(NO.uno――君と出逢った イル ボスコ
あれから約一時間経過した。上手く撒けたようだ、同胞が追ってくる気配はない。
「さあ、どうしようか」
そう何気なく呟いた瞬間、自分の腕の中で眠る無防備な少女が「ん、うんん……」と見を捩った。僅かな光りでもいまは目に沁みるのだろう、数度ぱちぱち長い睫毛を上下に瞬かせている。
「眩しい?」
俺は背中を丸め、彼女の顔を覗き込んだ。横抱きのまま木の根に凭れかかって座っている体勢だからか、自然と彼女は俺が作った影に包まれるものの、そこはかとなく白い顔色が心配で更に身を寄せてみた。
「……、優しく優しく」
人間は儚く脆い生物、自分の力加減一つで潰し兼ねない。最善の注意を払いつつ、柔らかな身体と密着する。
(……小動物……、ウサギみたいだな)
何もかもが小さい。端的に言えば可愛い、だ。俺は指先で彼女の頬を撫でてみた。
直後、彼女の重たい瞼がのったり上がる。
「――――」
潤んだ漆黒の瞳と目が合った。透明で美しい両眼は言葉より先に鋭くなる、俺は彼女に安心を与えるべく微笑んだ。
「大丈夫、俺は味方だよ」
「……アナタ、が……私を助けてくれたの?」
恐る恐る彼女が訊ねてきた。恐怖に支配され、疑惑で揺れ動く瞳は厭に愛くるしい。
「まあ、うん。水辺に寄った後、ここに来たんだ。キミが携帯していた医療道具、全部使っちゃった。取り敢えずの応急処置を俺なりに……、キミを助けたい一心で……、えっと勝手にごめんね?」
ある程度の経緯を説明し、致し方ない非常の状態とは言え無断で柔肌に触れた事実を謝罪する。彼女は塞がった自分の傷口を見、無言で顔色を窺う俺に嫣然と笑った。
「……ふふっ」
「う、何か可笑しかったかい?」
「ううん違うわ、ごめんなさい。取り敢えずの応急処置にしては、すごく綺麗な縫い目で驚いちゃった」
戸惑いながら問う俺に彼女は首を振って答え、弱々しい繊細な声色で言葉を紡いだ。
「気絶する前の記憶は微かに覚えてる、私は確か素性も知らないアナタに刃を向けた。なのにアナタは私を助けてくれた、ありがとう。アナタは私の命の恩人よ」
「ハハッ大袈裟だな、だけどそう言ってもらえて嬉しいよ」
やはり自分の選択は正しかった。発せられたお礼に喜悦の情で胸がいっぱいになる。
「ところで……」
「うん? なあに?」
言い淀んだ彼女に首を傾け、俺は真っ直ぐ見つめ返した。けれど視線は重ならない。
(――――?)
伏せられた目、言い難い内容なのは表情で察せられる。でも見当がつかない。
(うーん……)
俺は頭を捻った。すると突如、彼女が意を決したように叫んだ。
「――そ、そろそろ! はっ、離してもらいたい、の!」
その声は切実で懇願に近く、羞恥で薄ら赤に染まった耳が必死さを伝えてくる。
「ああ……」
成程、と俺は心中で納得した。「何で?」などと意地悪な聞き返しはしない。
「助けてもらったのに……、失礼で、……ごめんなさい」
ごにょごにょ口籠る彼女に含み笑い、俺は一声かけて起き上がった。
「俺の配慮が足りなかったね、キミが謝る必要はないさ。それじゃ、ちょっと動くよ」
「……うん」
「よいしょ、と」
頷く彼女の身体を両腕で抱え持ち、生傷に痛みが走らぬようゆっくり降ろす。
「……ありがとう」
「どう致しまして」
ホッとした様子で彼女がはにかみ、俺もつられて口元を緩めた。しかし正直、消えた温もりが名残惜しい。
(行ってしまうのかな)
手足の関節を解し始める彼女は、自分とは無縁の存在だ。別れてしまえば恐らくもう二度と会うことはない。そうと考えると持て余す感情、胸の辺りがざわざわする。
(厄介な、まったく)
俺は行き場を失った両腕を組んだ。吐き気がする自分の性格に思わず自嘲しかけたとき、重なる形で彼女が口を開いた。
「随分、痛みが減ったわ。アナタのお陰ね、日を改めてお礼させてくれる? あ、そうだまだ名乗っていなかったわね。私は大神って書いてアカギ、イタリア育ちの日本人よ。よろしくね」
大神は最後に挨拶の意を兼ね、右手を伸ばしてくる。自分の立場上、対等な握手を求められたのは生まれて初めてだ。
(大神……、俺は……)
天上神が愛する、無垢で純粋な眼差しに強く惹かれた。同時に芽吹いた淡い想い、俺は一線を超える覚悟で好意に応じる。
「俺はリトア・リュカーオーン、よろしくね大神」
俺は自分の正体を偽らず名乗り、大神の手の甲を握り込んだ。然れど、一瞬で振り払われてしまった。
「――リュカーオーン、です、って!?」
困惑に歪んだ顔色、大神の声が打震える。そして下唇を噛んだ。
「ねえ大神、俺は――」
「さようなら」
制止の暇も与えない別れを告げ、大神は甘やかな匂いを残し忽然と消えた。一人佇む俺は風に乗せ、届くと願い囁くしかない。
「待ってるよ、この場所で」