見知らぬ街で・八
ベイルさんが食堂にやってきたのは、とっぷりと日が暮れてからのことだった。まっすぐに私達のテーブルに来ると、
「いきなりで悪いが、街に行く」
開口一番、そう告げた。ぽかんとする私の代わりに、問い掛けたのはシェルさんだった。
「ナオを連れてか? この時間に、何をしに行くんだ」
「解呪師に会いに」
「解呪師はどこにいる」
「花歌」
その答えを聞いた途端、シェルさんの表情が渋くなった。
「ならば尚更、明日にする訳にはいかんのか」
「早いうちに済ませた方がいい」
淡々とした返答は、まるで打てば返る鐘の音のようだ。一歩も譲らない。シェルさんの眉間に深い皺が寄る。けれど、不意に響いた笑い声が、重い空気の会話を断ち切った。
「諦めろ、シェル。そいつが決めたなら、何を言おうが無駄だ。みすみすナオを危険に晒すこともあんめえ、黙って見送っとけ」
シェルさんが振り返る。その視線の先で、ヒューゴさんはおどけるように肩をすくめて見せた。しばらくの沈黙の後、シェルさんが諦めたように溜息を吐く。
「余り、驚かせてやるなよ」
「ガキを驚かせて楽しむ趣味はねえ」
準備はいいかい、とベイルさんが私を見る。頷き返して、席を立った。直生さん、と心配そうな声を上げた慶寧君に、答える代わりに笑い返す。そうしてベイルさんの後に続き、食堂を出た。
「花歌は薄昏の隣だ。治安はお世辞にもいいとは言えねえ」
「そんなところに、解呪師の方はいるんですか」
「そんなところだからこそ、だろうな」
「ですか……。でも、私がついて行ってもお邪魔になるんじゃ」
「カレルヴォは腕のいい癒術師だが、解呪師じゃねえ。解呪師にも診せておいて、悪いことはねえからな」
昼間の診察の延長ということだろうか。それにしても、これまでに聞いた評価とは全く異なる、驚くほどの念の入れようだ。
「すみません、ご迷惑をお掛けします」
「謝られることでもねえが――そうだ、馬には乗れるかい」
「馬? ですか?」
ああ、と短く肯定する声は、どう聞いても冗談を言っているようには聞こえない。ひく、と頬が引き攣った。生まれてこの方、私は馬という生き物に一つの縁もない。
「……すみません、乗れません」
「そうかい。なら、俺の後ろ――いや、前の方がいいか。ともかく、一緒に乗せてくが」
「あ、はい、宜しくお願いします」
歩きながら、頭を下げる。ベイルさんは肩越しに視線を投げると、また「いや」とだけ言った。
昼間にも通った広いホールからお城の外に出ると、既に手配していたのか、二頭の馬を連れた女の人が待ち受けていた。ベイルさんは女の人から手綱を受け取りながら、もう一頭を示す。
「そっちは厩に戻しといてくれ」
「使わないんですか?」
ベイルさんが頷くと、「分かりました」と女の人は残された馬を促して、厩があるのだろう方向へと歩み去って行った。
ベイルさんは馬を引いて歩き出す。迷いのない足取りで正門をくぐり、外に出るとすぐに馬に跨った。乗り手に応えるように馬が小さくいななき、思わず私は腰が抜けかけた。
「そう怯えるな」
ベイルさんは巧みに馬を操り、私の前で横腹を見せるようにして止まらせると、身体を捻って上体を屈めた。脇に差し入れられた手が私の身体を掴み、足が宙に浮く。その瞬間、裏返った悲鳴を堪えられたのは、きっと奇跡に近い。
宣言通り、私はベイルさんの前に乗せられた。恐る恐る馬の鬣に掌を乗せると、じんわりとした温かさが伝わってくる。
「何か不都合はあるかい」
