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女の声

 犂月と向かい合いながら、茶を飲んでいる。

 この頃は翼里兄の思い出話に花が咲く。

 彼が去った後はすっかり花が枯れたようで、寂しいものだ。

見送りは華やかで、様々な調度品が贈られ、清々しい顔をしていた翼里。相手の持参金はかなりの額に昇ったようだった。彼から煙管を貰ったことは誰にも言っていない。


 ケイは格上げされ『雲』になり、犂月とは肩を並べる存在となっていた。二の間は彗星の物とされ、犂月は別の部屋を与えられた。初春は別の『風』の部屋子になり、ケイには世話役の『雪』が二人付いた。

 日々の生活はさして変わらなかったが、物には不自由しなくなった。新しい着物は直ぐにあつらえてくれるし、自分の好みの柄を染めや刺繍を施して貰えた。下働きの蜂達の態度も変わった。


「そういえば彗星。もうすぐ晩餐会だね」

 

 犂月が湯呑みを持ち上げながら言った。ケイは軽く頷く。


「そうだね、犂月兄。サルビア様への土産物はもう準備したの?」

 

 兄者は不敵な笑みを浮かべると首を傾げて見せた。


「さぁね。秘密だよ」


 晩餐会に出るには、女王蜂への土産物が必須だ。もし忘れたり、彼女のお気に召さないものだったりすれば、その場で折檻され、恐ろしいことになるそうだ。

 ケイは悩んでいた。彼女の為に、いったい何を準備すればいいのか見当が付かないのだ。このことは誰彼に相談してはいけないことになっているから、安易に訊けない。いわば、運試しのようなものだ。


 そういえば。犂月は、晩餐会がチャンスだと言っていた。

ケイは彼に気付かれないようにその表情を観察する。

"ウシオ"

 これだけを覚えている、と。晩餐会で、何が起きるのか。何か仕出かすつもりなのだろうか。

 まばたきの度に長い睫毛が揺れている。



 その日宮殿の中は、朝から騒々しかった。遊男たちは囁き合い、蜂の殺気立った羽音がやたらにブンブンと絶え間なく鳴る。いつもならまだ寝静まっている時間なのに皆が体を起こしていて、お客には全てお帰り願い、見世にも、部屋にも、男達と働き蜂だけしかいない。

背中に流れる嫌な汗を感じながら、ケイは様子を伺っていた。

――脱走。

兄者達の囁きから漏れ聞こえて来た言葉に、青冷めずにはいられなかった。間違いない。恐れていた事態が起きたのだ。

 麓舞がケイの側にやって来た。

 

「彗星、大変だぜ。とうとう初春が逃げたようだ。お前さんに在らぬ疑いが掛からんよう気を付けるんだな」

 

 拳を固く握りすぎて、爪が食い込む。折檻とはどんなものだろうと想像すると吐き気がした。


「警備の働き蜂が今、向こう側も手前側も探し回ってる。…見付かればきっと追放されるぜ」

 

 ケイの瞳を見詰め返しながら、軽く歪んだ口許が動く。


「そう。追放、だ」


「どけどけ!」


 ブンブンという羽音が次第に五月蝿さを増すと、大量の蜂が雪崩れ込んできた。黒と黄色の群衆の中程に、白い肌が見え隠れしている。

 あぁ、兄者だ。

 ケイは苦い溜め息を漏らした。

 群衆は続々と階段を上っていき、いつしか激しい羽音はボリュームダウンしていた。

 何事もなかったかのように厨房で食事の支度が始まる。懐かしい米を炊く湯気の匂いと、味噌汁の柔らかい香りが、いつもより遠く感じられた。待てよ、と、ケイは思う。今まで、特に疑いもせず過ごしていた。何故だろう。何故今自分は、懐かしいと感じたのだろう。

 偏頭痛のような鈍い痛みが走る。何かが頭の中の頑丈な扉をガンガンノックしているようだ。けれどあまりに扉は分厚くて、その正体は何なのか分からない。


 鐘が鳴り、いつものように見世が営業され始めた。もうすでに、先程の出来事に触れるのはタブーとなっている。あれからすぐに犂月がやって来て、目配せをした。分かっているだろう。堪えるんだ。晩餐会までは辛抱するんだ。そう物語っていた。


 珍しく、今日はいつもの馴染みが訪れない。ケイは翼里に貰った煙管を布で拭き上げた。艶やかなそれは、兄者の瞳を思い出させるような色をしていて、胸がざわめいた。初春を助けてくれと、彼は言い残して去って行った。今下手な動きをすれば、自分自身もどうなるのか分からない。行くべきか、行くまいか……。ケイはいつしか遠くに置き去りにしている心のことを思い出した。今朝のあの鈍い痛み。どうしてこんなにも迷っているのだろう。


「彗星」

 

 突然名を呼ばれ、ケイは身震いした。慌てて辺りを見回すが、誰もいない。


「私だよ」


 落ち着いて耳を済ますと、馴染みの女の声だった。しかし姿はない。


「どうしても、今日はお前に会いに行けないから、声だけで勘弁しておくれ。今日だけじゃない、明日も、明後日も……」


 意味がよく分からなかったが、頷いた。


「厠へ行きな。地下へ通じる扉がある。初春はそこに落ちた。助け出せるのはお前さんしかいない。いいかい、見失うんじゃないよ。まだ間に合うんだから。リーズンは必ず姿を現す。だから……」


 そこまで言うと女の声は消えてしまった。

 胸の奥底から、フツフツと衝動が湧いてくるのを感じる。こんな感情が自分にはまだあったのかと驚く。確か……ヤモリから花子を守った時、同じ様な思いを抱いた。もう、忘れたと思っていた。

 ハッと我に返る。今、何年目になるだろう。猫に連れられこの宮殿にやって来てから、そろそろ……。そうだ、猫だ。あいつは今、どこで何をしているんだ。リーズンを探せと言ったのはあいつじゃないか。

 ケイはふと、着物の袂を掴んだ。コロッとした物に手のひらが振れ、それが花子に託されたペンダントだと気が付くのに数秒掛かった。――迷っている場合ではない。行かなくては。


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