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ワイングラス

「おはようございます」


 入江梓(いりえあずさ)が302号室のドアを開けると、宮本祐治(みやもとゆうじ)が窓の外を見詰めていた。梓の会釈にちょっと遅れて宮本も挨拶を返す。

 空は絵の具で染めたように蒼く、白い鱗雲が均等に棚引いていて季節を感じさせる。


「すっかり秋ですね」


 梓が体温計を取り出しながら語り掛けると、宮本は無言でそれを肯定した。

 ベッドの脇には白い花瓶が置かれていて、中には白とピンクのコスモスが数本刺されている。梓は、コスモスが好きだ。

 てきぱきと仕事をこなしていく彼女を、宮本は静かに見詰めた。


「いつも、ありがとう、看護婦さん」


 聞き取れるか聞き取れないかの小さな声で言った。梓は、優しく微笑む。


「いいえ、私にはこういうことしか出来ませんから。――変わりないですね。何かあったらナースコールして下さい」


 宮本は小さく頷く。梓は頭を下げると血圧計や体温計を乗せた銀色のキャスター付きの台を押しながら退室した。




「どうしたの? 浮かない顔して」


 松森篤(まつもりあつし)はフォークで、目の前の皿に切り分けた孔子の赤ワイン煮を刺して、口に運びながら梓に言った。


「なんでもない。ごめん、変な顔してた?」


 取り繕うように梓は手を動かし付け合わせの小ニンジンのグラッセを口に運んだ。サーモンピンクのルージュが引かれた薄い唇が咀嚼に合わせて控え目に伸びたり縮んだりする。篤は幸せな気分になった。


「式場、いつ予約しに行く?」


 手元のワイングラスの中の赤紫に店内の照明が反射している。タンニンが強めのしっかりした味わいのワインはフランス産で、なかなか値が張る。この店のソムリエが料理に合わせて選んだ物だ。


「うん……。早目がいいよね」


 梓の左手の薬指には、小振りで上品なダイヤモンドの指輪がはめられている。医者と結婚するということで、周りにはかなり羨まれている。篤は院内でも人気で、背が高く、整った顔は俳優並みだし、形成外科には彼目当ての患者もいるくらいだ。腕もなかなかのもので、将来の有望株として院長にも可愛がられている。真面目で、非の打ち所のない、立派な人。未だにどうして自分を選んでくれたのか梓は疑問に思うことがある。平凡で、仕事だけが生き甲斐の、只の看護師を。


「ねぇ、篤さん。私、結婚しても仕事続けていいんだよね?」


 今までにこやかだった篤の表情が、少し曇った。


「どうして?」


「ちょっと気になる患者さんがいるんだけど……。」


 少し間考え、篤は真っ直ぐに梓を見た。


「ダメだとは言わないけど、あんまり嬉しくはないな。けど、気になる患者がいるなら、どうにかその人がきちんと待遇して貰えるよう配慮するよ。安心して」


 どう受け取っていいか判らず、不確かな笑顔を作った。それは結局、辞めて欲しいということ? 聞けないまま、食事を再開する。


――こんな時、彼なら何と言うだろう。


 梓は、初恋の人を思い出していた。

 中学の時、初めて本当の恋をした。付き合って半年過ぎた頃、彼は家庭の事情で突如転校して行った。それきり連絡もなく、音沙汰もない。あまりにも唐突な別れだった。――すごく、好きだった。それに気が合った。彼は今頃、どこで、何をしているのだろう。会いたくて会いたくて、胸がはち切れそうになった日もある。けれど今では、懐かしい思い出だ。


「石田医長にも、一応予定をお伺いしとくよ。来週には式場見て回ろうよ」


 そうね、と返事をした。しかし梓の胸には、モヤモヤとしたものが渦巻いている。やはり患者を受け持ったからには、きちんと責任を果たしたい。担当を外されるなら仕方ないけれど、一身上の都合というもので途中辞めにはしたくないのだ。それに、どうしても気になる。虫の報せというのか、第六感というのか。もうしばらく、302号室の患者を見守っていなければいけないような気がしている。あの宮本祐治のことも気がかりだ。言葉でどう説明すればいいか……。ましてや今篤に伝えたところで、簡単には分かって貰えないだろう。前に言われたことがある。結婚する相手には、家庭に入って僕をサポートして欲しいと。

 来週。来週までに、気持ちの整理をしよう。結婚は覚悟だ。私は一生篤さんの女でいることを誓うのだから。

 梓はワイングラスに映る自分に言い聞かせた。


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