春の影
「ママ。もうエドのことをパパって呼ばなくてもいい?」
「クリス、急にどうしたの?」
「僕、パパってものが何なのかわからなくなっちゃって……エドがママの恋人なのはわかるよ。でもそれってイコール僕のパパってことにはならないんじゃないかな?」
「ママの恋人はつまり、クリスのパパということなのよ」
「じゃあパパって世界中に何人もいるものなの?」
「そんなことはないんじゃないかしら」
「だって僕には前のパパ、前の前のパパ。その他にもパパがいたよね。こんなにたくさんパパがいるのは嬉しいけど、友達は皆、一人しかパパがいないよ。だから僕だけパパがたくさんいるのは変じゃないかって思ったんだ。僕、これ以上パパはいらないな。だから、ね、エドのことをパパって呼ぶのを辞めてもいい?」
クリスは何気ない調子を装って、精一杯の勇気を振り絞り母親へそう告げた。
ずっと不思議に思っていた。友達にはパパは一人しかいない。学校で聞いてみたが、皆パパは生まれた時から同じ人で、今までもこれからも変わる予定はないという。自分はというと、記憶にある限り母親からパパと呼ぶように言われた男性は五人いる。エドが六人目だった。周りの子は皆は一人しかパパがいないが、自分にはたくさんいる。それはちょっと自慢できることかとも思ったが、自分の隣にはもういないパパ達の顔を思い浮かべた途端、誇らしげな気分はすぐにどこかへ消えてしまった。
友達は皆、家に帰ればパパに会える。だが自分はエド以外の五人のパパにはもう会えない。母親に前のパパ達に会いたいとお願いしてみたことがあったが、その願いが叶ったことは一度もない。
新しいパパが出来るということはつまり、そのパパはいつかどこかへ行ってしまい、二度と会うことなくなる日がやってくることを、クリスは経験からわかっていた。
今までの五人のパパが全員好きだったわけではない。
けれど二番目のパパのジョンと五番目のパパのスティーブは大好きだった。最後に会ったのはいつのことだったかは思い出せないけれど、時々ジョンが作ってくれたサンドイッチや、スティーブと一緒に行った夏のキャンプのことを思い出す。それだけでも心の中が少しだけ暖かくなるのだ。
今のところ、エドのことは好きでも嫌いでもない。だからもしエドのことを好きになってしまったら悲しいのだ。パパはいずれ消えていく。だからエドにはパパになってほしくなかった。パパと呼びたくはなかった。
「クリス、前のパパはもうあなたのパパじゃないの。エドだけがあなたのパパよ。前のパパ達のことなんか忘れてしまいなさい」
「前のパパ達はもう僕のパパじゃないの?」
「そうよ」
「エドだけが僕のパパってこと?」
「そう」
「それってなんだか変だよ。エドは新しいパパで、前のパパ達に加わったってだけじゃないの?何で新しいパパが来たら、前のパパのことは忘れなきゃいけないの?」
クリスは母親の方へ一歩踏み出す。二人の間には、大人二人分くらいの間がある。
「ああ、あなたはいつも質問ばかり。もううんざりだわ」
「でも......」
窓際に飾られた真っ赤なバラの花びらが一枚、音もなく落ちた。
「黙りなさい!」
リビング中にヒステリックな甲高い声が響く。
雪が深々と降る、ニューヨークの夜。
五階建てのアパートメントの一室に、クリスとその母親のカトリーナは住んでいる。
クリスは小学校五年生。小鹿のような薄茶色の瞳と茶色の髪の毛を持つ小柄な子供だ。クリストファーというのが正式な名前だが、普段はクリスという愛称で呼ばれていた。
カトリーナは三十代前半の細身の女性。年相応に少しの白髪と目の下の皺が気になりだす年齢だったが、白髪染めとナイトクリームで上手くごまかしている。明るい茶色の髪の毛に青い瞳。一般的には綺麗だね、と言われる容姿を持っていた。
クリスとカトリーナの住む少し手狭のアパートには、最近エドという中年の男が良く来るようになっていた。
エドはウォールストリートの金融街で働くビジネスマンである。上の下くらい稼ぐバツ一の男。別れた女性との間に高校生の娘がいる。
