地下の世界
見世が寝静まり、寝息が六角の部屋から漏れ始める頃、見張り番の蜂の目を盗みながら、ケイは一階にある厠へ向かっていた。雪には、多目に小遣いを握らせ、今晩の事は何を見聞きしてもしらを切り通すことと、もし自分に何かあったら犂月を頼ることを言い聞かせておいた。
出来るだけ気配を消し、足音を立てず、階段へ向かう。ブン、という羽音が聞こえてくる度に息を殺して立ち止まる。
暗闇に広がる赤黒い階段は、まるで地獄の入り口のように見えた。ケイはごくりと息をのみ、ゆっくりと一段一段足を下ろしていく。
一階は、見張りの部屋から死角がない。見付かれば怪しまれ、女王蜂に何をされるか分からない。慎重に、ガラス張りの部屋に目をやる。ちょうど、交代の時間のはずだ。この一瞬だけ、見張りは留守になる。ケイは背伸びをして目を凝らし、蜂が居ないことを確認してから、少し急ぎ足でスタスタと廊下の奥へと急いだ。通り過ぎてから、ブンブンと羽音が聞こえ、提灯の灯りが小さく動いたので冷や汗が流れたが、どうやら見張りはケイに気が付いていないようでそのまま通り過ぎ、ホッと胸を撫で下ろす。
薄暗い廊下の突き当たりに、厠がある。ケイは再びゆっくりと足を進め、静かに先を目指した。
ひんやりとした空気がいつも以上に冷たい。そのせいだろうか、この宮殿の厠は、排泄物臭さが全くしないのだ。今まで不思議に思わなかったのは、自分自身、どこかおかしくなっていたのかもしれない。
少しも音を立てないよう、静かにその引き戸を開く。
簡単に穴を空けただけの便器がある。いったいどこに入り口があるというのか。ケイは狭い中を見回すが、特に変わったところは無さそうだ。
息を潜め、耳を澄ましてみる。
しばらくすると、微かな物音が聞こえてきた。蜂か?いや、蜂ではなさそうだ。しかも、足元から聞こえて来る。
しゃがんで、便器の中を覗いてみる。さっきより、音が少し大きくなった。
(まさか、この中に飛び込むのか?)
ケイは躊躇した。けれどこうしている間に、蜂に見付かっては元も子もない。よし、行こう、と決めて立ち上がる。しかしバランスを崩し、グラッと後ろに倒れそうになったので慌てて壁に手をついたその瞬間、壁は消え、ケイの体は宙に投げ出された。
体は感覚を失い、数秒後ドシン、という物音と共に思い切り尻餅を着く。予想したより痛みは感じられず、安堵した。
そういえば、と辺りを見回すが、先程の風景とは全く違っている。しかし、もうそんなには驚かない。ここでは、どんなことでも起こってくる。
立ち上がり、着物の裾を伸ばしてから改めて視界を観察してみると、錆びた鉄扉が向こうの方にうっすらと見えた。廊下には違いないが、見世とはまるで違うコンクリートの壁に囲まれた簡素だが気味悪い空間だった。ツン、とエタノールのような臭いが鼻を突く。
(ここが、地下にある地獄……)
想像していたのと少し違うな、とケイは思う。
少しすると目が馴れてきたのか、見通しが良くなってきた。鉄扉に辿り着くまでに、幾つかの鉄格子が左右対称に並んでいる。刑務所の様で、少し違う。ケイは静かに歩みを進めた。
一つ目の鉄格子の部屋を恐る恐る覗く。しんとしていて、誰も居ないようだ。暫くそんな部屋が続いている。念のため、一部屋ずつ確認してから次へと進む。鉄扉が段々と近くなるにつれ、息苦しくなるような気がした。本当に、ここに初春がいるのだろうか……。
その時、カタン、と物音がした。ケイは慌てて振り返る。鉄格子の中からだ。
目を離さないようにして、体の向きを変えていく。中をじっと見詰める。すると、黒い影が徐々にこちらへと近付いて来た。
ケイは身を堅くしながら、それを睨み付けた。
影はやがて立ち止まり、低い声で話し始めた。
「初春を捜しに来たのか」
ケイは何も答えない。
「あいつなら、今しがた実験室へ連れていかれたところだ」
間に合わなかったのか。愕然とするケイに、影は構わず話続ける。
「悪いことは言わない。早く上に戻れ。お前はこんな所にいるべき魂ではない」
首を横に振ると、声の主は溜め息を吐いた。
「ここがいったい何なのか知りたいか?」
ケイは頷いた。
「ここは、迫害されし者の世界。要するに、除け者の溜まり場さ。世界のどこを探しても、そんな奴が存在する。苛められ、虐げられ、自分自身を棄てた者が、操り人形になる場所さ」
声は益々低くなり、唸っているように聞こえた。
「お前、見ただろう。双子や、猿や、ヤモリを」
ふと脳裏を過る。そうだ、猫が言っていた。可哀想な奴なんだと。彼らはみな一様に、悲しみを瞳に湛えていた。その理由が、ここにあるというのだろうか。
「蛇は?」
ケイは小さな声で訊ねた。
「蛇だってそうさ。蜂だって。みんなここのドクターによって産み出された、ごみくずさ」
サルビアも?そう聞き返そうとして影を凝視すると、そこには半透明の人間が立っていた。ケイは驚き、思わず後ずさる。
「私は、自分の体をずっと捜している。ずっとずっと。もう七十年くらい。あの時たまたま、あの場所に居ただけなのに、いつのまにか体は切り刻まれ、眠っている間に肉体を失ってしまった」
低かった声が次第に変わっていく。ケイと同じくらいの高さまで。
「体が無いから、ずっと檻の中。お父さんもお母さんも、僕がどうしたか知らない。分からない。寒い故郷の冬が懐かしい。帰りたい。帰りたいよ……」
啜り泣く少年を前に、どうしようもない気分になった。ケイは何だか申し訳無く思い、頭を項垂れた。
「初春を助けたいのなら、一つだけ方法がある」
少年はケイの瞳を真っ直ぐに見詰めた。
「お前、真実の目を持っているだろう。その目で全てを見詰めてみろ。そしたら答えが見付かる。リーズンにも会える。僕はここから出られないけど、お前ならきっと……」
突然、ギャー、と叫び声が聞こえた。二人は一斉に鉄扉の方を見た。
「行きたいなら行け。僕のことは気にするな」
少年はケイに古びた鍵を押し付け、再び部屋の奥へと姿を消してしまった。
鉄扉に向かい合う。汗で滑りそうになるのを押さえながら、鍵穴へと差し込むと、ケイの体は瞬く間に光に包まれた。




