夢の終わり・二
沈黙、静寂。流れる風の音だけが耳につく。きっと勝負は決まったのだろうけれど、対峙したまま二人は動かなかった。暗い空は淀んでいて、まるで時が止まってしまったようだった。
「一睡の――夢を、見ていたようです」
おもむろに、声が聞こえてきた。穏やかな、ひとの声。
そうかい、と平淡な声が応じる。
「何にしても、塵は塵、死者は死者に、土へと還るのが定めだ」
「そうですね。でも、その前に、伝えないと」
疲れ果てた口調で、ハーデさんは続ける。
「僕を歪ませたものがいる」
「何だと?」
「僕は五年前のあの日、死にました。彼女を殺した国が、軍が許せなくて、独りで挑んで、独りで死にました」
「馬鹿が」
憤りも濃く吐き捨てる声に、かすかに笑う気配。そうですね、と穏やかな声が笑う。
「でも、僕は、それでよかった。死ねば、ひとは不知火の国の住人になる。そこにいけば、会える」
ソラナに。ハーデさんは愛おしげにその名前を呼んだ。
この世界では、死後の世界を「不知火の国」という。そこで生前の善行と悪行を秤にかけられて、生まれ変わる順番を待つのだそうだ。善行が多いほど早く、悪行が多いほど遅くなるらしいのだと、前にハーデさん自身が教えてくれた。
「だから、死ぬならそれでよかった。蘇りたいなんて思わない」
「だったら、大人しく死んでりゃ良かっただろうが」
相変わらず、ベイルさんは手厳しい。ハーデさんはその声にもくすくすと笑って、
「でも、僕が死んだままだったら、隊長はナオに会えませんでしたよ。感謝してもいいんじゃないですか、そこは」
「そうかい、そりゃどうも」
そして、どうしてそんな平然と肯定なんてしてくれちゃったりするのだろう。……顔から火が出そうだ。
「で? 何が言いたい」
「気を付けてください。決して警戒を怠らないで。僕らのことを知って、利用しようとする何かがいる。国や、貴族や、軍なんてものじゃない。もっと薄暗い何か。それが僕を蘇らせた」
「参考までに、覚えておいてやる」
「ええ、ナオを泣かせたくないのなら、是非」
悪戯っぽい声。ベイルさんが溜息を吐く。振り回されている、ことになるのだろうか? 珍しく。
「それから、最期に。あなたを恨んだこともあった。でも、あなたは僕らの唯一の光であり、寄る辺でした。あなたの下にあった日々は、僕にとってかけがえのないもので、何よりの誇りです」
真摯な声には、「買い被りだ」と冷えた言葉。
「お前が思うほど、俺は完璧じゃあない。狂わずに済んでいるのは、それに耐える手段を持っているからだ。本当に正しい、最善の選択肢を選べたのなら、もう少しマシな結末もあったろう」
静かな声は、何故かひどく物悲しかった。
「だからと言って、お前達と同じだと言うつもりもねえが」
「あなたらしい言葉だ。……けれど、きっと、だからこそ私はあなたに憧れた。でも、それはあなたに、自分の求める理想を見ていただけなのかもしれない」
ベイルさんは答えなかった。その背中に隠れて、ハーデさんの姿は窺えない。だから、耳を澄ませた。その言葉くらいは、きちんと覚えておこうと思ったのだ。
「ナオ」
「は、はい?」
いきなり呼ばれて、どきりとする。つっかえながら返事をすると、小さく笑うのが聞こえた。
「私は、謝りはしない。それをするのは卑怯だから。よって、称賛しよう。君は私の思惑を超えて走り続けた」
「あ、ありがとう、ございます」
「仇に礼を言うなんて、本当におかしな子だ。いや、だからこそか。――ねえ、中佐。あなたは変わらないと言いましたが、撤回します。あなたがこうも変わるだなんて、思いもしなかった。それもまた、悪くないのでしょう、きっと」
ベイルさんはまた「そうかい」と答え、短い沈黙の後、
「他に言い残すことがあるなら、聞くだけ聞いてやるが」
「もし、叶うのなら。ニーノイエのことを、少しだけでもいいので、気にかけてあげてください。国の守護神と恃んでいた竜が死んだ時から、彼の国は二つに割れてしまった」
それはリオネルさんも口にしていた話だ。全ての記憶を取り戻した今なら、その事情も思い出せる。
ニーノイエの国には、たった一頭の竜しかいなかった。その火竜は国に関わろうとしなかったけれど、彼が存在するだけで〈竜の寵児〉は生まれる。〈竜の寵児〉を軍の重要戦力と数えるニーノイエでは、まさに守護神だったのだ。