カトリーナとエドは付き合い始めて半年ほど。最近はエドが家に来ることが多くなり、クリスのベッドは母親と共有していたベッドルームから、リビングの端へ移された。エドの前にクリスのパパだったスティーブは、エドよりも更に頻繁に家に来ており、その時もクリスのベッドはリビングへ移されていた。
九ヶ月前にスティーブとカトリーナは別れ、クリスの寝床は母親のベッドの隣に戻された。やっと日の当たらないリビングルームでの寝起きから開放されたと思ったのも束の間、カトリーナの新しい恋人、エドの出現でクリスのベッドはまたリビングルームへ移された。
クリスが日の当たらないリビングでの寝起きにも慣れ始めた頃、カトリーナはクリスへ、エドをパパと呼ぶように言いつけた。
「……ごめんなさい、ママ」
「謝れば済むと思ってるの?ママをこんなに困らせて」
カトリーナは両手でこめかみを押さえている。長い髪の毛が顔を隠すように顔の横でもつれている。
手で顔を覆ったまま顔を上げない母親を心配し、クリスが下から顔を覗きこむ。その途端、カトリーナは勢い良く顔を上げ、クリスを見据えた。
「ごめんなさい、ママ......」
弱々しく発せられる声を無視するようにカトリーナはクリスの右の袖を捲し上げ、力を込めて細い白い腕をつねった。
「いいわね、あなたのパパはエドだけ。他の男達のことなんて早く忘れてしまいなさい」
クリスは声を上げる代わりに目をギュッとつぶる。
「わかったわね、クリストファー!」
カトリーナはクリスに絶対的に高圧的になる時、愛称のクリスではなくクリストファーと呼ぶ。そうするとクリスは頭の上から冷水をかけられた様に、体が芯から震える気持ちになるのだ。
泣くつもりはないのに、涙がじわりと瞼の裏を覆う。
「返事は?!」
「……はい」
絞りだすように発せられた声と頬を伝う一滴の涙に満足し、カトリーナはサイドボードに置かれていたタバコを手に取り火をつけた。
タバコの煙を深く吸い込みながら、クリスの顔を見据える。視線を感じたが、クリスは下を向いて母親の顔を見ないようにした。瞬きもしないその平坦な視線を向けられると、お腹の下の方をぎゅっと握りつぶされるような愚鈍な痛みを感じるからだ。
カトリーナは黙ってタバコを吸い続ける。
クリスは目の前に立つ母親の視線から逃れるように、灰色の煙の中で出口を探すように、頬に伝った一滴の涙を服の袖でぬぐう。
「全く、母親にくちごたえするなんて、いったい誰に似たのかしら。ろくな血を引いてない。全部あいつのせいだわ」
あいつというのが誰なのか、クリスは知らなかった。母親の口からよく出るあいつ。名前は知らないし顔も知らない。たくさんいるパパのうちの誰かなのだろうと検討はついたが、どのパパを指しているのかわからなかった。
足元に向けた視界の中に、薄茶色の丸いものが入り込んできた。飼い犬のトミーがクリスに近づいてきたのである。短めの毛に長い尻尾を持つ誠実なトミー。犬種はわからない。中型犬でテリアが入った雑種に見える。近所の人が飼えなくなったからと貰い受けた犬である。その近所に住んでいた少しハンサムな男は、カリフォルニアに引っ越すのに犬は連れて行けないのだけどどうしようとカトリーナに相談し、カトリーナはあっさりとその犬を引き取った。いくばかりかの謝礼とともに。
ずっと犬が欲しかったクリスはトミーがやってきたことがとてもうれしかった。トミーはクリスにすぐになつき、二人は当たり前のように親友になった。
そのトミーがクリスの足元に近づいて来た。
「クリス、トミーの散歩はもうしたの?」
カトリーナは特に犬は好きではない。好かれていないことがわかるのか、トミーの方もカトリーナにはなついていなかった。
「まだ......」
「あなた、トミーの世話は全部自分がするって言ったでしょ?約束も守れないの?そんなんじゃトミーは保健所へ連れて行かなきゃいけないわね」
「でも、外はたくさん雪が降ってるよ。それに今夜はいつもよりももっと寒いんだ。だからトミーが外に出たがらないんだよ」
