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犂月の頼みごと

 目覚めると厠の前に立っていた。辺りは真っ暗で、来た時と何も変わっていない。夢でも見たのだろうか……。ケイは何度か瞬きをしたが、着物に僅かに染み込んだ据えた臭いが夢ではないことを物語っていた。

 鉄格子の中の影の少年に案内され、向こう側の世界へのたった一つの扉へ向かった。初春兄は少年に貰った分厚いローブを被り、なるべく姿がバレないよう顔に炭を塗り、もしも外で再会することが出来たら、翼里兄がいる村で会おうと約束した。見送ってすぐに気を失った。そして今、ここに立っている。


 二の間に戻る途中、蜂に見付からないように気を付けながら初春の居た部屋の前を通った。しぃんとして、誰の気配もない。ケイは兄者の無事を祈りながら、足早に寝床へと帰った。


 翌朝目覚めると、いつもと変わらない朝だった。まるで、初春など初めから存在しなかったかのように、誰も何も言わず淡々と時間が過ぎていく。飯を食い、客を取り、蜂と冗談を言い合う。ただ、何故かケイの馴染みはやはりパッタリと姿を見せなくなった。

 晩餐会の日取りが決まったと麓舞が教えてくれた。三日後の、鐘の後。この日ばかりは見世を閉め、盛大な宴が開かれる事になる。遊男にとって問題は、サルビアへの土産物だ。彼女に気に入られた者は、何かと優遇され、気に入られなかった者は、直ぐにでも地下に落とされてしまう。恐ろしくも魅力的な、そしてまたとないチャンスなのだ。

 ケイは、どうしようかと考えた。サルビアの癪にさわる事さえ無ければ、なんだっていい。しかし、そんな品をどうやって手に入れれば良いのか分からなかった。馴染みのあの女は、いったいどこへ行ってしまったのだろう。

 ふと、袂が壁に触れ、コロリと物が当たる感触がした。――花子のペンダント――。いや、駄目だ。これはお守りなのだから。ケイは邪念を払うかの様に、首を横に振った。


 ラウンジで椅子に腰掛けながら、昨夜の出来事を思い出していた。あの男は初春を土産物にすると言っていた。彼を逃がした今、奴はどうするつもりなのだろう。欲しくもないのに頼んでしまった茶菓子が、ポツンとテーブルの上に置かれている。


「彗星」


 顔を上げると、犂月が立っていた。ケイは隣の席を勧めた。


「折り入って話がある。今から僕の部屋に来てくれないか」


 犂月の部屋は綺麗に整えられていた。同じ部屋に間仕切りして居た頃よりも、ずっと落ち着いているように見える。

 二人は向かい合って座ると、どちらからともなく目配せをした。話したいことは、ただ一つだけだ。


「これを、彗星に託そうと思う」


 犂月が差し出したのは、小さな瓶だった。中にはピンク色をした桜の花弁が一枚だけ入っている。


「これは……」


 こんな物をどこで手に入れたのだろうか。ケイは思わず見とれた。何故だかとても懐かしい。


「これを、土産物にすればいい」


 犂月はケイの側に近寄ると、耳元で囁いた。


「チャンスは一度きりだ。サルビア様に近付く事が出来るのは、品物を献上する時だけ。これは、彼女のリーズンの欠片なのさ」


 ケイは思わず跳び跳ねそうになった。どうしてそれを犂月が持っているのか、見当もつかない。犂月はうっすらと笑みを浮かべ、尚且つ冷静に続けた。


「僕たちはね、彗星に期待しているんだよ。お前はまだ、匂いを残しているから。きっとリーズンに会えるはずだ。その為には、初春を助けて、サルビアから羽を奪わなければならない。年季が明けたら、なんて嘘っぱちさ。要らなくなったら地下に送られる。だから翼里兄は身請けされることを選んだ」


 匂い? ケイは目を細めて訊ねた。犂月はそっと頷く。


「女王蜂は、白い光が嫌いだ。白い光を浴びせて隙を突けば、羽は必ず手に入る。羽を手に入れたら、直ぐに真上に飛び立つんだよ。天井なんて気にしなくていいから、兎に角上を目指しなさい。そうすればきっと、向こう側へ行ける。その隙に、僕が初春を助けよう」


 ケイは初春を逃がした事をどう切り出そうかと口ごもる。しかし犂月は続けた。


「もし向こう側へ行って、他の誰かと出会ったら、ウシオを知っている人が居たら……僕は何とかやっていると、伝えておくれよ」


 その声は少し悲しそうで、切なさを含んでいた。

 ここでの掟は絶対だ。禁忌を破ってまで自分に託してきた兄者の覚悟がどれ程のものか想像して、ケイの背中には一筋の汗が流れた。一つ間違えれば、あの恐ろしい地下の世界へ落とされる。目の前の長い睫毛を見詰めると、ゴクリ、と、喉が鳴った。

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