春の木漏れ日
春――
桜の花の咲く季節。
あれから十年、クリストファーは二十歳になった。
数学が得意だったクリスは、ニューヨークのカレッジでコンピュータエンジニアリングを学んでいる。将来就職しやすいだろうことも考慮してこの学科にした。学費は決して安くない。二十年支払いの学生ローンを組み、授業が無い時間はバイトを掛け持ちし、なんとか生活をしている。
母親のカトリーナは、クリスが高校を卒業すると同時に新しい彼氏と念願のフロリダへ引っ越していった。以来クリスはカレッジの近くにルームシェアをして暮らしている。
ルームメイトはカレッジの掲示板で見つけた同い年の男性で、ニューヨークの生活を学校以外で満喫するタイプだった。授業には滅多に現れず、クリスとシェアするアパートにもほとんど帰ってくることはない。おかげでクリスは一人の時間を有効に使うことが出来た。たまに帰ってくると騒がしい男だったが、月の半分以上不在なのに、家賃をきっちり半分払ってくれるのはとてもありがたいことだった。
飼い犬でかつ親友のトミーは高齢だがまだまだ元気で、今もクリスと一緒に暮らしている。
「トミー、行ってくるよ。留守番よろしく」
木曜日の朝、七時半。
クリスはトミーの散歩をし、ドライフードにミルクをかけた朝ごはんをあげる。自分にはミルクと砂糖をたっぷり入れたコーヒーと、トーストしたベーグル。今日は朝から実習がある。いつもより早めに家を出た方が良い。
トミーは毎朝玄関にクリスを見送りに来る。室内用サンダルからブーツに履き替えるクリスの足元で、トミーが行儀良くお座りをしている。そんなトミーにクリスは、玄関に備え付けてある缶から犬用クッキーを取り出し、一枚与える。毎朝の日課だ。
外に出たクリスはコートのフードを被った。空はクリアーだが北風が冷たい。
ニューヨークの三月は、まだ冬の寒さを引きずりながらも春の到来を予感させる、隙間のような季節だ。
ブルルルル。
携帯のバイブレーションが鳴った。
クリスは型の古いスマートフォンをポケットから取り出す。
母親からテキストが送られていた。
“今週末はバケーションでカンクンに行ってくるの。今からすっごく楽しみ。クリスもビーチとか行ったら?”
クリスは深呼吸をし、返信をタイプする。
“いいね、楽しんできて。ケンによろしく”
ケンというのは母親のカトリーナが今同棲している相手だ。結婚する気はないらしいが、そこそこ金持ちらしく、カトリーナを連れてよく旅行にでかけている。
以前、ルームメイトのフェルナンドとめずらしく夕飯を一緒に食べている時に、母親から電話が入ったことがある。その時も旅行に行く、楽しみだという話を一方的にしていた。その会話を聞くともなく聞いていたフェルナンドに、そんな旅行にしょっちゅう行く金があるなら生活費でも送ってくればいいのにな、と言われたことがある。
確かにそう思はないことはない。
しかしカトリーナは、シングルマザーで苦労して息子を育てたという自負があり、旅行や全ての楽しみは、その苦労の代償として当然自分が独占するものだと信じている。血を分けた息子へ、自分が享受しているものを分け与えるという発想は全くないのであった。
要するにカトリーナは自分が一番かわいいのである。全ての物事の中心は自分であり、他人に何かをしてもらうのは当然だが、他人に無償で何かをしてあげることはない。この他人には息子であるクリスも含まれている。よってカレッジに通う一人暮らしの息子に仕送りをしようなどという発想は、思いもよらない発想なのだ。更に厄介なのは、自分のステータスをだれかれ構わずアピールせずにはいられないというところであろう。
こんなカトリーナであったから、平日の朝一番で、息子に旅行へ行くことを宣言したりするのだ。
日々の生活でカツカツのクリスは、旅行にでかける金などもちろんない。そんな状況を想像してみることもないカトリーナである。