「そんな事言って、自分が散歩に行きたくないのをトミーのせいにするんじゃありません」
「違うよ、さっき外に行こうとしたんだけど、トミーが嫌がったんだ!」
「嘘おっしゃい。口答えする上に嘘まで付くなんて。なんて嫌な子でしょう」
カトリーナはタバコを大きく吸い、煙をクリスに吐きかける。煙がのどの中に入ってくるのを感じて咳をしたかった。しかしカトリーナがタバコを吸っている時に咳をすると「自分の好きな時にタバコも吸えない」だの「そんな咳で同情を引こうとして浅ましい」などと言われるため、クリスは懸命に咳をしたいのを我慢する。
クリスは学校から帰ると、トミーを散歩に連れ出そうとした。しかし外の冷たい空気が玄関から流れてきた途端、トミーは足を踏ん張り散歩に出かけるのを拒否したのである。そこでクリスは犬用のおしっこシートを玄関の前に置きトミーに排泄を済ませ、二人は暖かいリビングで母親の帰宅を待っていたのだ。
嘘なんてつかない。
小学校に上がったばかりの頃、新しく買ってもらったばかり帽子を学校で無くしてしまったことがある。せっかく母親に買ってもらった緑色の新しい帽子を無くしたとは言えず、クリスは友達にあげてしまったと嘘をついた。カトリーナは友達にあげたという話を信じずクリスを問い詰め、結局無くしてしまったというこ事を聞きだした。
その時カトリーナはヒステリックにクリスに告げた。嘘つきは最低だ。嘘つきは誰からも愛されないと。その時以来、クリスは母親に嘘をついたことはなかった。
言いにいくことも、怒られるとわかっていることでも、クリスは母親に嘘をつかない。それはクリスが最低な人間などではなく、愛される価値のある人間だと思われたかったからだ。けれどカトリーナはクリスのことを嘘つきだと責め立てる。
「何をもたもたしているの。さっさと散歩に行ってらっしゃい」
二本目のタバコに火をつけたカトリーナの視線を背中に感じながら、クリスはとぼとぼと玄関へ向かった。トミーがゆっくりとその後に続く。
「この前買ってあげたコートを着せるのを忘れないで」
玄関の横のクローゼットから、水色の犬用のコートを取り出す。カトリーナの恋人のエドが買ってくれたものである。背中の部分に大きくGOOD DOGとプリントされたコートはかわいらしくはあったが、マイナス十度の気温でかつ雪の降る中では、あまり役に立ちそうもなかった。
玄関を開けるとまだ建物の中だというのに、一気に寒さが流れ込んできた。部屋の中を冷やさないように慌ててドアを閉める。廊下を歩き、階段を下りる。ロビーに来ると寒さが一層増した。ロビーの重いドアを開け外に出ると、真っ白な雪と凍りつくような寒さに、一瞬頭がぼおっとする。なかば引きづられるようにしてきたトミーも、あまりの寒さのためか、一歩も前に歩き出そうとしない。
すぐに帽子とマフラーに覆われていない顔の皮膚に痛みを感じる。小さな針で肌を細かく刺されているようだ。
突っ立っているだけでは余計に寒いということに気がつき、クリスは歩き出した。トミーは足を踏ん張って歩くことを拒否しようとしたが、踏ん張る足が雪に沈んでいくのを感じて、慌てて足を前に踏み出した。その勢いで二人は人気のない道を歩いていく。
いつもトミーがマーキングをする木の根元で、トミーはおしっこをした。そこはアパートから半ブロックも行かない場所だったが、トミーはもういいだろうという風にクリスを見上げたので、クリスは頷き踵を返した。二人は小走りでアパートへ向かう。とその時、クリスは自分の前を行くトミーの足跡に、小さな赤い点が付いていることに気がついた。
「もしかして、血?」
クリスは慌ててトミーの前方に回り込み、前足を持ち上げた。特に傷らしいものは無いし血も出ていない。そこで後ろ足を確かめる。すると左の後ろ足に米粒大の小さな傷があるのを見つけた。
「なんで?いつ怪我なんかしたの?」
怪我をしたなら痛がって鳴いてもよさそうなものだが、トミーの鳴き声は聞かなかった。小さな傷だからトミーも気がついていないのだろうか?
