炎
いつの間にか列車はかなり走っていた様で、見たことのない景色が車窓の向こうに流れていて、霞んだ緑の草原はどこまでも広がり、空には不気味に紅く腫れ上がった太陽が浮かんでいる。
ケイはぼんやりとそれを眺めた。
「一人旅かい。それとも、疎開するのかい」
隣に座った初老の紳士が語り掛けてきた。
いいえ、どちらでもありません、とケイは否定する。
紳士は葉巻に火を点けて一服し始めた。
「君もどうだね」
促されるまま受け取り、それを銜える。
紳士が自らのライターでケイの葉巻に火を点そうとする。その火を見て、思わず仰け反った。羽毛でびっしりと覆われた羽をもつ虫が、ライターの中から飛び出そうとしていたのだ。ランプの中に飛び込んでは消えていった、あの虫だ。
「どうかしましたかね」
ケイは恐る恐る紳士の手元を覗き込む。
中でもがき苦しんでいた虫は、次第に炎へと姿を変え、いつの間にか只の炎になっていた。それは一瞬の出来事だったが、ケイの脳裏に焼き付いた。
ジュボ、と、葉巻に火が点き、仄かに甘い薫りの煙が、車内に広がっていく。
「私はかつて、この大地に多くの人を見棄てて、本国へ逃げました。その罪で、今も尚、この列車から降りることを禁じられているのです」
紳士は葉巻の火を消し、残りをポイと口の中に放り込み飲み込んでしまった。
「いつだって、何かを犠牲にして、文明は進歩します。そんなどす黒い闇を孕んだ世界に、あなたは戻りたいですか?」
紳士の瞳は深く深く闇を湛え、ケイは思わず見入ってしまう。
体がどんよりと重くなり、段々と自分が何者なのか分からなくなっていく。遠くの方で機械音が鳴り響き、意識を奪われそうだ。目の前が少しずつ霞み、次第に心が虚ろになりかけた時、
「ここにいたのか!」
大声が車両に響き渡った。
ケイは我に返る。
「探したんだぞ。こいつ、いきなり駆け出しやがって」
鷹久が心配そうにケイの肩を揺すった。
「一人になるな。闇に吸い込まれちまうぞ」
ドカッ、と隣に腰を下ろす。
「あれ?」
いつの間にか、初老の紳士の姿が消えている。しかし、彼の言葉はケイの胸に暗い影を落としていた。それはまるで、泥水のように苦い。
ガタンゴトンと列車は走り続け、やがて深いジャングルの中に入って行った。止まる気配はない。ケイは痺れを切らし、鷹久に訊ねた。
「あとどのくらい乗っていればいいの」
鷹久は、ふふん、と鼻を鳴らす。
「さあな。分からんが、恐らくジャングルを抜ければ駅がある。俺達兵隊はそこで降りるようになるだろうが、橋を目指すなら、もっと先だな。俺が降りたら、真ん中の車両に行きな。お前に会いたがってる女の子がいるぜ」
ケイは首を傾げた。女の子?かつての客だろうか。それとも――。
「その子は、蛇ですか?」
鷹久は一瞬目を真ん丸にして驚いた。そして声を裏返して
「へびだって?」
と言った後、一人笑い転げた。
ケイは、恥ずかしくなり、顔を赤くした。
「蛇じゃないさ、ちゃんとした人間だぞ。そうだな、ちょうどお前と同じくらいの年の頃で……」
バババババ
突然爆音が耳をつんざき、列車のあちこちから悲鳴が上がる。
「機銃掃射だ――――」
誰かが叫んだ。
弾丸が二人を狙い、座席が破壊され、恐怖で体が縮こまる。あと十センチずれていたら、貫通していた。
爆発音がドカーンと鳴ると、列車は横転し、蜘蛛の子を散らすように窓から人々が逃げ惑う。
怪我をしたり、血を流したり、倒れる者、泣き叫ぶ者で忽ち溢れ返った。
ケイは鷹久に腕を捕まれ、動かない体を引き摺りながら何とか外へ這い出ると、茂みに身を隠した。
暫く息を潜めた。どのくらい経ったのか、さっきまでの混乱は静まり、シンとしている。
「不味いことになった」
鷹久は顔を歪めた。
「これから、列車を修理しなけりゃなんねぇ。どのくらいかかるか……薬草をかき集めて薬を拵えて、傷の手当ても必要だ。ケイ坊、お前さんは、先に行きな」
「えぇっ?」
「ここを何とかしなけりゃ、俺達は進めないルールなんだ。だが果てしなく時間が掛かる。お前には時間がない。多分歩いた方が早い。線路沿いにずっと進めば、軍隊の駅がある。そこで何とか探すんだ。列車か、車か、馬でもいい。そんでなるべく早く、橋に辿り着くんだ」
ケイは戸惑いを隠せない。この鬱蒼とした出口の見えないジャングルを、一人きり歩いて行くなんて……。
「大丈夫だ。そのブーツがある。その色を頼りに進めば、必ず辿り着くはずだ」
鷹久は、ケイを強く抱き締めた。
「さあ、行け!お前の目指すべき場所へ!」
そして思い切り突き放し、列車の方へ駆け出した。
その勢いでケイの体は宙に浮き、グイン、と列車を飛び越え、何かに押されるようにして物凄いスピードに乗り、線路の遥か先へ、ストンと着地した。
振り向くと、豆粒程の人々が列車の修理に忙しなく当たっている。
ぐっと力を込め、ケイは前を向く。振り返らないぞ、振り返らないぞ、と何度も言い聞かせ、しっかりと線路の上を歩み始めた。




