(NO.sei――告げられた アッディーオ
大神side――。
「ハアッ……ハア……!」
私は暗い路地裏に滑り込み、足りない酸素を吸いながら乱れる呼吸を整えた。バクバク煩く脈打つ鼓動は、全速力で走ったせいだけではない。
「――大神! 大神!」
自分を呼ぶリトアの必死な声が未だ耳に残っている。いつもと違って甘くない、切羽詰まった声色だった。
自然と零れ落ちる涙が止まらない。目を閉じれば、先程の光景が浮かんでくる。
「ごめん……なさい……。リトア、ごめ、なさ……」
手を払った瞬間、別れを告げた瞬間、場を去った瞬間、彼はまるでこの世の絶望だと言わんばかりの表情をした。そうさせたのは誰でもない――私だ。
(……本当は)
できることなら、許されるなら、リトアの純粋で真っ直ぐな愛にずっと包まれていたかった。死がふたりを分かつまで傍にいたかった。
忍であっても私も一人の、ただの女だ。生まれて初めて恋し愛した男性にはすべてを捧げたい。
しかし相手は狼族・始祖家、無論その気持ちは同胞を――血族を――主を裏切るものだ。だから迷い悩んだ、安寧を選ぶか変化を選ぶか。
どちらも切り離せない、私にとっては究極の選択だった。残酷な天秤が上、下、と浮いては沈んで私を軽蔑する。だが動き出した想いは溢れだすばかりで、私は道徳心と引き換えにリトアと歩む覚悟を決めた。
もしも他の陰影隊が自分の立場であったら躊躇わず『誇り』を選んでいたであろう。
忍は主に仕え闇に死ぬ、それが忍の美学であり掟だ。色恋に現を抜かす馬鹿はいない。
いるのは――私くらいだ。
『――愛してる』
そして彼も又、『大神』と言う存在のために自ら罪人となった。ならば私も彼と一緒に堕ちたい、彼の背負う罪を私も背負いたい。
二人の幼い愛が世界に積もる。だけど、おかしくも平和に過ぎていく日々の中で不安が生まれた。
――寿命の短い『人間』の私でいいのか?
リトアは純血のウルフだ、ヴァンパイアの主同様に幾万の時間を生きる。同じ『永遠』を刻めない私に彼の『孤独』は救えない。
(……逃げたのよ……私は)
考える程、恐ろしくなった。彼の役に立てない自分が、か弱い自分が、何より脆い自分の肉体が、いつかリトアが思い知る未来が怖くてたまらない。
――何故、『人間』を愛してしまったのか?
彼の愛は本物だ。私に触れる指先で、私にわける体温で、私に向ける愛しみの眼差しで、私に求める欲で、伝わってくる。
故に当たらずと雖も遠からず、彼は私が齢を重ねるたび素朴な疑問を抱くはずだ。
――何故、大神は『人間』なのか?
答えの出ない難問に彼は後悔する。何れ私を恋う想いで苦しむだろう。
(……私は人間)
運命は残酷だ。好きなのに、大好きなのに、愛しているのに、大切にしたい彼に私は悲しみしか与えてあげられない。
(どうして私は人間なの……、どうして私はウルフじゃないの……、どうして私は……っ)
どうして――どうして――どうして――際限がない自問の果て、彼と寄り添い生きられない私は関係を絶つ自答を受け入れざるを得なかった。
天上神に問いたい、私たちに別れ以外の最良な道はあったのか?
「……うっ、ひっく」
自分の臆病さにうんざりする。結局はリトアを信じられなかった結末だ。
「リ、トア……ッ」
彼に必要とされたい。彼と幸せになりたい。
「……うっ、……ッ」
望んでは虚しく散る、抑えられない想いを奥歯で噛み殺す。埋められない距離は私が広げた。泣く資格はない。
これも一つの愛の形だ。
「……も、止まれっ……!」
流れるしぶとい雫を拭った。何度も、何度も、痛みで微かに残存した未練を削る。
(しがみつく、なッ!)
天使の歌声は途絶え、青空はひび割れ、空気は乾き、華舞う夢は覚めた。眩しい彼の残像を追ってはいけない。
「大丈夫っ、私は大丈夫……」
嘘で、偽装で、自分を塗り固める。私は抜け殻の魂に『大丈夫』と唱え続けた。




