花畑
気味が悪いほど静かな森の中を、ケイと花子は進んでいく。双子やうさぎがいた場所とは打って変わって、生き物の気配はまるでしない。獣道の先には、ただ森と闇だけが続いている。ランプの掛かる幹さえも途切れ途切れになってきた。恐らくモグラの診療所辺りは、誰かの手によって整備されているのだろう。道もそれほど悪くなく、ランプもだいたい等間隔に存在していた。ケイは背筋が冷たいような気味悪さを感じている。その後ろを、花子が涼しい顔をしてニョロニョロと這っている。
やがて道は登り坂となって来た。穏やかな傾斜を為している。草が繁り始め、木々は曲がりくねっていて何だか本物の蛇が出てきそうだ。
「坂道を登り切ったら、薬草が生えている草っぱらよ」
花子が久しぶりにじゃべった。相変わらず声が透き通っていて、その響きは暗闇へと吸い込まれていく。
「薬草って、どんな形をしてるの?」
ケイが訊いた。花子は少し考えて、
「それは――あなたのリーズンの一部よ」
と答えた。
ケイは驚いて立ち止まった。花子は不思議そうな顔をしてそれを見る。
坂の上から、ザワッと不穏な風が一吹きした。どうしてそんなことを言うのだろう。リーズンとは、いったい何なのか。猫にしても、この蛇女にしても、本当に訳がわからない。初めて出会ったはずなのに何故か自分のことをよく知っているようで、見透かされているようで、恐ろしい反面、仄かに懐かしい感覚に囚われるのは気のせいだろうか。ケイの心が揺れる。
ケイは思い切って花子に訊ねた。
「リーズンて、いったい何なの」
花子はゆっくりと微笑んで、ケイの瞳の真ん中を見詰めている。
「それは」
形の良い花子の唇が少し開いた。
「それは、あなたがあなたである“理由”。それしか言ってあげられないの」
浮腫で歪んだ顔面が、今度は悲し気に笑みを浮かべる。浮腫さえなかったら、多分彼女は美しいのだろう、とケイは思った。
僕が僕である理由――。それは、どんなものなのだろう。そういえば、今自分には何もないような気がする。本当の名前すら思い出せないし、昔のことが何も記憶に残っていない。なぜこんなところにいるのかさえ分からない。相変わらず擦り傷は痛む上に血が垂れていることを考えれば、早くそのリーズンとやらに会った方がいいのかもしれない、とケイは考える。
「さぁ、あと少しよ。行きましょう、ケイ」
坂の上に立ち、足元を見渡す。そこにはまるで極楽浄土のように、一面色とりどりの花畑が広がっていた。空は深い紫色をしていて、真っ白な月がぽつんと浮かんでいる。世界は夜だったのかと、ケイは思う。花子は「ここから見つけるのよ」と言って花畑へ下りていった。ケイは慌てて後を追う。
赤やオレンジ、ピンク、黄色に薄紫、そして白。様々な形の花花は美しく、怪しげに咲いている。
「この花達は、みんな自分を探してくれる者を待っているの」
花子は花を掻き分けて進む。
「みんな、誰かのリーズンだということ?」
「いいえ、リーズンではなく、リーズンの一部。花だけではリーズンにはなれない」
言っていることがよく解らなかったが、ふうん、と頷く。
「薬草は、どうやって見つければいいの?」
「大丈夫。あなたには、そこだけ光って見える。私は私の光を探すから、あなたも探して」
ケイは立ち止まり、辺りを一瞥した。よく目を凝らしてみる。すると、遠くの花の中にぼんやりと僅かな灯りを見つけた。
「あれかな……」
ケイは花子から離れ、そちらへ歩き出した。
近付くにつれ、それはハッキリとしてくる。一輪だけ発光している。不思議な光に吸い寄せられるように、ケイは足を動かす速度を上げた。
その花は、まだ蕾だった。ケイは摘み取ろうとして手を伸ばす。その瞬間、蕾は爆発したかのように黄色い光を放ち、開花を始めた。光は天まで届きそうな勢いで激しく発せられ、花は固くゆっくりと開く。ケイは目を庇いながら、恐る恐る花を除き込んだ。