後戻りは出来ない
目の前に座っているのは、本当に吉井なのだろうか。 梓は夢を見ているような気分でいた。
雨が強く、立ち話も何だからと強引にさっきのカフェに連れ込んだ。そして今向かい合って座っている。
彼は、一言も喋らない。それに、何だか暗い。
「元気だった? 偶然だね。まさかこんな所で会うなんて」
そうだな、と相槌を打つと、目の前のブラックコーヒーに手を伸ばした。
大きくて、優しい手だと思った。あの頃よりずっと逞しい。
私たちは、大人になったのだ。
「今、何してるの?」
梓が訊ねた。吉井は答えにくそうに口ごもった後、静かに「土木関係」と呟いた。それにしては、筋肉の着き方が優しいような気がする。まぁ、元々が華奢だったから、こんなものかもしれない。
「入江は?」
梓は慌てた。質問されて、ドキドキしてしまった。名字で呼び捨てにされるなんて、いつぶりだろう。中学生時代に戻ったような気がする。
「私ね、看護師してるんだ。しかも、そこの病院。だからびっくりしちゃった」
吉井は一瞬目を見開いて驚いたが、すぐにまた憂いを含んだ表情に戻り、少しだけ笑った。梓は、胸をギュッと鷲掴みにされるような感覚を覚えた。そうだ。この笑顔が、私、大好きだった。
「入江らしいね」
「そ、そうかな」
頬が、紅くなっていないだろうか。胸の音が、聞こえてはいまいか。
「吉井くん、具合でも悪いの?」
「なんで?」
「病院にいたから……」
吉井は俯き、眉間に皺を寄せた。変わらない癖に、少しホッとする。
きっと、何か言い出しにくいことでもあるのだろう。不味いことを聞いてしまったかもしれない。梓は黙り混んだ。
気まずい空気が流れる。再会が全て感動的で、美しいものだとは限らない。十五年も年月が過ぎているのだ。お互い、変化があって当然だ。私は、彼が去った理由すら知らないのだから。彼を知ろうだなんて、思ってはいけないのかもしれない。
カップの中味に映る自分が、酷く情けなく見えた。
「結婚は?」
突然の質問に、梓は思わず顔を上げた。
「結婚はしてないの、入江は」
何と答えていいか分からず、口がパクパクしてしまう。
吉井の奥二重に見詰められ、梓は本当のことを言えなくなっていた。
“婚約者がいるの”
喉で言葉がつっかえる。
「結婚はしてない。吉井くんは?」
やっとで選んだ台詞を、どうにか口にする。
「してないよ」
彼の唇が動いた瞬間、物凄くホッとしてしまった。そして、予想外に喜んでいる自分を感じた。
突然彼は立ち上がり、テーブルの上のレシートを取った。梓は慌ててそれを追う。椅子がガタリと音を立てる。
「ど、どうしたの?」
何か、気に障ることを言ってしまっただろうか。
彼はさっさと会計を済ませ、店の外に出て行った。
紺色の傘が開く。
「待ってよ、ごめん、何か変なこと言った?」
足早に歩き出した吉井を梓はずぶ濡れのまま追い掛ける。
傘が立ち止まり、振り向いた。そして目一杯悲しげな顔をして
「入江、俺には関わらない方がいい。……会えて良かったよ。サヨナラ」
と告げた。
酷い。まただ。突然のサヨナラだ。どうしてそんな風に言うの。
雨の中に消えていく彼を見ていた。信号が、赤に変わる。目の前を車がビュンビュンと何台も通り過ぎていく。胸の奥から、やるせない痛みが込み上げてきた。今すぐ追い掛けたい。でも、追い掛けるということは、始まってしまうということだ。このまま、一時の夢だと思って手を振れたらそれでいいのではないか。サヨナラは、もうとっくにしている。
信号が再び青に変わった。
梓は走った。
小さく、彼の背中が見える。
今ならまだ触れられる。
後悔などしない。決して。
「吉井くん!」
紺色の傘が宙に投げ出される。バシャン、と音を立て、二人は地面に倒れこんだ。
「い、入江?」
驚く彼に思い切り抱き付く。もう離さない。絶対に離したくない。
暫く戸惑っていたが、吉井も梓の背に手を回した。冷えた体に温かみが伝わった。
雨音が、激しく心に打ち付ける。
「一人になろうとしないでよ」
蚊の鳴くような梓の声に、吉井は抱き締める腕を更に強くした。二人の長い空白が、少しだけ埋められる。
もう、後戻りは出来ない。




