首飾り
花子は震える体をどうにか落ち着かせ、深呼吸した。
「ありがとう、ケイ」
ケイは照れ臭そうに首を振る。
「どうして『移らない』って言ってくれたの?」
自分でも、どうしてその言葉が出てきたのか分からない。けれどヤモリには心底腹が立ったし、何故か花子を庇ってやろうという気持ちになった。
「ヤモリは、あなたのその真っ直ぐな魂に負けたのね。私はいつも言いなりになってばかり。あなたはすごい」
そう言った花子の顔を見て、ケイは思わず息を飲んだ。不思議なことに、花子の顔から浮腫がなくなっている。ケイは彼女に見とれてしまった。その素肌は透けるように白く、黒い大きな瞳が宝石のように輝いている。眉は優しく弧を描いていて、小さく上品な鼻が唇の形の良さを際立たせている。首から下には相変わらず浮腫だらけだが、顔の印象が変わっただけで全てが今までと違って見えた。
「どうしたの?」
花子が不思議そうに訊ねる。
「浮腫が消えてるよ」
彼女は驚いて、両手で顔をまさぐった。そしてしばらく不思議そうな手付きで撫でた後、真珠のような涙をポロポロ溢して喜んだ。
「心の傷が、少し癒えたんじゃよ」
モグラは、薬草をすり鉢で潰しながら言った。花の甘い香りがする。
「花子は、ここへやって来た時、心身共に酷く傷だらけじゃった。ここに来るモンはみんな傷だらけじゃが、その中でも一番と言っていいぐらいな」
鉢の中へオレンジ色の液体を注ぐと、ジュワッと音がして小さく灰色をした煙が出た。ケイはくるくる回る椅子に座り、それをぼんやりと見詰めている。
「ヤモリは元々、女王蜂の召し使いで愛人のようなモノだった。ところが、ある日やって来た花子にいつしか心を奪われ、彼女を飼い慣らすようになり、主人である女王蜂から心が離れていったんじゃよ。それに嫉妬した女王蜂は、彼を半分ヤモリに、花子を半分蛇に変えてしまった」
ケイは頭を上手く整理出来ない。女王蜂とはいったい何者なのか。花子はどこからやって来たのか。そしてこのオレンジ色の液体はどういう物質なのか。
「花子の、病気って?」
ケイの質問に、モグラが答える。
「あれは、やって来た時から、とある菌を持っていた。感染率は極めて低いが、罹患すると浮腫ができ、皮膚が溶けたりして醜く恐ろしく変貌することから、忌み嫌われる病気じゃった。わしは、直ぐに治療してやった。けどのぅ、菌は死んでも、あの浮腫が曲者での。あれは、心の傷が有る限り、綺麗に治らん」
出来上がった薬を、モグラは小さな壺に移し変えている。
「ヤモリに散々弄ばれ、女王蜂にいじめ抜かれた花子の傷は深くなるばかりで……何とかやっとでここへ転がり込んできたんじゃよ。お前さん、いいことをしたのぅ」
服を脱ぐよう促され、ケイはボロボロになっている元々は白かったカッターシャツをゆっくりと脱ぎすぐ隣の木の机の上に投げた。モグラは脱脂綿で丁寧に血を拭った。傷口にぺたぺたと薬が塗られていくと、不思議にもすぐに擦り傷は塞がって元の肌色の皮がじんわりと張っていく。ケイは、もうそれほど驚かなかった。ここは不思議が満ち溢れている。
「ここは、心の世界なんじゃよ。心の傷が、全てを型どっているんじゃ。だから、お前さんの擦り傷を塞ぐのには、お前さんのリーズンの一部が必要なんじゃ」
何となく、理解できるような気がしてきた。脳みそが、とうとうおかしくなってしまったのだろうかと思い、頭を軽く揺すってみると、ほんのりとめまいがした。
「それと、猫にだけは、気を付けるんじゃ。奴は女王蜂とグルじゃからな」
「女王蜂って、どんな奴なの?」
モグラは一瞬手を止めた。ケイが振り向こうとすると、慌ててまた薬を塗り始める。
「一言で言えば、支配者じゃな」
モグラが今までに無いくらい怖い顔になった。
「じゃあ、猫は何者なの?」
「猫は……」
「お迎えに上がりましたよ。ミスター・ケイ」
どこかで聞いた声が土壁の部屋に響き渡った。ケイは立ち上がり辺りを見渡した。モグラが慌てふためいて手を離してしまった為、薬の壺が地面に落ちてガシャンと割れた。奥の部屋で休んでいた花子が、驚いて出てくる。
「さぁ、早く地上へおいでなさい。時間がありません。リーズンに会わなければ」
どうやら声だけで、猫はいない。いったいどこから聞こえるのだろう。
「リーズンには、会ったよ」
ケイは大声で言い返す。
「それはリーズンではありません。リーズンが落とした欠片に過ぎないのです。そんなものではあなた様は果たせない。私は入り口で待っていますよ、ミスター・ケイ」
言葉が消えると気配も無くなり、診療所の中には不気味な余韻と薬の苦くて甘ったるい匂いが充満している。モグラは床に散らかった壺の破片を箒で集めて、木で出来た塵取りにそれを寄せて片付け始めた。ケイは、さっき脱いだシャツを羽織ろうと机に手を伸ばす。
「行ってはならんぞ」
モグラは作業を続けながら言った。ケイは一瞬ボタンを掛ける手を止めたが、すぐに再開した。
「身の為だ、やめるんじゃ。ここでわしの仕事を手伝うんじゃ」
「ありがとう。でも、行かなくちゃいけないような気がするんだ」
なぜだか分からない。けれど、ケイは何かに突き動かされている心の奥の疼きを感じた。
ボタンを一番下まで掛け終えた。黙々と作業をしているモグラに深く頭を下げた。
「ありがとうございました。お陰で傷が塞がりました」
モグラは何も言わない。
花子が、何かを決意したようにケイに這い寄った。
「これ」
差し出された手には、エメラルド色をした宝石の首飾りが握られていた。銀色の目の細かいチェーンが着いている。
「きっと、あなたを守るわ」
ケイは花子の濁りのない瞳を真っ直ぐ見つめた。
「大切な物なんじゃないの」
花子はケイの手で宝石を包み、その上に自分の手を重ねた。それには浮腫が出来ていて、白く美しいけれど痛々しかった。けれどとても温かく、柔らかく、優しい。
「女王蜂には何があっても従わなくては駄目。じゃないと、人間じゃなくなっちゃう。彼女は人間の尊厳を食べて生きているの。食べられちゃ駄目。あなたは必ずリーズンに会って、光を浴びなくてはいけない」
花子が、震える手に力を込めた。
「またどこかで会えるかな?」
ケイが小さな声で言った。
「大丈夫。私はいつでもあなたの中にいるのよ」
花子は優しく笑った。