二十一年間そういった母親のもとで育ったクリスは、自己中心的な母親からのテキストも流せる。どう対応すれば良いのかはわかっている。
ただやはり寂しさは少しだけ感じてしまう。
午前中の実習も無事に終わり、クリスは学校の近くの公園にランチを食べに来た。お金を節約するために、基本三食自炊である。朝の冷たかった空気もいくらか温まり、太陽の日差しも手伝って、公園は居心地の良い空気が流れていた。
海沿いの公園は少し小高い丘になっていて見晴らしが良い。冬の名残を残す少し茶色い芝生と大きな樫の木。緑の葉はまだ茂っていない。クリスは丘のてっぺんにある、自由の女神が小さく見えるベンチに座り、デイバッグから紙袋を取り出す。
ハムとチーズだけのサンドイッチとりんご一つ。そして水筒にはミルクと砂糖がたっぷり入ったコーヒー。毎日同じメニューであったが、食べ物にあまりこだわりのないクリスには十分な内容だった。
ぼんやりと海を眺める。小指の先ほどの大きさに見える自由の女神。
あんなただの大きな銅像が自由を象徴するなんて、少しだけ面白い。そしてその銅像を見るために世界から人がやってくるのも、なんだかばかばかしい。でも観光地なんてそんなものだろう。なんてことないものに意味をつけて人を集める。
(でもそれで経済が回るんだもんな......)
自分がネガティブな思考回路になっていることに気がつき、軌道修正しようとする。午前中の実習はなんの問題もなかった。むしろ楽しいものだった。気にしていないつもりでも、朝の母親からのメッセージが心の中で、小さなしこりになっているのだろう。
(俺もたまには旅行くらい行ってみたいや)
手に持っていたサンドイッチを横に置き、大きく伸びをする。
「あの、横、空いてます?」
「えっ、あ、はい」
長細いベンチの右側が空いていた。クリスは左の端に座っている。
思いきり口を開けて欠伸をしていたクリスは、慌ててりんごの入った紙袋を自分の方へ寄せる。
「どうもありがとう。この場所、眺めが良くていいですよね」
冷たくは無いがきりっとした声。どこかで聞いたことがあるような気がする。クリスは声の主を見上げた。
背の高い、細身の女性が立っていた。
「……コリンズ先生......?」
「あら……もしかしてクリストファー君?」
「はい、クリストファーです。クリストファー・ディッケンです!」
二人は思わぬ再会に、驚きと喜びの表情を浮かべる。
「あらぁ、なつかしいわね。卒業してから何年経つかしら?まだブルックリンに住んでいたのね」
「はい、まだブルックリンに住んでます。前とは違う場所だけど。あ、この公園の近くなんですよ、僕のアパート。カレッジの近くに引っ越したんです」
「この近くのカレッジ......ああ、シティーテックに行ってるのね。そういえばクリストファー君は算数が得意だったものね」
「はい」
「そっか、もう大学生なんだ。私も年を取るわけだわ」
「先生、全然変わりませんよ。すぐにコリンズ先生だってわかりました」
「はは、そういうお世辞も言えるようになったのね、ありがとう。コリンズ先生なんて堅苦しいから、ソフィアでいいわ」
「あ、はい。では、ソフィア......あの、僕のこともクリストファーでなく、クリスと呼んでください。」
クリスは、クリストファーという正式な名称で呼ばれると、母親の奥の見えない暗い眼を思い出してしまう。自分をクリスではなくクリストファーと呼ぶ時、カトリーナはいつも憎しみのこもった瞳でクリスのことを見つめていた。その記憶から、クリスはクリストファーと呼ばれることを避けていた。
そんな事情を知ることもないソフィアは、軽く微笑むとクリスの横に腰掛けた。
それにしても外見は昔とさほど変わったイメージはないが、こんなに物腰の柔らかい人だっただろうか。学校ではいつも厳しく、生徒からはどちらかというと恐れられているタイプの教師だった。
「ソフィア……今も同じ学校にいるんですか?」