予想外に近くから聞こえてきた声に慌てて首を横に振れば、後ろから伸びてきた手が目の前で手綱を掴んだ。抱えられるような格好になったことに今更気が付いて、どきょりと心臓が跳ねる。
「なら、動くぞ」
答えを返す間もなく、馬が走り出した。その勢いでのけ反った身体が、どしんと背中からベイルさんにぶつかる。
「す、すみません!」
「いや。寛げるとは思わねえが、楽なようにしてりゃいい」
真実気にしていなさそうな声に、ほっと息を吐く。ただ、すっかり後ろに傾いてしまった重心が、元に戻せなくて困った。腹筋を総動員してみても、どうやっても、身体を起こせない。
「……その、起き上がれなくてですね」
「別に、構いはしねえが」
問題はない、とまた淡々とした声音。そう言われると、逆に動かないでいた方がいいような気もしてきた。変に動いて、邪魔になってしまってもいけないし……。
町が見えてきたのは、それから数分後のことだ。砦と同じように、周囲にはぐるりと壁が巡らされている。ベイルさんは馬の歩みを緩めてから、篝火の灯された門に近づいた。
馬の足音を聞きつけ、門番の人が走り寄ってくる。
「アルトゥール商会一番部隊長殿とお見受けします」
「ああ。花歌に人を訪ねる用事で来た」
「門は、後三時間で閉じますが」
「それまでには出る」
承知しました、と残し、門番の人は馬から距離を取った。
再び馬が走り出す。門をくぐり、知らない通りを軽やかに駆けていく。まだ日が沈んだばかりだというのに、辺りは驚くほど人気がない。それどころか、進めば進むほど閑散としていく。まるで街そのものが息をひそめているようだ。
「人がいねえのが、不思議かい」
不意に訊かれて、辺りを見回していた目を上げる。少し首を反らすと、まっすぐに前を見据える顔が見えた。
「招籠を含む治安の良い辺りはそうでもねえが、特に薄昏や花歌の近辺は、日が暮れたら外に出ねえのが暗黙の了解だ」
「危ないから、ですか」
そうだ、とベイルさんが頷く。本当にこの街は私の住んでいたところとは、何もかもが違うらしい。
「とは言え、今はさほど心配する必要もねえがな。粋蓮は商会の勢力下で、俺は一応その幹部だ。真っ向から喧嘩を売る馬鹿は、そういねえ。――と、ここだな」
かつ、と蹄を鳴らし、馬が止まる。古びた建物の前だった。硬そうな飴色の扉と厳めしい鉄のノッカーを、壁に取りつけられた白く光る石が、ぼんやり照らしている。
「直生」
呼ばれて、振り返る。
「暴れるなよ」
「へ? ――あわっ」
また両脇を掴まれて、身体が浮いた。石畳に降ろされる。
「扉を二度叩いてくれ」
動揺する間もなく下された指示の通りに扉へ歩み寄り、重いノッカーを持ち上げ、二回叩く。
「ご苦労さん」
声は、すぐ後ろから聞こえた。顔だけを振り向かせれば、馬を下りたベイルさんが、手綱を片手に立っている。
「少し脇に寄ってろ」
馬とベイルさんの間に入るよう、手振りで示される。指示に従って退くと、背後でちょうど扉が開いた。
「どちら様です?」
微かに開いた扉の奥から聞こえたのは、女の人の細い声。
「汝が求める処を我は知れり」
「……空ろに近づき過ぎることなかれ」
「夢の泡に溶かされども」
不思議なやりとりは、合言葉か何かだったのだろうか。短い沈黙の後、「どうぞ」と促す声がして扉は開いた。扉の奥には、声の通りに線の細い女の人がいた。
「馬を頼む」
ベイルさんが言うと、無言で女の人は片手を差し出した。なのに、何故かベイルさんは手綱を渡さず、
「帰りに無事走れるようなら、もう一枚出す」
銀貨を落とした。女の人は掌の銀貨を確かめると、無言で逆の手を出す。今度こそベイルさんは手綱を渡し、私の背中を押して扉をくぐった。
