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初春

 翼里の座敷にやって来たのは太り気味の女で、肩まである金色の髪を中世ヨーロッパの姫のように巻いていた。御世辞にも美しいとは言えなかったが、裕福だということは一目でわかる。女はケイに少しばかりのチップを渡した。困惑するケイに翼里が「必ず必要になるから取っておきな」と言ったので、ケイそれを懐に仕舞った。


 襖をゆっくりと閉める。そのすぐ前に座り、翼里の身に危険がないように番をするのが雪の勤めだ。ケイは体を強張らせながら、これから始まる事をどう受け入れたらいいか考えてみる。そして、今すぐにでも逃げ出したい気持ちと、中を覗いてみたい気持ちが交錯し、頭が痛くなりそうだった。


 翼里が女に甘い言葉を囁き、女はそれを悦びしなだれかかる。そうして事が始まってしまった。女の喘ぎ声と、翼里の息遣いが隣室から生々しく流込んでくる。ケイは自分の中で膨らんでくるものを押さえることに精一杯だった。羞恥心が全身を支配する。侮辱されている気さえする。あぁ。こうして尊厳が食べられていくのか。花子の言っていた言葉が頭を過ると、涙が出てきた。

 ケイは一晩中襖の前で啜り泣いていた。


 初春に連れられて食堂へ行くと、沢山の着物姿の男たちが朝食を取っていた。ケイは久しぶりに空腹を覚えていたので、給仕をして初春の隣に腰掛けた。

 茶碗には白飯、漬け物、温かい味噌汁が盛られている。何だか、酷く懐かしい。

 勢いよく食べるケイを見て、初春がにこやかに笑う。


「しっかり食べなよ」


 きっと、初春はケイの気持ちを何もかも分かっているのだ。同じ思いをしたに違いない。けれど、彼は笑っている。辛いのを通り越してしまったのかもしれないなと、ケイは思った。


「大丈夫だよ。いつか出られるから」


 心の中を読み取られたようで、ケイは恥ずかしくなった。

 その言葉は、彼自信に言い聞かせているようにも聞こえた。

 ふと思う。皆、どこを目指しているのだろう。ここを出て、行き先はあるのだろうか。


「あの、初春兄さん」


「珍しいね。君から口を開くなんて。どうしたの?」


「僕、リーズンを探さなくてはいけないんですけど、ここにいれば見付かるんでしょうか」


 初春から笑顔が消えた。物憂げな瞳が物語っている。やっぱり、猫に騙されたのだろうかと、ケイは悲しくなった。皆の言う通り、猫は、信用してはならない奴だったのか。だとしたら、引き返せない者はいったいどうやって過ごしていけばいいのだろうか。永遠にここへ身を落とすか、それとも花子やヤモリのように姿を変えられながらも、望むように生きる道を選べばいいのかーー。


「僕も、ずっと探しているんだ」


 以外な返答にケイは不意を突かれる。


「ここにいる人は、みんなそう。リーズンを探して、会えなくて、がんじがらめになってる」


 初春は立ち上がり、まだ半分も食べていないのに食器を片付け始めた。

 ふと手を止める。そして、ケイを見据えて言った。


「いいかい、余計なことは考えずに、きちんと働くこと。君はサルビア様に雇われているんだ。勤めを怠ってはいけない。年季明けまでは、辛くても、苦しくても、弱音を吐かずに頑張るんだよ」


 それだけ念を押すと、食堂を去って行った。


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