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老婆

 時雄達が住む三軒隣に、櫂婆さんのバラックがあった。玄関は綺麗に整頓されていて、誰かを迎える様な雰囲気が醸し出されている。


「俺が手伝って建ててやったんだ。すげーだろ」


 得意気な時雄の頭をポンポンと撫で、自分の家に戻るよう伝える。

 時雄は頷くと、大きな声で「かいばあちゃーん」と呼び、ケイを手招いた。


「入りな」


 (しわがれ)た声が、やんわりと響く。


「じゃあ、俺、大事な任務があるから」


 時雄は大袈裟に敬礼し、走ってどこかへ行った。

 ケイは恐る恐るバラックに足を踏み入れた。

 ギイ、と、床が軋む。


「よく来たね。待っていたよ」


 突然声を掛けられ、ギョッとする。視線の先には、老婆がこじんまりと座っていた。

 ケイは丁寧な会釈をし、徐々に老婆との距離を縮めていく。


「怖がらなくたって大丈夫。私はあんたをよく知っている」


 厳しさの中にたっぷりと温もりのある声は、成長途中の少年の心を融かすのに充分だった。

 初めて会うはずなのに、酷く懐かしい。


「お前は、こんなところに居てはいけない者だね」


 老婆は静かに言った。


「着物を見せてごらん」


 ケイは風呂敷包みを老婆に渡す。皺が刻まれた手はゆるりと結び目を解き、中から秋桜の着物を大切そうに取り出して眺めた。


「……そうかい。それは大変な思いをしたね。可哀想に。でも安心しなさい。お前に傷は残りゃしないから」


 そう言って、着物を畳み直し、ケイに返した。そしてその場に座るよう促した。


「何が知りたいんだい? 」


 ケイは答える。


「猫は……猫はどうなったのですか」


 老婆が一瞬顔を(しか)めた。もしかして、不味いことを聞いてしまったか。


「猫は、嫌われ者だからね。可哀想だけれど、どこかで血を流してるよ。空を飛んでいる時、敵の戦闘機と間違えられてミサイルで撃たれてしまったみたいだね。……でも心配はいらない。お前のリーズンが手当てをしている」


 ケイは耳を疑った。まさか、リーズンの正体を知っているのか。しかし、聞き返す間も無く、老婆は続ける。


「いつか……いや、間に合えば……もう一度会うことが出来るかもしれないね。けど、その時猫は猫であって、お前が知る猫ではないよ」


 頭が痛くなりそうになる。何を言われているのかよく分からなかったが、もう猫に会えないかもしれないということは理解出来た。


「猫は、お前の味方だよ。裏切り者なんかじゃない。でも、捜しちゃいけないよ。時間がないようだから」


 ケイは何故だか涙目になる。時間がないと言われても、何のための時間なのかも分からない。猫は残酷で、気紛れで、冷たい。だけど、恐らく本当に、味方なのだ。

 猫を助けたい。

 ケイは心からそう思った。

 だけど――。


「橋に迎えと言われたんです」


 老婆は深く頷いた。


「それがいい。ただ、橋は遠いよ。歩いて行くには遠すぎる」


「じゃあどうすれば……」


「そうだね……」


 再び顔を顰めると、立ち上がり、


「時雄に切符を買うように言いなさい。明日の朝一番で、列車が出るから。最終の駅に辿り着いたら、そこから真っ直ぐ東に歩くんだ。よそ見せず、ひたすら真っ直ぐだよ。そうすれば、橋に辿り着く」


 ケイは老婆にお礼を言った。

 去り際、部屋の中を見渡すと、一枚の写真が飾ってあることに気が付き、覗き込む。


「息子さ。兵隊に徴られて死んだのさ」


 何も言えず、悲しい気持ちで櫂婆さんの家を出た。


 今晩は小夏の家に泊めて貰うことにした。

 時雄は張り切って畑で少し栽培された野菜を収穫し、落ち着かない様子で母の側にくっついている。

 ケイが居ることに対してもソワソワしているが、理由がもう一つあった。長らく留守にしていた父が帰ってくるようだ。

 小夏も機嫌が良く、ニコニコと夕げの仕度をしている。きっと貧しい中で最高の御馳走を拵えているに違いない。


「父ちゃんは凄いんだ。靴を作る職人なんだ。今は戦争のせいで、兵隊の靴しか作らないけど、前はすんげぇのを作ってたんだ! 」


 ケイは軽く相槌を打ちながら、思い出せない、眠りから醒める以前を思い出そうとしている。

 自分にも、父や母というものがあった様なきがする。そして、それらが恋しい。会えるものなら会ってみたいと思う。――しかし今は、ただ自分が子供であることしか分からない。

 時雄は生返事のケイに飽きたのか、表に出ていってしまった。

 即席のコンロには鍋が掛けられ、米をたくいい匂いがしている。宮殿で嗅いだそれよりずっと質素だけれど、何杯も旨そうに思える。


「小夏さん。僕、自分の名前を思い出せないんです」


 匂いに釣られ、言葉が自然と唇からはみ出ていく。


「ただ、僕をミスター・ケイと呼ぶ者がいます。後、川向こうで過ごしている時には、彗星と呼ばれていました。だからそっちの方が馴れているかも……」


 小夏は向こうを向いたまま、


「彗星って、何だか呼びにくいわね。だから、ケイちゃんでいいかしら」


と、歌うように言った。

 ケイは、固くなっていた心が少し解けていくのを感じた。


「ただいまー! 」


 大きな声が外から聞こえたので、思わず振り向く。

 声の主より先に、時雄が飛び込んできた。

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