくれたからかな」
可憐な嗜好品の顔の曇りを払いたくてそう言うと、エレノアは少し笑ってくれた。
「スヴェイン様は、お優しいですか?」
「うん。過保護だけど、すごく優しいよ。それでもやっぱり、彼も人外者だから、私とは感覚が違うこともあるだろうって注意はしなきゃだけど、ヴェインは優しい」
「わたくし、あの方は無口で怖い方だと思っていましたわ。でもね、シュタイル様に伺ったら、彼はとても有能で、それ故に酷薄に見られる方だって教えてもらいましたの」
「シュタイル伯も、とても優しそう。エレノアの守護者があの方で良かったなぁって思う」
「そうですわね。…………あの方はとても、情深く穏やかで優しい方ですわ」
一瞬の躊躇いの後、エレノアは父親自慢の娘のような顔になる。
(万が一エレノアがアレックスのこと好きでも、私は今の距離感がいいと思う)
彼が特別な人外者だということはわかるけれど、守護者であれば心が寄り添う人の方がいいだろうと、他人事だけど少し安堵してしまった。
アレックスは心を奪う人だけど、心を守ってくれる人ではない。日常的な関わり合いには不向きな人外者だ。
(シュタイル伯の守護の上なら、アレックスとも対等に接することが出来るから)
アレックスがこのまま、エレノアにただ優しいだけの彼でいてくれればいい。
父親役のシュタイル伯には、是非とも頑張って暗躍して欲しい。
(私は上手くいかなかったけれどどうか、エレノアは悲しい思いをしませんように)
可愛いものに幸せになって欲しいと願うのは、人間の本能的な欲求なのだ。
「シュタイル様はこの前も、私の為に編み針と毛糸を買ってきて下さったの。高価なドレスや宝石よりも、そういうものの方が喜ぶとわかって下さった」
そんなエレノアの嗜好が可愛らしくて、ユジィは微笑ましい思いで頷く。
レースのカーテンに、子犬のモチーフのオルゴール。
繊細な絵柄の小物入れに、様々な陶器の人形達。この部屋には健やかな少女が喜びそうなものが溢れていた。
滞在時だけの部屋とわかっていても、シュタイル伯は、この部屋をエレノアの為に整えたのだろう。
「あの方も、そういう心の歓びを知って下さればいいのに…………」
静かな囁きには、思慕が色濃く映える。
「あの方は、このような場所にいるからこそ、心を閉ざしてしまうのだわ」
(……………アレックスのこと?)
一瞬思考が追いつかなかったが、後半の言葉で、エレノアの憂いえるものが、自分と同じものかもしれないと思って嬉しくなった。
(エレノア程の存在ならば)
ユジィでは及ばない部分でも、エレノアなら何かを動かせるかもしれない。
アレックスは、もう少し誰かと、言葉や心を向き合わせる喜びを知るべきだ。
そう思って期待に胸を震わせたとき、
「一度ね、わたくしのアールであの方を見てみたことがあるのです」
「アレックスを?」
「ええ。あの方に触れたいと思って、あの方の心を知りたかった」
自嘲気味な言葉だけれど、微かな熱が籠る。
その時になってようやく、ユジィは目の前の華奢な少女の強さの一端に、彼女が最高峰の嗜好品たる由縁をあらためて認識したような気がした。
「それを護り、それを愛するもの。それに寄り添い、それを欲するもの」
エレノアの瞳に凛とした強さが揺れた。
「これが何だかわかりますか、ユジィ?あの方が元々抱いていたのに、今はもう失ってしまったものです。でも、わたくしのアールは、あの方がいつかそれを取り戻すと謳った」
リベルフィリアの季節には、秋と冬がある。
エレノアの客間の窓から見える景色は、清らかな新雪を積もらせたばかりの、冬の始まりの景色。
なぜだかその時、そんなものを必死に見ていた。
「………………ユジィ?」
訝しげな、エレノアの声。随分長い時間、黙り込んでいたと思う。
「…………いつ、それを読んだの?」
「わたくしがこの城にきて二つの週の後でしょうか。あの方がとても、冷淡に思われて」
(…………私が、リベルフィリアに来る前のことだ)
「あなたは、もしかしたらそんな予言に期待を抱くわたくしを、愚かだと思うかもしれませんね。アグライア公に深く傷を負わされたとしたら、それはあなたですもの」
血の気が引いているのがわかった。
何か当たり障りのない表情を繕うとしたけれど、うまく顔の筋肉が動かない。
きっと、正面のエレノアには、ひどく動揺しているように見えるだろう。
「それでもわたくしは、あの方を変えて差し上げたい」
(…………………え?)