けれど、その竜も先年、亡くなってしまった。竜がいなくては〈竜の寵児〉も生まれない。軍の弱体化を恐れ、数多く竜を擁する隣国の侵攻を恐れ、そうしてニーノイエの国は割れたのだ。
「どうして、私達は彼らに振り回されねばならないのか」
嘆き深いその問いに、一体この世の誰が答えることができるだろう。沈黙だけが無情に、荒野を流れていく。
はは、と乾いた声でハーデさんが笑う声がした。
「つまらない話をしてしまいましたね。……ねえ、中佐。不知火の国は、いいところでしょうか」
「さあな。死んだことがねえから、知らねえ」
「ふふ、それもまた、あなたらしい……。――ああ、もうすぐ、今度こそ、会える。待って、いて、ソラ、ナ」
恋い焦がれるひとを呼びながら、声は途絶えた。
びょう、と風が吹く。残された魔力の欠片も、その風に乗って消えていった。今度こそ、本当に終わったのだ。
ざり、と砂音を立ててベイルさんが振り向く。その向こうに、ハーデさんの姿はなかった。ベイルさんは私の前までやってきて足を止めると、空を仰いで言った。
「ソラナは、ハーデの愛した女だ。あいつと同じように、俺の部下だった。七年前に死んだ」
「そうですか。……ハーデさんは、」
「死に損ないの討伐は、光属魔術師の専売特許だ」
結局、ベイルさんにかつての仲間を殺させてしまった。それをどうにかしたくて、散々迷惑を掛けて、無茶もしたのに。
「気に病むな」
俯いた頭の上に、手が乗せられた。くしゃりと撫でられる。
「後悔はしちゃいねえ」
「そう、ですか」
「ああ。だから、そら、顔を上げろ。勢揃いだ」
促されるまま顔を上げると、肩に手を置かれて身体が反転させられた。目に飛び込む景色に、胸が詰まる。
ヒューゴさんとシェルさんが、何か言い合いながら走ってくる。玄鳥さんの姿は見えない。どうしたのだろう、ときょろきょろしていると、ハイレインさんが地響きをさせて降り立った。その余波で一足先に到着していたヒメナさんとテオドロさんが転びかける。ジヴルとエンデは少し離れたところにいて、何やら話をしているようだ。エンデがこちらに向かって足――尾と言うべきだろうか――を踏み出そうとして、ジヴルに止められている。
「直生」
鈴を転がすような声。その主は、ふわふわとハイレインさんの傍を浮遊していた。
きっと、卵から孵ったアーディンもハイレインさんのように綺麗な竜なのだろう。実際に見られないのが、少しだけ残念だ。
「御苦労、よく戦ったものだ」
「いろんな人に、たくさん助けて頂いたお陰です」
「左様か。ああ、玄鳥から伝言があった。『祝いの場に黒い鳥は不吉、お先に失礼致しやす』――とのことだ」
「そうですか……。お礼を言いたかったのに」
溜息を吐くと、肩にあった手が再び頭の上に乗った。
「今度会うことがあれば、伝えておいてやる」
「すみません、お願いします」
そんなやりとりをしていると、ぐっとアーディンが身体を伸ばした。解放感に浸るように、目を細める。
「ようやく、これでほぼ全てが終わったか。我も、久方ぶりにゆるりと眠れよう」
「そうですねえ。……。……ん? ほぼ?」
「何すっとぼけてんだ。お前から腕を抜くやら、帰り支度をするやら、まだやることは残ってるだろう」
ああ、そうだった。ここは旅の終わり、最果ての地。
戦闘も、何もかも終わった。それは別れの時が迫っているということに他ならない。
「そっか、帰れる……んですね。まだ、実感がないですけど」
「帰る?」
何故か、その一言にヒメナさんが反応した。
「どこへ帰るの?」
「どこも何も、家に帰るに決まってんだろう」
「隊長は、どうするの」
「商会に戻って報告する以外に何がある。話が進まねえから、少し黙ってろヒメナ」
「何よその言い草!」
食って掛かるヒメナさんを、テオドロさんがなだめる。ベイルさんはその光景を一瞥すらせず、ハイレインさんを呼んだ。
「面倒の種になるものは、全部持っていけ。お前の責任だ」
「もちろん、そうするとも」
ハイレインさんの――巨大な竜の目が、ゆっくりと瞬く。
ふわりと淡い光が漂ってきた。左腕を包む眩しさに目を細めていれば、強い風が吹き抜けたような衝撃に襲われる。ただでさえ疲れている身体は耐えきれず、膝が砕ける。真後ろに立っているベイルさんが支えて、身体に寄り掛からせてくれなければ、きっと座り込んでしまっていた。
「定着した魔力まで消すことはできないけれど、混ざり合わないよう術式を組んでおいたよ。容易には破れないはずだ」