「……!」
その瞬間、ぞっと背筋が震えた。冷や汗が噴き出し、総毛立つような恐怖が全身を支配する。このまま進んでしまえば、取り返しのつかないことになる。そんな、根拠のない確信。
「突き当たりの階段を上がって、すぐ右手の部屋です」
立ち尽くす背中に、女の人の声がかかる。恐怖に麻痺した頭では、その意味を理解することすらできなかったけれど。再び背中を押され、薄暗い廊下を進みだす。歩む足が鉛のように重い。きしきしと鳴く床にさえ、恐怖が煽られる。
「大丈夫かい」
背中の向こうから投げられた問いに、肩が跳ねた。首を横に振りたい衝動を耐えて、唇を噛んで頷く。いつの間にか、妙に呼吸が速くなっていた。それを察しての問いだったのかもしれない。
「後ろからの攻撃には、俺が楯になれる。見えてる範囲なら、何か起きても被害が出る前に対応する。そう怖がるな」
気遣ってくれる言葉は、優しすぎた。足が止まる。怖くて怖くて、どうしても先に進めない。歯を食い縛って溢れ返る感情を抑え、振り返ると、ベイルさんは微かに目を見開いた。
「どうした?」
足を止めたベイルさんが私の顔を覗き込む。何か言わなければならないと思うのに、感情を抑えるのに一杯で唇が開かない。少しでも気を抜けば、涙が零れてしまいそうだった。シャツの裾を両手で握り込み、やっとのことで言葉を押し出す。
「……何だか、とても嫌な感じがするんです。このまま進んでしまったら、取り返しがつかなくなって、だから、進みたくない。なのに、進まなければならない、気も、して」
何を言いたいのか、何を言うべきなのかも分からない。落ち着かなくては、と思うのに、頭はひどく混乱していた。
「いきなりどうした、と訊いてる暇は、今はねえな。どうしても辛いなら、『黒の鎧亭』ででも待ってるかい。解呪師との話し合いが終わったら、迎えに行く」
答えようと口を開くと、また悪寒が背筋からうなじへ走った。
『――それは、困るな』
脳に直接言葉をねじ込まれているような、奇妙な感覚。意味はないと分かりながらも、耳を塞がずにはいられない。
『狂おしいほど待ち望んだ機会だ。逃しはしないよ』
頭の中に響く声が笑うと、周囲で猛然と突風が迸った。ベイルさんが舌打ちをし、私を両腕で抱え込む。――直後の、暗転。
世界が真っ暗闇に塗り潰される。内臓がひっくり返りそうな浮遊感。ひどく気持ち悪い。吐き気を堪えて呻いていると、闇は唐突に晴れた。
「強引な招待だな」
不機嫌そうにベイルさんが言う。私達は、知らない部屋の中にいた。光を放つ白い石の照明で、室内は驚くほど明るい。
「手荒になったことは謝るよ。君が抵抗しなければ、もっと優しくできたのだけれどね」
答える声の異質さに、吐き気も忘れて息を呑む。ベイルさんに抱えられたままでは、その姿は窺えない。身体を捻って声の主を振り返り――もう、目を見開く以外の行動が思いつかなかった。
「おや、驚かせてしまったね」
ソファに座ったその人が、にこりと柔らかく笑う。
一体「何」なのだろう。「誰」と考えることもできないほど、その人は奇妙だった。顔、声、色、体格、服装。その全てが瞬く間に変わっていく。白い肌の少女だったかと思えば、黒い肌の青年に変わり、一瞬たりとも同じ姿を留めない。
誰でもあり、誰でもない誰か――とでも言えばいいのか。
「何者だ」
低く問うベイルさんの声には、気のせいでなく警戒が滲んでいた。確かにこの人はおかしい。理屈は分からないけれど、ヒトとして有り得ないと、本能が告げている。