花子の夢
「あ、先生、見て」
花子が空を指差した。
紫色に、点々と白い染みが見える。そして少し経つとそこから薄い虹のような線が広がった。
花子とモグラは診療所の入り口で並びその光景を眺めている。
「羨ましいですね。あんなふうに、真っ直ぐに昇って行けたら」
花子が目を細目ながら言った。
「誰かを羨むもんじゃないよ、花子や。羨めば羨むほど、がんじがらめになるものじゃ」
モグラも、色眼鏡の奥にある目を細目めた。
線がゆっくりと消えていく。
あれから花子は、ケイのことばかり気にしている。
女王蜂の元へ行くと言っていた。無事辿り着いただろうか。やはり彼も、身売りさせられているのだろうか。――かつてのヤモリと同じ様に。
ケイのお陰で顔の浮腫が消えたのは、本当に不思議だった。幾年も悩まされ続けていた醜い顔は、原型を取り戻した。そのお陰で、心が軽く、明るくなったような気がする。自分では立ち直れないほど傷付き、歪んでいた。しかし、そうさせているのは自分自身かもしれないと、あれから思うようになった。病気はとっくに治っているのに症状が治まらないなんて、変だ。
ケイには、一刻も早く早くリーズンに会って欲しい。期限切れになる前に……。
「花子、そろそろ診療所へ戻ろうか」
「ええ、先生」
もう何年ここにいるか、数えなくなったのは何時からだろう。そして、リーズンに会うことを諦め始めたのも。花ばかり積んで、先に進もうとしないのは何故だろう。自分が消えてしまうことを恐れているからなのか。歪んでも汚れていても、その存在を感じていたいからなのか。
先生だってそうだ。どこでもないここに医者として自ら存在しているのは、モグラに姿を変えてまで傷薬を塗り続けるのは、きっと、自分が自分であり続けることに意味を感じているからだろう。
リーズンに会いたいか。
もう今さら会えたところで、光を浴びることは出来ないし、さっきの虹のようになって、紫色の空に吸い込まれてしまうだけだ。でも、多分。ここの住人達は何かとても大切なものを忘れてしまっている。未来を受け入れるということは、凄く力が必要なことだ。負担が掛かる。けれど受け入れなければ何も変わらない。運命に飛び込んで行かなければ、命は決して光輝くことは無い。
そんなこと、とうの昔に忘れてしまっていた。いや、忘れようとして、忘れたのは、苦しむのが辛かったからだ。醜い自分の姿を鏡に映すのは誰だって勇気のいることだ。――あの少年は、どうだろう。惰性に流れ、堕ちてしまっているのだろうか。それとも……。
花子は、胸の中に温度を取り戻しかけている。
モグラはスタスタと階段を降りていく。その後ろを追いながら、そっと浮腫が消えて滑らかになった顔の右目に触れてみた。
(彼に渡して良かった)
心の中で呟く。
いつの間にか、花子の右目は義眼になっていた。
その日、花子は珍しく眠り、夢を見た。
幼い自分は家族から引き裂かれ、知らない場所で集団生活している。本当に時々、母親が面会にやって来て、心配そうに帰って行った。恋しくて、毎日泣いている。
身体は日々病に蝕まれ、悪い栄養状態の上に作業で酷使され、十四歳で死んでしまった。
家はどうなったのだろう、と様子を見に行くが、あったはずの場所には何もない。あぁ、きっとどこかに引っ越してしまったのだろう、と思う。悲しみよりも、自分のせいで家族が辛い思いをしたのだなと、自らを強く責めた。
私さえいなければ。
死んでも死に切れない。悔やんでも悔やみ切れない。
いっそのこと、悪魔にでもなってしまった方がいい。でも――。
最後に一度だけ、お母さんに会いたい。
そこでフッと夢は途切れ、花子は目を醒ました。
隣ではモグラが草花を磨り潰し、薬を調合している。甘酸っぱい香りが部屋に充満していた。
「よく寝ておったの」
いつもの調子でモグラが言う。
あぁ、この香りのせいだ。これは、私のリーズンの欠片。懐かしい、果物のような香り。
「先生、私……」
言いかけて、花子は口を噤んだ。今さらリーズンに会いたいだなんて、畏れ多くて言えない。猫の言葉を最後まで信じなかったのは自分なのだ。
「先生。私、お腹が空きました。食事をしませんか」
モグラはフォッフォッと笑い、何か作っておくれ、と言った。
花子はにょろにょろと部屋を這いながら、台所へと移動した。