そこでふと学校の先生が言っていた事を思い出す。背の高い、いつもしかめっ面をしている女の先生。何かにつけて細かく指導してくるそのコリンズ先生を、友達は皆嫌っていたが、クリスはその先生を嫌いにはなれなかった。それはおそらくコリンズ先生がどの生徒に対しても公平であったからだらう。片親の子供。色の黒い子供。成績が良い子供。コリンズ先生はどんな生徒にも同じように厳しく接していた。そんなコリンズ先生が、クリスは学校にいるたくさんの先生の中で一番好きだと思っていた。
「そうだ。コリンズ先生が、雪の日は雪を溶かすための塩が道路に撒かれるから気をつけなさいって言ってたっけ。道路に撒く塩は大きくてギザギザしてて、転んで手をついたら手の平を怪我するから、絶対に手袋をしなきゃいけません、って言ってたな」
そう思い出し辺りを見渡すと、人が通る道には、小石のような白い塩がたくさん撒かれていることに気がついた。雪を溶かすための塩も、マイナス十度という異常な寒さの中では本来の役割を効果的に果たせずにいる。雪を溶かし雪と混ざり合うことなく、まだ塩の形状のまま残っている粒がたくさん道路に残っていた。
「トミー。この塩で足を切っちゃったの?痛いよね。早くうちに帰ろう」
トミーの足のチェックをするために数十秒留まっていただけでも、寒さがどんどん体の芯に入り込む。クリスは頭から足の先まで寒さに吸い込まれていくような気がした。
建物の中に入ると、風が吹き付けないせいか、一気に暖かくなったように感じる。トミーの足から血はもうでていなかったが、廊下を歩く姿を見ていると、少しだけ傷のある足がびっこをひいているように見える。
玄関のドアを開けると、一気に温かな空気が全身を包み込み、クリスはほっと安堵の一息をついた。
「寒いから早くドアを閉めて」
ワイングラスを片手に持ったカトリーナが、ソファーの向こうからクリスを見ることもなく言う。
「それにしても早かったじゃない。ちゃんとおしっこさせたの?」
「うん。ちゃんとしたよ。それよりもママ、トミーが怪我しちゃったみたいなんだ」
「怪我?」
「ちょっと待って……ほら、この後ろ足の裏のところ、少し傷があるでしょう」
クリスは急いでトミーのコートを脱がせクローゼットに仕舞うと、母親の座るソファーへトミーと駆け寄る。
クリスはまだコートを着て帽子を被ったままである。頭と方には雪が少しだけ積もっていた。体に入り込んだ冷気で、指先が上手く動かない。しゃべっている時も頬の筋肉がつっぱているのを感じる。
今年のニューヨークの冬は、ここ十数年間で最も寒い冬だと言われている。こんな寒さを経験するのはクリスにとっては初めてのことであった。
ニューヨークよりも北に位置する州で生まれ育ったカトリーナは、寒さと雪を毛嫌いしていた。こんなに寒くてたくさん雪の降るニューヨークにはさよならをして、フロリダかどこかへ飛んで行きたいと口癖のように言っていた。
「……わからないわ。傷なんてあるように見えないけど」
「さっき血がでてたんだよ」
「いやだ、血まで出てたの?」
「そうだよ、少しだけだけど、ポツポツって、雪の上の赤いのが見えたもん」
「あらそう……」
カトリーナは読んでいたファッション雑誌を閉じ、雪の降りしきる窓の外へ視線を向ける。
音の無い世界が、ずっと続いているように思えた。
「……血なんか雪の上にあったら警察が来ちゃうんじゃない?」
「えっ?」
「殺人事件が起きたかもって、警察が来ちゃうわよ」
カトリーナは少しだけ目を細め、クリスを見据える。赤ワインが注がれたグラスの縁にはべっとりと真っ赤な口紅がついていた。
「警察が来て、その血はトミーの血だってわかったら、人騒がせなやつだって逮捕されちゃうかもよ。それにトミーも保健所に連れて行かれちゃうかもね」
カトリーナの言葉にクリスは愕然とする。寒さで青白くなっていた頬が更に青みを増す。
「早くその血を綺麗にした方がいいんじゃない?」
「ママ……それって、またあの寒い中に戻って血の跡を消さなきゃいけないってこと?」
「そうね、その必要はあるかもね」
「でも雪が降ってるし、きっと雪が積もって自然に血は見えなくなるよ」
「そうかもしれないし、そうならないかもしれないわね」
こみ上げる笑いを隠すように、カトリーナはグラスに三分の一ほど入っていた赤ワインを一気に飲み干す。
クリスは湧き上がる不安から、トミーの顔と窓から見える降りしきる雪を見比べている。
「でも外はたくさん雪が降ってるし、とっても寒いんだよ」
「別に無理に外に行って血をきれいにしてこなくてもいいのよ。ただ、もし警察が来たら大変なことになるわね。それだけの話」
クリスは足元できちんとお座りをして自分のことを見上げているトミーを見た。