「そりゃ重畳」
「じゃあ、これで本当にナオとはお別れっつー訳か」
ようやく会話の場に到着したヒューゴさんが、しみじみ言う。
「ねえ、それで、帰るって、ここから一人で? どうやって帰るっていうのよ?」
再びヒメナさんが問う。答えはどこからも上がらなかった。多分、誰もがどこまで話していいのか迷っていたのだろう。短い沈黙の後、口を開いたのはやはりベイルさんだった。
「こいつの故郷は、遥か遠い。帰るにも時間が掛かりすぎる」
「だから、私が手助けをするのだよ。転移であれば、一瞬だ」
「確かにそうだけど――それって、やっぱり、ここで別れるってことよね?」
「それ以外に何がある」
「……それで、いいの?」
それは、きっと一番訊いて欲しくなかったことだ。
私は曖昧に笑うしかできず、ベイルさんは答えなかった。
「故郷に、家族がいるんです。このまま帰らなければ、私を育ててくれた人が困るし、妹や弟も心配するでしょうから」
そう、とヒメナさんが沈んだ声で呟く。ヒメナさんの肩を抱いて、テオドロさんが悲しげな顔で笑った。
「さみしくなるね」
「ねえ、もう少し帰るのを先にするのは?」
その言葉に心惹かれない訳ではない。でも、決して受け入れてはいけないものだ。ゆっくりと首を横に振る。
「先に延ばしても、辛くなるだけなので」
そう答えると、ヒメナさんは「そうね」と目を伏せ、もう何も言わなかった。
「では、そろそろかな? 直生」
ハイレインさんの問いに頷く。ベイルさんが背中を押してくれて、どうにか自分の足で立つことができた。皆が私を見ている。本当にたくさん、助けてもらった。その感謝だけは、ちゃんと伝えておかないと。これが、最後なのだから。
まずは、一番近くにいたヒューゴさんに。その名前を呼ぼうとして、声が詰まる。うっかりすると、泣いてしまいそうだった。
右手で、後ろ手に探す。少しだけ、勇気が欲しかった。
するりと右手に指が絡む。自分で探したのに、いざ応えてもらえると気恥しいような、妙な気分になった。それでも、触れ合う暖かさは、確かに背中を押してくれる。
「ヒューゴさん。ずっと、たくさん親切にして下さって、ありがとうございました」
「礼を言われるほどのことじゃねえやな」
屈託なく笑う姿は、今まで通りに陽気そのものだ。その明るさに、何度も救われた。
次に、その隣のシェルさんへ目を動かす。
「シェルさんも、あの薔薇の――」
言いながら、首が軽いことに気付く。はて、と見下ろすと、ネックレスは忽然と姿を消していた。そう言えば、戦いの中で――
「ああ、術式の媒介に借りた。そしたら壊れた。悪い」
「そんなあ!?」
さらりと言われて、思わず振り向く。ベイルさんは肩を竦め、
「手が足りなかった」
「……まあ、気にするな、ナオ」
がっくりと肩を落とすと、苦笑しながらシェルさんが言ってくれた。お礼を言うはずだったのに、どうしてこんなことになっているのだろうか。おかしい。
「シェルさんにも、本当にお世話になりました。あの飾り、とても素敵でした」
「そう気を使ってもらわんでもいいんだが、どう致しまして、と言っておくか」
はい、と笑い返して、ジヴルを見る。
「ジヴルも、助けてくれてありがとうございました。それから、いろんなものを頂いてしまって」
「何、気にすることはない。久々に懐かしい、騒がしい子供と会うこともできた。私は私で楽しくやったでな」
「子供じゃねえっつってんだろ」
「私から見れば、まだまだひよっこに過ぎんわ」
ジヴルが鼻で笑い、ヒューゴさんが食って掛かる。それを呆れ顔でなだめるシェルさんの姿に笑いながら、ヒメナさんとテオドロさんへ目を向けた。
「お二人にも、お世話になりました」
「いや、俺達もこのことを知れて良かった。感謝してるよ」
「それに、謝るとしたら私の方だわ。酷なこと、言ってしまったわよね。でも、隊長が人でなしだからいけないのよ」
拗ねたように言うヒメナさんを、またテオドロさんがたしなめる。きっと、それが二人の日常なのだろう。これからも、そうやって元気でいてくれればいいと思う。
次にアーディン、と目を動かすと、彼女は凛とした表情で首を横に振った。
「礼は要らぬ。ヒトというものも中々興味深いと、汝から学んだ我の方こそ、礼を言う。健やかに暮らせよ」
頷いたところで、その背後に新たな人影が出現した。
三色が斑になった髪、すらりと細長い体躯。そして、穏やかな水色の双眸。――草原の国の竜の、空蝉。
