紺色の傘
朝から、雨が降り続いている。
梓は傘を差すと、濡れないように気を付けながら水飛沫の中へ入っていった。
夜勤明けで、眠気が襲ってくる。駅までは歩いて十分ほど。小腹が空いたので、途中のカフェに寄ることにした。
落ち着いた店内には静かにジャズのBGMが流れ、黒いエプロンを着けたウエイトレスが二人ほどでフロアを廻している。窓際の席に案内され、梓は腰を下ろした。
熱いカプチーノと美味しそうだったオレンジのタルトを思わず注文し、頬杖を吐いて辺りを眺めた。
今日も宮本は302号室で、ひたすら時の過ぎ行くのを待っていた。無理もない。とても辛いはずだ。
ウエイトレスが注文の品を運んで来た。カップからふんわりと湯気が上がっていて、香りが疲れた胃に沁みていく。
梓は溜め息を吐いた。
今日は、熱いコーヒーが飲める。――あれから忙しく、篤との都合も合わなくて式場には行っていない。というのは建前かもしれない。あの日受けた衝撃は、確実に梓の心を掻き乱している。自分でも、どうしようもないくらいに……。
ホテルの玄関で見掛けたあの男性は、多分、彼だ。忘れられない、思い出の中だけの、あの少年だ。大人になっていたけれど、私には分かる。間違いようがない。間違えるはずがない。もうあれから十五年は経つ。馬鹿馬鹿しいといえば、馬鹿馬鹿しい。でも、こんなに近くにいるのなら、もう一度ぐらい会えるかもしれない――。
梓は火傷しないようにそっとカップに唇を当てた。いい香りだ。すこし濃い目だけど、美味しい。
カプチーノとタルトを胃の中に片付けると、すぐに立ち上がり会計を済ませた。外はまだまだ雨が降りそうだ。どしゃ降りとまではいかなくても、そこそこ降っている。
梓は傘を差す。視線を上げると、正に、願っていた奇跡が起きてしまったことに気が付き、身体が硬直した。
無数の糸が降り注ぐ向こう側に、彼が、いる。全てがスローモーションになり、サァーという雨音さえもフェードアウトされていく。
彼は、病院に向かって歩いていく。梓には気付いていない。どきまぎしながら後を追う。
エントランスに到着すると、彼は立ち止まって動かなくなった。何かを思い悩んでいるように見えた。背中が、迷いと哀しみの色をしている。家族か知り合いでも入院しているのだろうか。それとも、自分自身具合が悪いのだろうか。
十分ほど彼はエントランスに立ち尽くしていたが、くるりと向きを変え、出口に向かってトボトボと歩き出した。梓は慌てて身を隠す。
彼は紺色の傘を差し、雨の中へ消えていこうとしていた。
これで、いいのだろうか。このままサヨナラをして。また来るかもしれない。でも、もう会えないかもしれない。声を掛けたい。話をしたい。けれど――。
今彼を呼び止めるということは、何かが大きく変化してしまうということだ。それはきっと、幸せを失うことに繋がる。
一瞬、迷った。しかし、頭で考えるより先に梓の身体は走り出していた。
「吉井くん!」
紺色の傘は動きを止めた。
「待って!」
ゆっくりと振り向く。
足下はずぶ濡れで、メイクも落ちかけている。十五年ぶりの再開には、決して相応しくない状態だった。それでもいい。
梓の胸は高鳴る。
「入江、さん?」
あの頃よりも、低く、深い声が切ない記憶を手繰り寄せた。




