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鈴(りん)

「遅いよ」


 少女の顔を見て、ケイはホッとした。どこも傷付いていない。


「ごめん」


 ケイが謝ると、少女は偉そうに手を腰に当てた。


「あと三日で、ちょうど三年だよ。あんた、帰れないとこだったんだから。ホント、ぼやぼやしないで欲しかったわ」


 そう言うと、少女はケイに駆け寄り、力いっぱいに抱き締めた。

 ケイも少女にしがみつく。


「トラックに突っ込まれて、意識を失う前、最後に見たのが鈴の顔だったんだ」


 腕の中にいる少女は、紛れもなく双子の妹、『鈴』だった。

二人はゆっくりと体を離す。


「リーズンとは、あなたがあなたである理由。つまり、慧は私に会えないと自分を取り戻せず、現世には戻れなかったってこと。良かったね。帰れるよ」


 鈴が嬉しそうに笑う。


「じゃあ、一緒に行こう」


 慧が手を引こうとすると、鈴は「行けない」と首を振った。


「私、死んだから」


 二人の間に、冷たい空気が流れ込んだ。瞬く間に、慧の心の温度が下がる。


「ここはね、間の世界なんだって。あっちにもこっちにも行けない魂の溜まり場なんだよ」


 鈴は寂しそうに微笑んだ。


「母さんは……?」


 恐る恐る慧が訊ねる。唇が強張り、思うように動かない。

 鈴は目を閉じ、首を横に振る。

 慧の全身から力が抜けた。叫び出したい気分になった。


「父さんが、一人でずっと待ってる」


 慧がハッとした。瞳の中に、僅かに光が宿る。

 鈴が、指先で橋の向こうを指差した。


「ここを渡れば、父さんの元へ行ける」


 悲しみをぐっと堪えながら、慧は鈴に訊ねた。


「鈴も、迷ってたの?」


「違うよ。母さんがね、慧に冒険させなさいって言っんだよ。だから私、少し先でずっと慧を待ってた」


 鈴は落ち着いた声で答えた。


「一つだけ、どうしても伝えなくちゃいけないことがあるの」


 慧の瞳を真っ直ぐに見据え、鈴は無言で心の準備が出来たかを問った。慧は深呼吸をし、頷く。


「もう忘れているかもしれないけど、小さい頃にも、慧は事故で死にかけている」


 記憶には靄が掛かっていて、ハッキリ思い出せない。慧は一生懸命に糸を手繰り寄せる。


「道路に飛び出たあなたを、青年が助けた。その変わりに、青年はワゴン車にぶつかり、彼が乗っていた自転車は大破し、彼自信も右足を骨折した。あなたは無傷で助かった。でも彼は、そのことを忘れている。父さんも、知らないこと」


 ふと、ある光景が浮かぶ。

 ドンと背中を突き飛ばされ、歩道に転がり、膝に擦り傷が出来た。とても大きな音がして、急ブレーキを踏みハンドルを切った車と、道路脇に乗り捨てられた自転車がぶつかった。自転車の上にいた青年が跳んできて、車の角にぶつかって、とても痛がっている。慌てて腕の中のものを覗き込むが、怯えながらも温かく、心配なさそうだ。そして、もう一度青年に目をやる。

 ――ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい!

 心の中で何度も叫ぶ。青年は、怪我なくて良かったな、と、呻きながらも微笑み掛けてくれる。

 慧は一瞬、五歳の幼児に戻っていた。


「さあ、時間がないよ、慧。行かなきゃ」


 鈴の声がして、元に戻る。その瞬間、あの夜トラックを運転していた青年の顔が、微笑み掛けてくれた青年と重なった。


「だから、恨んじゃ駄目だよ」


 鈴がにっこりと笑った。


「私、慧と暮らせて楽しかったよ。みんなによろしくね。これからは母さんと見守ってるから。生きてたら、きっと良いことがある。人間て、素晴らしい生き物だよね。だって、全ては、誰かを喜ばせる為の道具なんだから。使い方を間違えないようにね。慧、あなたの人生を楽しんでね」


 ふっと、鈴が透明になり始める。少しずつ光が生まれ、粒子になり、天へ昇っていく。


「待て! お前ばっかり喋ってずるいぞ! 俺、何も話してない!」


 鈴はただただ微笑んでいる。白い光は少しずつ纏まり、美しい翼に形を変えていく。


「何で行っちゃうんだよ! 待てよ! やっと思い出したのに。やっと会えたのに」


 バイバイ、と、唇が動いた。

 光の翼はくるくる渦巻いて、天へ昇り、もう一つの光と合わさって、流れ星のように消えた。

 慧はそれを見送ると、しっかりと地面を踏み締め、橋の向こうへと歩き出した。

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