「教師はね、3年前くらいに辞めちゃった。今は会社勤めよ」
「え、先生を辞めてしまったんですか?なんでまた?」
「そうね、色々理由はあるけど、うーん、信念が揺るいじゃったのかな。いろんな生徒がいるし、ああ、親御さんもね。私は考えて正しいと思うことをやっていたんだけど、それがなかなか理解をしてもらえなかったりして。自分は生徒の役に立ってるのか、自分のやり方は本当に正解なのか迷いが出てしまってね。それでいったん教師生活からは離れることにしたのよ」
「......そうでしたか、それは残念です」
「あら、ごめんなさい!久しぶりに再会したのいきなり重い話だったわね。クリス、ランチ中?私も今日は少し暖かいし、久しぶりに外で食べようと思ってね」
ソフィアは膝の上に乗せた紙袋を開ける。
「クリスはどう?学校生活楽しい?」
「あ、はい」
「大学生活かぁ。もう十五年も前の話だわ」
「えっ、十五年って……ソフィアってまだそんなに若かったんですか?」
「あら、失礼ね。これでもまだ三十五よ」
「ああ、ごめんなさい。年のことを言うなんて、本当に失礼しました」
「あはは、いいのよ」
クリスは単純に驚いた。ソフィアの生徒であった十歳のクリスにとって、大人は皆同じように大人で、二十代も四十代も区別がつかなかったのではるが、そんな中でソフィアは厳格な教師だったためか、母親よりも更に年上だと漠然と思っていたのだ。
言われてみるとクリスの母親よりもずっと若いことがわかる。肌も張りがあるし、白髪も見当たらない。
「すみません、失礼ついでに言うと、ソフィアが僕の先生だった頃はまだ大学を出たばっかりだったんですね。そう考えると、今の僕とそう年は変わらなかったわけで……うわぁ、先生、凄く大人でしたね」
「そうよ。頑張って大人ぶってたからね」
二人は笑い合う。
「ソフィアは学校の先生達の中でも厳しかったから、周りの生徒は結構怖がってたんですよ」
「知ってるわ」
「でも僕はちょっと違う風に思ってました。確かにソフィアは厳しかったんですけど、でもその厳しさは皆に平等に向けられてて、凄く公平でしたよね。僕はソフィアのそういうところがいいな、と思ってました」
「……クリス。凄く素直に成長したのね」
「……えっ?」
「安心したわ」
ソフィアはそう言うと自分の紙袋を開け、中からサンドイッチを取り出した。
「ここのデリのサンドイッチ、結構美味しいのよ。知ってる?このお店?」
紙袋に印刷されたロゴを見せる。
そしてがぶりとサンドイッチにかぶりついた。
「美味しい!ここのターキーサンドはいつ食べても美味しいわ」
船の汽笛が遠くの方で聞こえる。
太陽は相変わらず暖かい日差しを降り注いでいたが、時折吹く海からの風が少し冷たかった。
クリスは何か言いかけたが、その言葉を飲み込み自分のサンドイッチに手を伸ばした。
黙々とサンドイッチを食べる二人。
自由の女神の近くを、遊覧船が横切る。
二人が座るベンチの前を、大きな紙袋を抱えたサラリーマンが通り過ぎる。観光客と思われる家族ずれが、地図を片手にした父親を先頭に、はしゃぐ子供二人を母親が見守りながら通り過ぎる。
「僕、そんな素直ないい子に育ったように見えますか?」
少しだけトーンの下がった声で、クリスがおもむろに口を開いた。
「……え?」
クリスは食べかけのサンドイッチを持つ手を膝に置き、海の向こうへ目をやる。
「実際は、そうでもないんですけどね......」
「……受け答えでわかるわよ、ちゃんとしてるなって。これでも先生業を十年以上やってきたんだから、見る目はそれなりにあるわよ」
「そうですか......では残念ながら、その見る目は外れです」
ソフィアは眉間に皺を寄せ、クリスの顔を見つめる。
「ソフィア、僕の母親を覚えてますか?僕が高熱で入院した時、他の生徒を連れてお見舞いに来てくれましたよね。その時母がいました……高熱で一時は危篤状態になって、そんな息子をどれだけ心配したか、大泣きしてソフィアや僕の友達に訴えてたのを……覚えてますか?」
