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頼みごと

 翼里に呼び出され、ケイは二の間にいる。長く世話になっているが、垢抜けた男振りと佇まいは未だに傍に寄るものを緊張させる。


 襖の向こうで胡座をかき、口許にはうっすら笑みを浮かべた兄者は、何故かいつもと雰囲気が違った。

 呼び出されたのは、ケイだけで、部屋子の犂月も初春もいないようだ。

 ケイはどう振る舞えばいいか分かりかねていた。二人きりになるのは、初めての御守り以来だった。

 その御守りは、今は別の弟分の『雪』が勤めている。

 無言のまま少しの時が経ち、翼里はケイの目の前に煙管を置いた。

 ケイは驚き、そこから視線を外せない。


「この翼里、身請けされる次第に御座います」


 兄者は両手をつき、丁寧に御辞儀をした。


「この世に迷い込んで早百年。様々な業を積み重ねて参りました。リーズンとはぐれ、いつの間にやら遊男に身を堕とし、女王蜂にこき使われ、気が付けばここも悪くないかと思うようになりました。翼里は、この世に身を置き続けることを決めました」


 ケイの喉がゴクリと鳴った。

 ランプの炎が揺らめいている。


「や、やめてくださいよ、翼里兄」


 翼里は華麗に微笑むと、たれていた頭を上げた。そして、ケイの傍へとにじり寄ると、その手をケイの手に重ねた。


「彗星。俺は一週間後、西の果てにある屋敷の、ある奥方に身請けされることになった。サルビア様にこの話を頂戴した時には、迷ったんだよ、正直。身請けされると言うことは、もうリーズンを追わないということ。一生この世に身を堕としたまま生きていくということなのさ。それは、人生と決別するということだ。もう生身の身体に戻ることはねぇ。だがな、決めたのさ。今更リーズンと再会したところで、白い虹になって消えちまうくらいなら、たとえ形がなくなろうとも、永遠にこの世を彷徨うことも悪かぁない、ってな」


 ケイは、恐ろしいことを聞いてしまったような気がした。もう、ここでの生活も長く、最近はここの住人になりきったような気がしていた。……違う。そうではない。自分は、どこかからここへやって来た者なのだ。


「そこで、お前さんに頼みがある」


 小声になった翼里は、切れ長の目でしっかりとケイの眼を見詰めながら唇を動かした。


「初春のことなんだが」


 背筋に冷たいものが流れていく。もしかして、麓舞が言っていたことだろうか。


「初春は、可哀相な男だ。あいつもお前と同じようにここへ流れ込んで来た。そして、筆下ろしのその日。あいつは自分のリーズンに会っちまったのさ。何の覚悟も前触れも無く」


 なんとなく、犂月から聞いたことがある。ケイは、真剣な表情で翼里を見返した。


「このことは内密にされている。俺と犂月しか知らねぇことだ」


 ケイは、座敷に上がるよう促され、翼里の脇に腰を下ろした。ふんわりと、花の香りがする。


「筆下ろしの相手と言うのが、初春のリーズンだった。あいつは精神が不安定なまま、自分の壮絶で忌まわしい記憶を全部見ちまったのさ。それはとてつもなく苦しいものだった。あれ以来、人の心を失くしてしまっていた。」


 翼里は、珍しくキセルを吹かしていない。


「だがな、お前さんに会って、何かが変わったようだ」


 ケイの頭の中は疑問で一杯になった。


「あいつ、近頃、こっそりと宮殿を抜け出しているようでな」


 やっぱり。麓舞が言っていたことは本当だったんだ。


「そして、隠れて女に会っている。」


 女? ケイは自然としかめ面になっていた。いったい、危険を犯してまでどんな女と会っているんだろう。


「サルビア様に見つかれば、地下行きに、追放だ。晩餐会の肴じゃ済まされない。」


「追放……」


 翼里は頷く。


「彗星よ。どうか、俺の頼みだと思って聞いてくれ。あいつも、可愛い弟なんだ。木偶の坊なんかにされちゃ可哀相だろう。お前には、まだ浮世の香りが残っている。あいつは一度地下に行っている。二度目はねぇ。次は追放だ。……あいつが地下に引きずり込まれそうになったときは、お前の“真実の目”でどうにか助けてやってくれ」


「真実の目?」


「そうだ。お前は持っているはずだ」


 ケイは良く分からなかったが、とにかく頷いた。自分に出来ることなら、したい。初春を助けたい。


 翼里は、煙管を手に取ると、柔らかい布で綺麗に拭き上げ、愛しそうに眺めた。彼がここへやって来たときから長年使い続けたそれには年季が入っていて美しく輝いている。


「これをお前さんにやるよ」


 ケイは驚いたが、嬉しくて頬を赤く染めた。そっと手を伸ばす。

 ひんやりとした煙管の重みが手のひらに伝わった。


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