子猫
とぼとぼ歩きながら、橋を渡る。
母さんと鈴が死んでしまったなんて。これから自分はどうなってしまうのだろう。例え現世に戻ったとしても、失ったものはあまりにも多すぎて、きちんと生きていくことが出来るのだろうかと、酷く不安になる。
きっと、世界は変わってしまっているはずだ。
もう十四歳ではないかもしれない。体の機能も、正常ではないかもしれない。二度とバスケも出来ない可能性だってある。
きっと、孤独だ。
人間は素晴らしいと、鈴は言った。でも、この世界で見てきた人間は、影があり、泥臭くて、意地汚くて、醜悪だった。そして、恐ろしい世界だった。
きっと、現世だって同じだ。
不安が思考を駆け巡る。
怖い。
生きるのが、怖い。
気が付くと、橋を渡りきっていた。
目の前には、何だか見たことのある景色が広がっている。
「ご無沙汰しています、ミスター・ケイ」
懐かしい声がして、辺りを見回すが、姿はない。
「リーズンに無事会えたようですね」
「どこにいるんだよ! 撃たれたとこ、大丈夫なのか?」
俺は大声で問い掛ける。
「ご心配に預かり、光栄です。ミス・リンが手厚く治療して下さったので、すっかり元気になりました」
猫はフフフと笑った。
ホッと胸を撫で下ろす。良かった。もう会えないのかと思った。
どこでどうなったかは知らないけど、鈴の奴、気が利くじゃないか、と空に向かって呟く。
「ミスター・ケイ、私はこの瞬間の為に、女王蜂と血生臭い契約を交わした為、あなた様に真実をお話しする事が出来ませんでした」
猫が丁寧な声を出す。
「本来、猫は言葉を話しませんし、二足歩行でもありません。ですが、あなた様をここへどうしてもご案内したく、こういう姿になる代償として、女王蜂の元へ遊男を連れて行く役割を担っておりました。ご無礼をお許し頂きたい」
「いいよ、そんなこと。それより、姿を現してよ。俺もあんたに話したいことが山ほどあるんだ」
猫の姿を必死に探すも、どこにも見当たらない。
声が、申し訳なさそうに唸る。
「あなた様を混乱させたくはないので、正しく順序を踏ませて頂きたい」
「勿体ぶるなよ」
オホン、と猫は咳払いした。
「ミスター・ケイ。あなた様はもうお忘れなのでしょう。まあ、それも致し方ありません。猫は気紛れなのですから。そう、心の中にいつの間にかやって来て、いつの間にか去っていく生き物であります」
照れ臭そうで、寂しそうな声だった。どんな表情をしているのか。一目会いたい。憎たらしい言い回しも、懐かしくて、無性に顎を撫でてやりたくなる。
「私は、恩を返し損なった猫です。おまけに、白血病を患っております。猫は、無様な姿を、主人に見せたくないものなのです。――こんなにも遠回りしましたが、やっとあなた様に本当のことを話せる時が来ました」
喉をゴロゴロ鳴らし、猫は気持ち良さそうに喋っている。
「ミスター・ケイ。汚れた世界の中にも、曇りのない眼で見れば、真実は光輝いてその存在を顕にするでしょう。ですから、大丈夫です。あなた様なら、大丈夫ですよ。沢山の仲間にきっと支えられ、どんな困難の中も生き抜くことが出来はずです。それに、何よりお父上が待っておられます。家族がいれば、心配ありません。お互いに、大好きなのですから。……私も含め」
記憶の奥底に、思い出の糸が煌めいた。柔らかな淡い過去が蘇る。
あの日。車に跳ねられそうになったあの日、腕の中いたのは――。
今立っている場所は、紛れもなく、産まれ育った自分の家の前。物心付いた頃からの遊び場だった。懐かしい匂いがする。垣根の向こうに小さな木があって、桜が咲いている。確か、自分達が産まれた時に両親が植えたものだ。まだ背が低いから、何年も前の景色だと思う。
子供の鳴き声がして振り向くと、鈴が駄々を捏ねている。
母さんは困り顔で腕組みをし、何とか説得しようとしている。