「......ええ、思い出したわ。確か大寒波がやってきた時に外で遊んで、それで高熱を出して入院したのよね。そう、あの時お母様は随分取り乱されて……あなたのことをとても心配していたわ」
「そう、あの時……あの時僕は外で遊んでいた訳ではありません。あんなに寒い夜にひとり外に出て、遊び続ける子供なんていますか?僕は母親にけしかけられ、大雪の中外に出たんです。そして怪我をしました。自分の血を見たことでパニックになり、雪の降る極寒の中、随分と長いこと泣いていたんです。マイナス十度の感覚、覚えてますか?露出している肌は外気に触れた途端痛み始め、鼻も喉も凍るような冷気で内側から痛み、そのうち体の震えは止まらなくなって......ただ寒いということが死を感じさせるんです。実際あの年の冬は凍死したホームレスも多かったですよね。そんな寒さの中、僕はおそらく二十分近く家に帰らなかったと思うのですが、母親は探しには来ませんでした。結局我に返って自分で家に帰ったのですが、涙と血でぐちゃぐちゃになった僕を見て、彼女は汚物を見るような目をして言ったんです。コートをクリーニングに出さなきゃいけない、また余計なお金がかかる、って」
ソフィアは眉間の皺を一層深め、目を細める。
「その夜から僕は発熱し、翌日に緊急入院しました。入院して最初の数日の記憶はあまりないんですが、母親のことをずっとうわ言で呼んでいたそうです。退院してから知ったのですが、僕の母は、僕が入院した日の翌日から数日間は病院を訪れなかったそうです。その数日間、僕は危篤状態になったのですが、息子が生死の境を彷徨っている時、母は僕のところにはいませんでした。何をしていたと思います?男と遊んでいたんですよ。前から誘われていたオペラの公演があったからって。その次の日は男の誕生日パーティーだったからって。病院から何度か連絡を入れたそうですが、母がやってきたのは僕が危篤状態から抜け出してからでした。その後だいぶ回復してからソフィアや友達がお見舞いに来てくれました。あの時の母の取り乱しよう……全てはいかに自分がかわいそうかというアピールです。僕を心配してのことじゃない。危篤状態に陥ったかわいそうな息子を持つ母親という役を演じ、皆からの同情を集めようとしていたのです」
「そんな......」
「僕はうがった見方をしている思いますか?きっと僕以外の人間は、僕が悪く捉えすぎなのだと言うでしょう。でもあの時気付いてしまったんですよ。母は僕を愛していないって。でなければどうしてあの寒さの中、息子を外へ追いやりそして放置できるのです?血まみれの息子よりもクリーニング代を心配する母ですよ。母は積極的に僕を死ぬような目にあわせたのではないかもしれない。けれど死が迫った息子よりも、自分の楽しみ優先させることの出来る人なんです。母はいつも一番自分が大切で、血を分けた息子にさえ無償の愛を注ぐことは出来ない。興味があるのは自分自身だけ。他人は自分の役に立たない限り必要ではない」
クリスは薄っすらと笑う。
「ソフィア、いったい僕には何人パパがいると思います?両手で数え切れないほどいるのに、本当の父親が誰なのかは未だに知らない。ボーイフレンドと旅行三昧の母親の影で、僕は昼間は学校に通い、夜は生活費を稼ぐためにバイトをするだけ……どうやったらこんな母親を憎まずにいられるでしょうか。僕はこんな母親のことが憎くて憎くてしょうがないんです。時々ふと、彼女をめちゃくちゃに殴り倒したくなります。どれだけ彼女がおぞましい心を持っているか罵ってやりたくなります。ああ、そんなことが実行出来る日がやってきたら、どんだけ気持ちが晴れることか……そしてそんな風に母親のことを嫌悪する自分自身が大嫌いなんです」
淡々と穏やかに話すクリス。ソフィアは背筋に薄っすらと寒いものを感じる。
