ヤモリ
我に帰ると、手元の花は輝きを喪い、ケイの手中に納まっていた。――あれは、夢だろうか?
「大丈夫?」
花子が近付いて来て、心配そうに顔を覗き込んでいる。
「リーズンの一部にに触れたのね」
それがさっきの映像と関係あるのなら、そうだと答えればいいのだろうか。あれは、記憶の切れ端のようなものかもしれない。――でも、ハッキリ思い出せない。
頭を抱えるケイに向かって、花子が言った。
「大丈夫。少しずつがいいのよ。焦ってはだめ。薬草を手に入れたのね。私もよ。早く先生のところに戻りましょう」
ケイは頷いた。
二人は足早に坂を下り、モグラの診療所を目指す。布袋には数本の薬草が入っている。花子はそれを大切そうに抱き抱え、不安そうな顔でキョロキョロしながらケイの後を着いてくる。きっとヤモリを気にしているのだろう。
ガサリ、と草むらが揺れた。ケイは身構えた。どんよりとした嫌な気配が流れ込んでくる。花子は顔を真っ青にしてカタカタと震えている。ケイは両手を広げて腰を落とすと、草むらを睨み付けた。
「ヒヒヒ。どうした蛇。今日は紳士と一緒じゃないか」
そろりと姿を現したのは、人間の形をした生き物だった。ただその顔は爬虫類によく似ていて、茶色い尻尾が生えている。よく見ると腕も脚も、服から覗いている皮膚も尻尾と同じ色をしていた。
「いいご身分だね、お嬢さん」
ニヤリとした彼の口許から、赤い舌がチョロリと見え隠れする。花子は俯いて、目を合わせようとしない。
「その袋は何だ?」
花子はギュッと、布袋を抱き抱える力を強めた。
その爬虫類男が、花子が恐れるヤモリだった。
「ははぁん、いいものを持ってるな。そいつは俺の大好物だ。蛇よ、そいつを寄越しな。さもないと、また鉄の棒の熱いやつをその綺麗な緑の皮に押し当ててやるぜ」
ヤモリがニヤニヤしながら袋を指差した。花子は縮こまり、動かない。愉しそうにヤモリはそれを眺めている。そして、ケイに向かって偉そうに言った。
「お前さんもお気の毒だな。あんまりその蛇と仲良くすると、移るぜ。病気が。身体中凸凹になって、ただれたり、なくなったり、引っ付いたり、気持ち悪いことになるぜ。そいつが持ってるバイ菌は……」
「移らない」
ケイがはっきりと言った。
「花子はもう治ってるし、この病気は簡単には移らない」
澄んだ声と確信をもった眼差しだった。それに対しヤモリはばつが悪そうにした。しかし直ぐに開き直ってゲラゲラと笑い出す。
「お似合いじゃねぇか、蛇よ。擦り傷だらけの木偶の坊と、浮腫だらけの蛇女。どっちつかずな二人組だ。くっくっくっ」
ケイは、腹の底に激しい怒りが沸き起こるのを感じた。
「さあ、早く渡すんだ、蛇よ。でないとまた閉じ込めて、痛め付けてやる」
「いや……」
花子は身をよじって逃げようとしている。
「お前が人間だった頃は、それはいい女だったぜ。毎日気持ちよくしてくれたよなぁ。愉しませてくれたじゃないか。女王蜂の元へ連れて行かれ、嫉妬した彼女に半分蛇にされちまってからというもの、お前は見るも無惨な姿になっちまった。折角モグラに病気を治して貰ったのに、残念だ。また俺んとこ来いよ。たっぷり可愛がってやるぜ。首に紐でも着けて、色んな生き物と交わらせてやるよ。永遠に」
花子は悲鳴に近い声を上げた。ケイは気が付くと勢いよくヤモリに掴み掛かっていた。ヤモリは冷や汗を垂らしながら、たじろいでいる。
「そうやって、花子を傷付けたのか」
絞り出すような声でケイはヤモリに問い掛けた。ヤモリは首を横に降る。
「お、俺のせいじゃない。そ、そいつは元々そういう運命なのさ。そ、そしてここでリーズンを探しているんだ」
もうやめて、と花子のか細い声が聞こえてくるが、ケイは自分を止められなくなっていた。
「お前のような、お前のような馬鹿がいるから、みんな苦しまなきゃならないんだ」
ケイの腕に力が入る。手がヤモリの頸部に移動していく。殺してしまいそうだとケイは思う。しかし、恐れは感じない。
「お、俺のせいじゃない。女王蜂のところにこいつを連れて行った奴が、わ、悪いんだ」
「誰が連れて行った?」
ヤモリはいい辛そうに口を尖らせると、顔を背けた。
「誰が連れて行ったんだ!」
「お、俺じゃない」
「人のせいにするなよ!」
「お、俺は悪くない。お、俺だってヤモリにされた」
「ヤモリに?」
一瞬の隙を突いて、ヤモリはスルリと逃げ出した。あっ、とケイは小さく叫んだ。
「詳しいことはモグラに聞きな。老いぼれなら何だって教えてくれるぜ。――一番悪いのは猫さ。気紛れで、残酷で、紳士ぶっている奴だ。あいつのせいで何人も女王蜂に苦しめられているのさ。あいつは女王蜂の手下だ。お前さんも下手にリーズンなんか探さずに、気楽にこの世界を生きたほうがいいぜ」
いつのまに登ったのか、ヤモリは木の上にいる。
「蛇。今日は見逃してやるぜ。面白いものを見付けたからな。ヒヒヒ。早くその凸凹を治して、一緒に遊ぼうぜ。モグラにもよろしく言っといてくれよ」
そう吐き捨てると、ヤモリは闇の中に消えて行った。