トミーは応えるように、まっすぐにクリスの顔を見つめる。
「......僕、行ってくる」
「……あら、そう」
クリスはギュッと拳を握り、意を決したように玄関の方へ回れ右をした。
「トミーも連れて行きなさい」
「えっ、なんで?」
「トミーを一人にしたらかわいそうじゃない」
「でも少しの間だけだし。それにトミーは怪我をしてるんだよ」
カトリーナの左の瞼が痙攣した。
「いいから連れて行きなさい!」
有無を言わさぬヒステリックな口調でカトリーナが怒鳴る。こうなった時は絶対に言い返すべきではないことをクリスは知っていた。知っていたのにさっきは言い返してしまった。
袖の下に隠れた小さな痣。母親の満足そうな笑み。
「トミーおいで。もう一度散歩に行こう」
トミーは不思議そうな顔でクリスを見上げる。そんなトミーをクリスは悲しそうな目で一瞬見つめ、玄関の方へ歩いていく。リーシュを手に取ったが、トミーは来ない。
「トミーおいで!」
何回か呼ぶと、しぶしぶといった様子でようやくトミーがやってきた。
手早くリーシュをつけ、水色のコートを着せる。胴回りだけが覆われて、寒さ対策や雪よけには十分ではないが、外出する時はこの新しいコートを着せないとカトリーナが怒るため、散歩の時は毎回必ずこのコートを着せる。
嫌がるトミーのリーシュを引っ張り玄関の外へと連れ出す。廊下を歩き、階段を下りる。建物の中はツルツルのタイル張りだから、トミーを引きずって連れてくることが出来たが、外に出てからは引きずれない。冷たく降り積もった雪が行く手を阻み、それに除雪のために撒かれた塩の混ざった雪がきっと傷に染みるだろう。
クリスは決心して、トミーを抱きかかえる。
中型犬のトミーは、小学生のクリスが抱えるのには大きく重かった。前足を肩に乗せ、尻尾を内側へ丸め込み、抱っこするように抱える。
トミーの息遣いが耳の横で聞こえる。
吹き付ける雪が、顔に当たり耳の横を通り過ぎていく。
一歩一歩転ばないように、トミーを落とさないように、クリスは雪を踏みしめながら歩いていく。
天気の良い日は、半ブロック歩くなんて一分もあれば十分であったが、今は状況が全く異なる。足元には踝まで積もった雪。顔面には絶え間なく降りつける少し水気を含んだ細かな雪。そして一歩踏み出すごとに重みを増していくようなトミーを抱え、クリスは下唇をぎゅっと噛みしめた。
「トミー、寒くない?」
トミーの体温がコート越しに伝わってきた。
むき出しの耳。むき出しの手足。吹き付ける雪が短い毛に薄っすらと張り付いている。
トミーはクリスの問いかけに返事をすることも、顔を向けることもなく、ただはぁはぁと小さく息をし続けている。トミーが息を吐くたびに、クリスの耳が少しだけ湿り気をおびる。
「ねぇ、トミー。ママはとっても良い人なんだよ」
一歩足を踏み出す。
「トミーの血を綺麗にしてきなさいって言ったのは、僕が後で警察に逮捕されないために、トミーが保健所に連れて行かれないために、ママが僕達のことを心配して言ってくれたことなんだよ」
一歩足を踏み出す。
「ママはね、僕達のことを考えてくれているんだ」
トミーを抱える腕がしびれる。
「ねぇ、トミー……エドはずっとママと一緒にいるのかな。ジョンやスティーブがいなくなった時みたいに、ママがたくさん泣くのを見るのはもう嫌だな」
寒さと重みで、クリスの腕はガクガクと震え出した。
「たくさん泣くくらいなら、新しい恋人なんて作らなければいいのにね」
返事の代わりに、トミーの規則的な息遣いが聞こえる。
「ママには僕がいるのに。僕は前のパパ達みたいにいなくなったりしないのにな。ずっとずっと一緒にいるのにな」
ずり落ちそうになるトミーを抱えなおそうとする。しかし腕が震えて上手く力が入らない。そこに突然強い風が二人の斜め前から吹きつけた。一瞬視界が無くなる。
「うわぁっ」
クリスはトミーを抱えたままは前のめりに倒れた。
雪の積もる地面に後ろ向きにたたきつけられたトミーは余程驚いたのか、甲高い悲痛の鳴き声を上げる。
トミーを抱えたまま前方に倒れたクリスは、手で体を支えることも出来ず、顔面から地面へ倒れこんだ。積もる雪の下に広がるコンクリートの地面に頬が擦れる。
這い出すように、トミーはクリスの腕の中から逃れる、クリスは何が起きたのかわからずに、地面に倒れたまま辺りを見渡す。
降り積もる白い雪。
クリスはゆっくりと起き上がり、右手の手袋を外し頬を触った。
何かぬるっとしたものに触れる。
恐る恐る指先を見ると、赤いものがついていた。
真っ赤な液体。
「......血?」
血が出ていると認識した途端、突き刺すような痛みが広がる。
クリスはコートの袖で頬の血をぬぐう。
筆で描いたように赤いラインがベージュ色のコートに広がる。
血はたくさん出ているのだろうか?