そうか。
あの時、鈴と自分は、近くの公園で子猫を拾った。どうしても飼いたくて、反対する両親に駄々をこね続け、結局父さんが許してくれた。
オス猫じゃなかったかな。多分。
ミャーミャーと泣くから、二人で〃ミイア〃と名付けた。
可愛がったのに、二年ほど経つと、忽然と姿を消して、二度と帰って来なかった。――あれは、死期を悟ったからだったのか。最期を見せたくなかったんだな。
あの日、ミイアは突然道路に飛び出し、危ないからそれを助けようと俺は後を追った。危うくワゴン車に轢かれる所を、青年に助けられた。
あの日、腕の中にいたもの。
それは、猫だった。
ミャー。
いつの間にか、目の前に、ミイアがいる。
そっと手を伸ばし、抱き上げて頬擦りした。
温かい。柔らかい。白血病だったのか。ごめんよ。気が付いてやれなくて。
ミイアは、ミャーと鳴く。
「俺を助ける為に、傍にいてくれたんだな」
ゴロゴロと喉を鳴らし、甘える仕草をした。全身を優しく撫でてやる。
「もう、死んじゃってるんだろうな」
ミャー
素直じゃないんだから。……猫は飼い主に似るんだよな。
ミャー
「ありがとう」
そう言うと、ミイアの体がふわっと軽くなり、まるで灰のように変化し始めた。
「待ってよ、もしかして、消えちゃうの?」
ミャー……
ボロボロと小さな体が崩れ落ちていく。指の隙間から、ミイアの欠片は滑り落ち、更に細かくなり、消えていく。
「そんな、やめろよ、なんでだよ。なんでみんないなくなっちゃうんだよ」
腕がぶるぶると震えた。
さっきの鈴のとは違う。光になどならない。木っ端微塵になり、朽ち果てていく。何故。何故ミイアがこんな目に遭うんだ。 優しいミイア。可愛い子猫――。
「これが契約だったのですよ。ありがとう。慧。私を出来れば忘れないで下さい」
微かに耳元に声が響いた。
手元から完全にミイアはいなくなった。
わ――――!
力の限り叫ぶ。
やるせない思いが、心臓をぎゅっと締め付ける。
どうしてもっと早く思い出さなかったのだろう。そうすれば、救えたかもしれないのに。
自分のことばっかり考えてた。
ミイアは、俺の為に、存在そのものを亡くしてしまったというのに。
胸が苦しくて苦しくて張り裂けそうだ。駄目だ。もう駄目だ。
しばらくその場にしゃがみ込んだ。ここから先へは、どうやっても進めそうにない。
「そんなんでどうする!」
大声に振り向く。
鷹久が白い歯を出して、にっと笑っている。小夏と時雄も肩を寄せあってこちらを見ている。
幻かもしれない。けれど、確かに存在を感じる。
「でも……」
俺は駄目だ。駄目な奴だ。
「駄目でもいいから、生きてみやがれ!」
でも、恐いんだ。
「恐れていたら、ちっとも先へ進めねぇぜ」
そうだけど……。
「命ってのは繋がってんだよ。ずっと前から受け継いできたバトンを、次へ渡すのが、お前さんの役目だ。無駄にしてくれるなよ」
命のバトン?
「ああそうさ。途切れさせないでくれよ。折角、繋いだんだから」
もし、迷ったら?
「仲間がいるさ」
もし、間違ったら?
「生きてりゃ、何度でもやり直せる」
何度でも、やり直せる――。
「みんな言ったろ。お前なら大丈夫だ。待ってる奴がいるんだから、つべこべ言わず、帰りな。いい世の中を作ってくれよ」
鷹久が、背中をボン、と叩いたような気がした。
出会った人々の顔が次々と浮かぶ。
みんなに貰った言葉や思いを、一つずつ心に仕舞っていく。
本当に、大丈夫だろうか。
生き抜くことが出来るだろうか。
いや。出来るだろうか、じゃ、いけないんだ。
生きなきゃ駄目なんだ。
顔を上げ、立ち上がる。
もう、振り向かない。
全てのもの達が、優しく背中を押してくれているような気がした。
きっと、大丈夫だ。
立ち上がり、一歩踏み出す。
行こう、この先へ。
自分が存在するべき世界へ。