「エレノア、アレックスは、アレックスだよ?」
まだ声に抑揚がつけられず、平淡な声にエレノアが悲しげに目を瞠った。
「あなたにとって、あの方は残酷な人外者かもしれませんわ。でも……」
「どんな心を持って、どんなことをしたとしても、でも、彼は彼のものだよ?アレックスを想うなら、その彼ごと思ってあげて。今の彼だって、彼そのものなんだよ」
「ユジィ、それはおかしいわ。だって、あの方は間違っています。あの方は、己の庇護する者に、あんな仕打ちをするような方であってはならない」
「アレックスを変えたいの?……………今の彼は、正しくないから?」
「どうしてわかって下さらないの?あなただからこそ、誰よりも知っているでしょう?」
泣きそうに顔を歪めたエレノアは綺麗だった。
(でも、あなたは、それでもいいからって思わないの?)
彼が今のままでも、もしその心でエレノアを思うなら、充分ではないのだろうか。
彼等は人外者だ。人間の定義に当て嵌めるべきではないと思うのは、ユジィだけなのだろうか。
「…………あなたに、あの方を説得していただこうと思ったのに」
「アレックスを説得?」
(……そんな言葉が出るってことは、やっぱり、何か深刻な問題があったんじゃ?!)
説得しなければいけないような事態が勃発しているのかと驚いて、
テーブルを挟んだ距離がもどかしくて、
思わず中腰になりかけた時のことだった。
「エレノア、ユジィはいるかね?!」
大きな扉は音こそ立てなかったが、いきなり開け放たれて風を呼び込んだ。
足元までのケープを翻して、シュタイル伯が飛び込んで来る。
おおよそ、荒々しく動くことなど予想出来なかった人なので、慌てて立ち上がってしまったユジィを見付けるなり、彼は表情をほっと緩めた。
「良かった、まだこの部屋におったか」
「シュタイル様?」
怪訝そうに腰を浮かせたエレノアに一度頷いてから、
シュタイルは立ち上がったユジィの所まで来ると、鷹のような眼差しを曇らせる。
「ユジィ、そなたには特殊なアールがあるそうだね?」
「…………ええ」
「であれば、幸いか。どうにか、しばらくの間身を潜めていることは出来そうかね?」
「身を潜める……って、何かあったんですか?」
「スヴェインが謀反の疑いありで、王に拘束された」
「……………え?」
理解出来ずに呆然としたユジィを気の毒そうに見て、シュタイルは視線を一度、入ってきた扉の方へ向ける。
「そなたが探されない筈もない。捕縛の任を受けるとすれば、ロードかフリードリヒか、恐らく交友のあったラスティアではあるまい。すぐに逃げなさい。そなたがエレノアと会っていたことは隠しようがないが、どうにか時間を稼いでみよう」
「待って下さい、どうして?!」
「城の別棟に転移させよう、そこからは一人で時間を稼げるかね?」
「シュタイル伯?!」
唐突な事態と、唐突な温情に混乱を極めているユジィに、
シュタイルは、今までエレノアにしか見せてこなかったような人間臭い顔をする。
「庇護を失えば、そなたは寄る辺のない石炭だ。ましてや反逆の疑いがかかる者の手の内ともあれば、彼らは容赦しないだろう。私はもう、エレノアにあんなものを見せたくはないのだよ」
「…………シュタイル様」
思いがけない言葉に声を上ずらせたエレノアとは対照的に、ユジィはまだ状況を整理出来ずにいた。
(そっか。エレノアの為の動揺だとすれば、シュタイル伯がこうなるのも仕方ないのかしら)
(それよりも、ヴェインが拘束された?…………アレックスに?)
「ヴェインが、どうして唐突に謀反なんて?!」
冷静につとめようとして失敗したユジィを、シュタイルは不憫そうに宥める。
「それはわからん。我々の心も矜持も個のものだ。だが、今問題なのは、スヴェインが捕らえられた武器という男の主人だと考えられていることだ。この意味がわかるかね?」
「…………私も、その目的の為にここにいると考えられてしまう?」
こんな時に心があるのが煩わしく思えた。
衝撃が重なったとは言え、ただの冷静さで思考を巡らせられれば、もっとましなことを考えられるかも知れない。
「だが違うのだろう?時間を稼ぎなさい。私が、どうにか王を宥めてみよう」
はっとしたように、シュタイルがまだ誰の気配もない扉の向こうを振り返った。
「行きなさい!我々のことは心配しなくていい」
肩を押されてくるりと回されると、足元に複雑な術式が浮かび上がった。
慌てて足を上げる間も無く、視界が暗転する。
「シュタイル伯!」
声を張り上げたけれど、もう二人はどこにも見えなくて、虚しく合間の暗闇に飲み込まれた。