頬にもう一度触れる。温かな感触。
クリスは怖くなって、コートの袖でゴシゴシと頬をぬぐった。
コートの袖は真っ赤な血でぐちゃぐちゃになり、頬の痛みは増した。
「トミー、トミーどこにいるの?」
足元にいるトミーにも気付かず、クリスはトミーの名前を呼ぶ。
「トミー!どこにいったの?」
「ワォン」
トミーがここにいるよ、と言う様に吼える。
「トミー!」
クリスは足元にいるトミーにすがりつく。トミーは小刻みに尻尾を振る。
トミーに怪我はないか、顔をトミーの毛に押し付けたまま、手探りで確認する。どうやら大丈夫なようだ。ホッと安心するとともに、頬の痛みが顔中に広がる。顔を上げると、トミーの毛に付着してしまった自分の血が視界に入った。
血、血、血。
痛み、寒さ。
痛み、寒さ。
クリスの中で、何かが弾けた。
「ママ!ママ!痛いよ、怖いよ!助けて、ママ!」
大粒の涙が両の瞳からこぼれ落ちる。
「ママはどこ?なんで僕のところにきて助けてくれないの?」
喉から振り絞られた声は、一面の雪、降り続ける雪に吸い取られ、母親には届くことなく消えていく。
頭上から降り続ける雪の向こうには、アパートメントが建ち並ぶ。四角く縁取られた窓からは温かな光が漏れ、外界の冷たさを遮断していた。
路上にはクリスとトミーだけ。
鉄の匂いが微かに鼻に残る。
「ママ、ママ、ママ!」
クリスは母親を呼び続ける。
涙が頬の傷の上を流れ激痛が走る。
それでも涙は流れ続ける。
「ママ......!」
叫ぶたびに呼吸と共に入ってくる冷気が喉を塞ぎ、声が次第に出なくなっていく。
クリスの熱くなった頭にも、少しずつ冷気が入り込んでいく。
「ママ……僕、本当はわかってるんだ。ママが僕のことを苛めているの。シンデレラを苛める継母と同じだね。ママは僕のことが嫌いなんだ。だから僕を雪の中に追い出したり、こんなになっても助けには来てくれないんだ」
血を雪でぐちゃぐちゃになったコートの袖で、涙をぬぐう。
「でもそれでもいいの。ママが僕を苛めてる時はママは僕を見ていてくれるから。その時は僕のことを考えていてくれているから」
トミーを抱きしめる。
「僕にはママしかいないんだよ。パパはどこかに行ってしまう。ママだけが、僕が生まれた時からずっとずっと一緒にいてくれたんだ」
腕の中のトミーが、寒さで震えている。
「本当はパパなんかいらない。ママの恋人なんか大嫌い。ママは僕だけのママなのに、パパなんかいなきゃいいのに......!」
一度退いたはずの涙が、またこぼれ出る。
「ママ、ママ、ママ!ママは僕だけのママだ!僕はママのことが大好きだよ!学校の友達よりも、コリンズ先生よりも、トミーよりも……ママのことを一番に愛してるよ!だから僕を抱きしめてよ!……僕を愛してよ......」
クリスはトミーを抱きしめ、ただ涙が流れるままに泣き続けた。
自分で発した言葉が耳から離れない。
僕はママから愛されていない。そしてこんなにもママの愛を求めている。
そうわかってしまったことが、とてもとても悲しかった。
トミーが心配するようにクリスの鼻を舐めた。
花のつぼみのような色をした舌が、クリスを覆う真っ白な世界の中で浮き立つ。
それは昔カトリーナに連れられて見た、春の公園に咲く桜の花を連想させた。
あの時クリスの手を取るカトリーナは微笑んでいた。クリスにこれは桜の木で、春になるとピンク色の花を咲かせることを教えてくれた。
暖かかった母の手。
優しかった母の眼差し。
桜の花の咲く春の思い出の影で、クリスはゆっくりと瞼を開け、白い結晶の落ちてくる天を仰いだ。