「十歳のあの時、僕は母親の本質を知り、決定的に母親を嫌悪してしまった。母親は自分を愛していない。無償の愛を得られないとわかり、僕は母親を憎みました。あれからずっと毎日毎日僕は母親のことを考えては心の中で罵倒し、あらゆる手段で肉体的ダメージを負わせるところを想像しています。気を抜くと、母親を、見たことのない父親を、そして自分自身を憎む気持ちが表面に溢れてくるんです。そんな感情を表面に出さないように自分を毎日毎日押さえ込むんです。気を抜かないように、他人に悟られないように......だから僕には親しい友達もいないし、ましてやガールフレンドなんていません。こんな醜い心を持った僕なんて見せられませんから」
クリスはソフィアの顔を覗く。まつ毛の長い瞳が三日月のように半円を描く。
「…..こんな僕でも、素直な良い子に成長したと思いますか?」
「クリス......」
ソフィアは言葉に詰まる。
遠くで貨物船の汽笛が鳴った。低音のくぐもった音が悲しく響く。
クリスは相変わらず静かな笑みを浮かべている。
「あは……こんなことを誰かに言うなんて。初めてです、僕のこんな汚い感情を誰かに話すなんて、愚かですね。なんでだろう。結局僕も誰かの同情を引きたいということかな。母にそっくりですね。こんな醜いことを考えている僕なんて、同情すら引けないかもしれませんが。ああ、嫌になる......」
冷たい海からの風が二人の間を流れた。
「僕、行きます。今日はお会いできてうれしかったです」
クリスは鞄と昼食の残りの入った紙袋と持ち、立ち上がった。デイバックを肩にかける。長めの前髪が顔を覆い、表情を見ることは出来ない。
「待って」
ソフィアは立ち上がった。
ソフィアの声はクリスに届いていたが、クリスは立ち止まらない。早足で丘を下っていく。
「クリス!」
ソフィアは自分の荷物をベンチに置いたまま、クリスへ駆け寄る。
そして、後ろから抱きしめた。
クリスの体が瞬時にこわばる。
誰かに抱きしめられたことなどない。
しかしクリスがトミーを抱きしめるように、ずっとずっと誰かに抱きしめて欲しかった。嫌悪しているのに毎日考えてしまう母親から。まだ見たことのない父親から。そしていつか現れるかもしれない愛する誰かから……
「こっちを向いて、クリス」
ソフィアの声の振動がクリスの背中に伝わる。
動く気配のないクリスの前方へソフィアは回った。背の高いソフィアと、大人になったクリスの背丈はほぼ同じで、ソフィアの真直ぐな視線がクリスの瞳にまっすぐに向けられた。クリスの瞳は大きく見開かれている。
ソフィアはクリスの肩を両手でつかんだ。
「クリス、今はまだお母さんやお父さんを憎んでもいい。それだけの仕打ちをされてきたのだから。でも負の感情にずっと浸っていては駄目。他人を憎み自分を蔑むのは麻薬のように甘美なものよ。そこから抜け出すよりも楽だし、何よりも心地が良いわ。でもね、それじゃいけない、いけないのよ。あたながお母さんやお父さんをいくら憎んでも、彼らは変わらない。彼らを変えることは誰にも出来ない。だからもう彼らのことは放っておきなさい。そしてその分のエネルギーを、自分を愛することに使いなさい!」
ソフィアのグレーの瞳が、クリスのグリーンの瞳に映る。
「どんな両親を持っていても、人には見せたくない感情を持っていても、あなたは自分自身を愛していいのよ……」
そしてソフィアはゆっくりとクリスを抱きしめた。
それはとても力強くそして優しい抱擁だった。
風は冷たい。
春はまだ来ない。
けれどソフィアのぬくもりは春の木漏れ日のように暖かで、クリスの中の大きな氷の塊がじわりと溶けて少しだけ流れ落ちた。
季節はめぐる。
冬の後には春が来る。
毎年毎年平等に、誰のもとにも春はやってくる。
流れる時の中で人は変化し、自分も変化していく。
クリスはトミーを抱くようにそっと両手をソフィアの背中へ回し、お互いのぬくもを、まだ来ぬ春への希望を分け合った。