「ケラソスさんにも、たくさん助けて頂きました。本当に、ありがとうございました」
「いいえ。あなたこそ、よく最後まで」
「一人ではなかったので。そのお陰です」
「そうですか、それは良かった」
にこりと微笑んでくれるケラソスさんに頷いて、今度はハイレインさん――と思ったけれど、先回りをされた。
「私も、礼は要らないよ。巻き込んで済まなかったね」
その言葉には、首を横に振る。辛いこともあったけれど、この世界で得た全てがそうではないのだし。幸せなことも、嬉しいこともあった。ありがとう、とハイレインさんはかすかに笑う。笑い返しながら、次に別れと感謝を告げるべき相手を探し――
「エンデ」
いつの間にかすぐ近くに、今にも泣きそうな顔をした彼女がいた。エンデは身体を屈めて、両腕で私を抱き締める。
「ありがとうね」
右手は塞がっていたので、左手を背中へ腕を回す。
「エンデが助けてくれて、一人じゃなかったから、進んでいけた」
「礼には及ばぬ。今度こそ、幸せになるのだぞ。そなたの幸いを祈らぬ日はない。私は共に行けぬが、私の祝福がそなたを守る。遠く離れようとも、必ずそなたを助けよう」
「……ありがとう」
もう一度言って、ぎゅうっと抱き締め返す。
「私も、ずっと、いつも、エンデの幸せを祈ってる」
「ああ――ああ、幸いあれ、愛しい子、優しい子」
そう残して、エンデが離れる。これでもう、残りは一人になってしまった。少し躊躇ってから、振り返る。
穏やかな藍色の双眸が、私を見下ろしていた。これまでと同じように、いつもと同じように。――いつだって、そうやって見ていてくれた。助けてくれた。守ってくれた。
「ベイルさん」
呼べば、ああ、と吐息のような答え。
「本当に、ありがとうございました」
この気持ちを、どう伝えればいいのだろう。そんな言葉だけでは、とてもじゃないけど足りない。
「このご恩は、いつかきっと、必ず、返しますから」
「気にしなくていい。俺が好きでやっただけだ」
そういう物言いさえ、今になっても変わらない。
かなわないなあ、と心の底から思う。
「あの、ベイルさん」
「ん」
「私、やっぱり、ちゃんと帰りたいです。血は繋がってなくても、あの子達は私の家族だから、きっと心配してると思うし―――そうじゃなくても、妹や弟に会いたい」
「そう思えるようになったなら、何よりだ」
「でも、この半年のことも、忘れたくないです。大変なことも、辛いこともあったし、後で思い出して悩んだりするのかもしれないけど、でも、忘れたいことではないです」
ああ、ともう一度ベイルさんが呟く。
「それなら、良い」
「それで――ええと、その、この世界も、結構いいところだと思うんです。だから、」
だから、なんだ。思考が止まる。言いたいことは分かっているのに、どう伝えればいいのか分からない。そもそも、それを言うのは妙に偉そうな気もした。
困り果てて俯くと、小さく笑う気配がした。
「そう気を回すな。まずはお前が、お前の生きたい場所で、幸せになれ」
本当に、ベイルさんはいつも私を甘やかし過ぎなんだから。最後くらい突き放してくれないと、別れ辛くって困るじゃないか。
顔を上げられないでいると、繋いでいた手が離れて、頬に触れた。唇を噛んで、溢れそうな感情を堪えて見上げれば、少しだけ困ったような顔があった。
「泣くなよ」
「泣いてません」
意地になって、言い返す。
「だったら、笑え」
無茶を言う人だ。こんな状況で、本当に、無理を。
「命令ですか」
「違うさ。――お願い」
さらりと言われて、思わず吹き出してしまう。さっきまでの胸の苦しさが嘘のように、あっけらかんと、笑えた。
「よくできました。――これからは、無理をしすぎるなよ。もう母親役はいなくなる」
「はい。……ベイルさん、お母さんみたい」
ちょっとだけ笑って言うと、ベイルさんは嫌そうに顔をしかめた。その表情が妙におかしくて、私はまた少し笑った。
「ベイルさん――マリアノさん」
「何だ」
「どうか、幸せに。いつも、祈ってますから」
最後の勇気を振り絞って、頬に添えられた大きな手に、自分の手を重ねる。ベイルさんは一度瞬いた後で、
「お前が、幸せなら」
ひどくやさしい顔で、笑った。
明けない夜はなく、終わらない夢もない。
そうして、彼の人の夢は終わり、私の旅も終わった。厳しくも忘れられない、異世界の長い長い旅路は、ようやく幕を引いたのだ。




