(NO.nove――予期せぬ ブオーネ ノティツィエ
遥か遠い昔に捨てた一本の道がある。それはきっと望めば容易く手に入れられた未来、自分だけの家族を持つ些細な夢だ。
なら何故、違う道を進んだのか?
無論、一度で諦めたわけではない。幾度と分岐点で迷った。だが何度立ち止まり何度吠えても、リュカーオーンの息子と言う肩書きで近寄ってくる雌は俺自身には興味を示さない。ただ『王血』の放つ威光――名声や権力、地位や富で目が眩んだ者ばかりだった。
所詮は化物、呪われし狼族は性質が愚かしい。虚言を振り撒く笑顔の仮面の下は皆、貪欲で浅ましい悪魔だ。そこに微塵とフィレオーはない。
そんな偽りだらけの世界で誰が理想を追えるだろう、もはや願う気さえ失せてくる。
そうして徐々に群れから孤立し、気づけば孤独が足裏に根づいていた。地面でどう擦りつけても黒い影は剥がれない。もうずっと自分は独りなのだと悟った。
然れど突然、転機が訪れる。逆境にめげない哀れで滑稽な一匹狼に天上神が慈悲を贈って下さったのだ。
「……ねえリトア、聞いてる?」
「ああ、愛してるよ」
俺は大神の肩を抱き寄せた。彼女と出逢い、現在の幸せがある。
不幸も幸福も齎す時間は不思議だ。けれどお陰で俺の生涯は薄幸で終わらず、愛する人、愛する子供、両方を授けてもらえた。些か慣れない幸運がいまは恐ろしい。
「……聞いてなかったわね?」
「聞いていたよ。俺の子は『人間の子』、でしょ?」
つい先程、大神に切り出された話だ。さすがに俺の子供と告白すれば両一族で波乱になり兼ねないため、『外の人間と一夜過ごした際、誤って身籠った』と説明したらしい。適切な判断であるものの、何とも複雑な心境だ。
「自堕落な女と罵倒されようが構わないわ、子供を護る役目が『母親』だもの」
自身のへそ周りを撫でつつ言う、大神の口調に堅い意志を感じた。
「女性は母になると強いね。俺も負けずに護るよ、キミと子供……家族を」
初めて手に入れた唯一無二の光だ。全力で護る、自分に備わった力で護り切ってみせる。指一本触れさせやしない、傷つけさせやしない。
「ふふっ、ありがとう」
「――あ、『仕事』は当分しないよね?」
ふと不安が過り、問いかけた。生真面目な大神の性分だ、『暗殺業』と両立なんて男前な考えかもしれない。
(有り……、得る)
返答が心配でひたと見据える俺に大神は目を瞬かせ、ふわりと小さく微笑んだ。
「うん、当分はお休みね。もし赤ちゃんに何かあったら後悔する……、もう自分一人の身体じゃないって実感があるの」
「いい子だね、説得せずに済んだよ」
母親の意識がある返事に安心した。自覚がある以上、危惧の念を抱く必要はない。
「それにね、主が『褒めれぬ経緯なれど赤子は世の宝だ。流産せぬよう健康を心がけ、充分な栄養と睡眠を取り安静にしておれ』って仰って下さったの」
「へえ、ジョバンニに直接お礼が言えなくて残念だな」
「あと里の離れにある竪穴式住居を授祝で頂いたのよ、『くのいち』は静かな場所で『誰の手も借りず』子供を産む古い習わしがあるから」
「ふうん成程……仕来たりに倣って誰の手も借りず、ね。じゃあ俺は是非、出産に立ち会いたいな。いいよね、大神」
「だから誰の手も――」
「父親は例外だよ」
俺は大神の唇に人差し指を当て、優しく言葉を遮った。漆黒の瞳が驚きで丸くなる。
「神聖な領域に男の俺が居ても役立たずだけどさ、……頑張るキミを傍で応援したいんだ」
恐らく万物平等、出産は命懸けだ。初めて出産に挑む大神を支えてあげたい。成る丈、不安を取り除いてあげたい。その頑然たる意力の源は無論、愛しい大神と生まれ来る我が子にあった。
「立ち会い――いいよね?」
薄紅の下唇を親指でなぞり、再度、得意げに首を傾ける。有無を言わせない雰囲気を醸し出す自分は相当、意地悪だ。
「……しょうがないわね、こっそり来てよ」
ため息交じりに大神は頷いてくれた。俺は彼女の頬に最上級の感謝を捧げる。
「ありがとう大神、愛してるよ」
「……もうっ」
眉尻を下げ、大神が目を伏せた。未だキスに照れる反応は初々しく可愛い。
「ねえ、大神」
俺は彼女の顎を掬い、目線を絡ませる。そして揺れ動く瞳孔を見つめ、順番が狂いタイミングを見失っていた誓言を告げた。
「俺はウルフ、キミは人間、二人の子供は混血種で生まれてくる。狼族と血族の混血種は前例がない、……一時は子の存在を隠伏することになる」
「…………」
口を挟まず聞く大神の表情が引き締まる。真剣な眼差しだ。
「……堂々といられない辛さと息苦しさをキミに与えてしまう。ごめん……でもね、俺はキミを手放せない……手放さない」
「リトア……」
「愛してる大神……。キミを、子供を、一生かけて護ると誓う――俺と結婚、して下さい」
「……っ、はい……!」
俺の万死に値するプロポーズに目を剥き、涙する大神が満面の笑みで受け入れた。地獄の切符が二人の手に渡る、もちろん片道切符だ。後戻りはできない。
「犯した罪の代償は俺が償うよ」
「――ちょっ、……んっ」
そう呟いた俺の声音は、大神の口内で掻き消えたのだった。
* * *
「――え!? 本当に!?」
「お前も今日から『叔父さん』だね」
屋敷に戻った俺は早速、ロトに赤子の話をした。驚いてはいるものの、ロトは至極嬉しそうだ。
「evviva! 兄さんおめでとう!」
「ありがとう、ロト」
「三カ月かあ、ウルフと人間の混血種はどのくらいで生まれるんだろうね?」
「……確かに」
落された素朴な疑問に俺も頭を捻る。人間の妊娠期間は約十カ月、比べ、ウルフの妊娠期間は二カ月弱だ。実例がない故、どちらに偏るか定かではない。
「いま三カ月なら人間の成長のペースで生まれるのかなあ、……まだまだ先だ」
嘆息を漏らすロトに俺は苦笑した。
「ハハッ、すぐ会えるよ。俺のいない間はロト、お前が大神を支えてあげてね」
「うん、わかってるよ兄さん」
首肯するロトは頼もしい表情だ。けれど、可能な限り末子に迷惑はかけたくはない。
(大丈夫、未来は明るい)
そう心中で囁く俺は、この先に待ち受ける『悪夢』など予想もしていなかった。




