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決意

 松森篤は、震える拳をどうにか理性で押さえている。その向かい側で、梓は姿勢を正して椅子に座っていた。

 張り切って篤が予約したイタリアンレストランは小洒落ていて、この時間帯は仕事帰りのカップルが多い。

 白いテーブルクロスの上には一輪挿しのバラが置かれていて、水の入ったグラスには店内の落ち着いた照明の灯りが反射している。


 二人の間には、長い沈黙が訪れていた。梓は、さっき投げ掛けた言葉に対しての返事を待っている。

 もう、迷いは無かった。高村と再会してから、覚悟は出来ていた。篤には申し訳ないけれど、決心は揺るぎそうもない。


 ウエイターが、注文したワインを運んで来た。それでも二人は愛想すらせず向かい合っている。訝しげな表情を浮かべながらウエイターはグラスにそれを注いで去って行く。

 梓は、薄い唇を固く結んだ。

 突然篤がふふ、と薄ら笑いをした。梓の胸はギュッと痛んだ。


「バカみたいだよな」


 自分の顔が強張っていくのを梓は感じた。向かい側の彼の顔はとうに血色を失いかけていて、焦点が定まっていない。少し、声も震えている。


「考え直すことはできないの?」


 ゆっくりと頷くと、彼は両手で顔を覆った。そして深いため息を漏らす。眉間に皺が寄っていて、とても辛そうな表情をしている。


「ちょっと考えさせてくれよ。突然そんな事言われたって、俺、諦めつかないよ」


 申し訳ないと思う。自分だって、ついこの間までは、この人と人生を共に歩んで行くのだと信じていたし願っていたのだ。幸せで、嬉しくて。

 嫌いになった訳ではない。ただ――――。


 周りの客たちの談笑する声が、ものすごく遠くで響いているように感じる。それよりも自分の心臓の音がうるさくて、耳を塞いだって聞こえてくるはずだ。いいドキドキ感ではない。悪いことをして、叱られる前のような、そんな鼓動で全身が支配されている。

 また暫く沈黙した後、篤が言った。


「そんな簡単に、気持ちって変わるものなのかな」


 梓は何と返事をしていいか分からず、戸惑った。

 簡単ではなかった。自分なりに、大きな覚悟で決めたことだ。時間が掛からなかったというだけのことで。梓の中では十五年間変わらなかった、高村への思い。それが、何故、今なのか。運命のいたずらにも程があると思う。こうやって、篤を傷つけなくてはならないことが苦しい。でも、出会ってしまったのだ。

 静かに深呼吸すると、梓は言葉を探した。しかし、選んだ言葉では伝わらないかもしれないと思い留まる。正直に話そう。自分の気持ちを、そのままに。


「今自分に嘘をついたら、私きっと、一生後悔しながら生きていかなきゃならないと思う」


 篤の表情が固まった。彼の視線の先では、ワイングラスの表面が波打っている。

 傷つけた。間違いなく。彼を愛したことは嘘ではない。でも、今の私は……。

 梓は続ける。


「十五年間、高村さんを忘れたことは一度も無かった。だけど、記憶の隅に封じ込めようとしていた。今でも好きなの。――あなたのことを愛したのは、本当だよ。その日々に嘘なんてこれっぽっちもない。こんな私だもの。嘘なんて吐けないよ。でも、今。私は自分の幸せを全て投げ出したって、高村さんを支えたいと思っている」


 整った眉を上げ下げしながら篤は梓を見ている。そして、首を少しだけ傾けた。


「そんな境遇の人をどれだけ君が支えられる? ただ、看護師としての使命を燃やしているだけなんじゃないか? それに、きっと不幸になるよ。いくら愛しても、結婚出来ないかもしれない。ご両親だって心配すると思う。共倒れになる前に、身を引いた方が懸命だと思う。サポートならいくらでも出来るじゃない。俺だって協力するよ。」


 仄かに彼の口元が緩む。


「そんな男に、君を譲れない。……同情を、愛情と勘違いしているようにも見える」


 梓は目を閉じた。


「だとしても」


 開かれた唇は、ハッキリと動いた。


「もし勘違いだとしても、私は今、高村さんの為に生きる道を選びたい。たとえ身の破滅だとしても。両親や周りがどんなに反対しても。これからどんなに貧乏してもいい。お願い、篤さん。別れて下さい」


 時が止まったように感じるほど、静寂が包んでいる。

 篤は梓の真っ直ぐな目を見詰めた。梓も、それを見返す。ごめんなさい。本当にごめんなさい。


 ふう、と大げさに溜め息を吐いて見せたのは篤だった。梓は肩に酷く力が入っていることに気が付いた。


「決心は固いんだな」


 梓は目で頷く。


「悔しいけど、どうしようもないね」


 その声がとても悲しそうで、梓は心に痛みを感じた。

 篤が手を上げてウエイターを呼び止めた。黒いスーツを着こなした若いウエイターがテーブルの隣で足を止める。


「一番高いコースを頼むよ」


 えっ、と思わず梓が声を上げると篤は微笑んだ。とても整った顔立ちだった。

 ウエイターが立ち去ってから、彼は言った。


「応援する。君を愛してるから。好きでいるぐらいいいだろ。もしもその男が嫌になったら、いつでも戻っておいでよ」


 困った顔をした梓を見て、篤はハハハ、と笑う。


「嘘だよ。そんなにすぐ吹っ切ることは出来ないだろうけどね。謝らないでくれよ。絶対に。みじめだから。――僕は医者として、一人の大人として、社会復帰のお手伝いさせて貰うことにする。何か困るようなことがあったら言って欲しい。」


 思わず、目頭が熱くなった。


「ありがとう。梓」


 梓は涙をハンカチで拭った。

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