夢の終わり・一
上手い具合に駒が増えた。このまま延々戦い続けるよりは、一発逆転を狙って賭けてみるのもいい。そう言って、ベイルさんは私を抱える手を離すと、一振りの剣を召喚し、差し出した。今まで使っていたものとは全く違う、反りのない銀の短剣だった。
『手伝ってくれるかい』
「もちろん」
『術の構築はこっちでやれるが、そこから先の魔力が足りねえ。お前はありったけ魔力を込めてくれ。レラエノはラヨビガと違って媒介用の儀礼剣だから、遠慮はいらねえ』
頷いて、両手で剣を握る。剣は注げば注いだだけ、際限なく魔力を蓄えていった。私の刀では蓄えきれずに壊れてしまうだろう量にすら、ぴくりともしない。
す、と背後から伸びてきた大きな手が剣を握る手に重なった。振り返れば、煌めく黄金の眼がある。
『少しだけ我慢しろ。傷つけはしねえ』
言われるまでもない。刃のように鋭い爪を備えた指先が、細心の注意を払って手を包んでくれたことは分かっている。触れる掌はやはり暖かくて、そんなことが無性に嬉しい。
「大丈夫ですよ、気にしなくて」
「……そうかい」
唸るように言って、ベイルさんは私の手を持ち上げた。ハイレインさんの助けを得ながらハーデさんと戦うヒメナさんは、何とか互角の状況を維持している。それでも戦況は一瞬と留まらず動き続けていて、狙いをつけるのは困難に思えた。
「大丈夫ですか?」
「愚問。そっちこそ、どうだい」
大丈夫です、と頷けば、静かにカウントが始まった。
◇ ◇ ◇
大気が撓んだと錯覚するほど膨大な魔力の発露。その気配と、ヒメナの姿が消えたこと。ハーデが気付いた時には、目の前は眩いばかりの光で覆い尽くされていた。
長きに亘る戦いに幕を引く、その為にこそ放たれた浄い雷光。直撃したが最期、致命的な一撃になることは分かり切っていた。しかし、それを理解していて尚、ハーデは避けなかった。光の奔流に半身をもぎ取られながら、獣のように吼え猛り、宙を蹴って疾走する。そこにはかつての面影など微塵もない、変わり果てた異形の姿だけがあった。
臨む先に現れた、そのもの。風になびく白金の髪。墨のように黒い肌。刃のように長く鋭い爪。額の天を衝く一角。
驚きはない。見飽きるほどに見てきた、時には自分の手で屠り去ったこともある、ただの異形の姿だった。そう思い返して、不意に胸に過った感慨をベイルは扱いかねた。
憐れみとも、悔しさとも似て非なる何か。戦場では、一瞬の隙が命取りになる。その現実を熟知しているにも関わらず、ベイルは初めて戦場で困惑した。その困惑の間に、罅割れた咆哮が轟く。我に返った時には、それが目前に迫っていた。舌打ちをして、腕の中の娘を背後に押しやる。庇う為でも、隠す為でもあった。
それこそ絶望、或いは憎悪そのものだった。炎の形すら失い、対象を破壊する為だけに爆ぜる漆黒の波動。それに触れた時、ベイルはかつての部下の慟哭と煩悶を知った。
果てのない問いだった。――何故、と彼は憤る。
何故、このように生まれねばならなかったのか。何故、幸薄い生を享受せねばならないのか。何故、思う儘生きることは許されないのか。何故、酷使されねばならなかったのか。何故、戦わねばならないのか。何故、殺さねばならないのか。――何故、彼女は殺されねばならなかったのか!
「そんなことを、俺が知る訳がねえだろう」
血を吐くような叫びを前にしても、ベイルはいつも通り淡々と呟くばかりだった。そんなことを知る由もない、興味もない。そういう風に生まれついた。ついてしまった。
「あなたは、卑怯だ。世界を変えられる力を持っているのに。救われぬものを救う力を持っているのに。何故」
憎悪と絶望の向こうから、声が響く。
「聞く価値のねえ問いかけには、飽きた」
消えろ、と冷酷な言葉を紡ぐ――その、寸前。
声が、聞こえた。声を嗄らせて、自分を呼ぶ声。
名前を名乗れなくなった自分を識別する為、その為だけに名乗った、ただの記号。そのはずであったのに、彼女が口にすると不思議と悪くないもののように思えてくる。
困った、とひとりごちる。事ここに至り、ようやくハーデの消耗も頂点に達しようとしている。その好機に、早々と始末をつけてしまおうと思っていた。――だというのに。
「ベイルさん!」
分かってしまっているのだ。必死になって自分を呼び、小さな手で背中に縋りつく彼女が、それを望まないだろうと。
困った、ともう一度胸の内で呟く。こんなはずではなかった。そんな人間にあるような機能は備わっていない。何が起ころうと無関心、何をされようと無感動――そういう生き物であり、そう生まれついたと自認していたというのに。
「全く――手間を取らせる」
嘆きの振りをした声音。そんなぼやきを落としているうちに、憎悪に狂えるかつての部下は少女の存在を思い出したらしい。破壊する為だけであったはずの闇が、茨を模る。
「手を出すなと、言っただろうが」
手を伸ばして、背後に庇った小さな身体を引き寄せる。抱える腕が足りないのが、少し悔しかった。
『――手が足りなさそうだね』
ふと脳裏に響くのは、どこか楽しげな竜の声。
『とっておきだ、感謝して使ってくれたまえよ』
『ほざけ、必要経費だ』
途切れた左腕の断面に、熱を感じた。失って久しい感覚が接続されていくのは、些かの不快感があったが、脳裏で声が継げる性能に比べれば、さしたることでもない。
「借りるぞ」
言うが早いか、腕の中の娘の首飾りを左の指先で引きちぎる。押し込んだ魔力は華奢な装飾には過剰だったが、構う暇はない。飾りを投げれば、込められた術式が拡散され、辺りを押し包む闇を退けた。これでひとまずの準備は整った。
「最後にもう一度、手を貸す余裕はあるかい」
問いに答えはなかったが、頷く気配は感じた。
「貴き灯り、希う輝き」
朗々と唱える声を聞きながら、ベイルは跳んだ。
「炎を――行く手を照らせ」
◇ ◇ ◇
「其は此処に、彼方に――!」
走り出した後ろ姿を見据え、唱える。背中を預けてくれたのだと思うと、嬉しかった。傍に誰かがいてくれるということは、それだけでこんなにも温かい。あの人は、それを本当に知らないのだろうか。それとも、知っていて忘れようとしているのか。どちらにしても、哀しい。けれど、お互いに譲れず、戦うしかないのだから。せめて、きちんと向かい合おうと思う。
構築した術式を、辛うじて手の中の剣に残っていた魔力を使って放つ。青い炎が踊り、ベイルさんを導くようにハーデさんの元へと続く道標を織り成す。
「小賢しいことを……!」
腹立たしげに吐き捨て、ハーデさんが青い炎を踏み潰す。
「お前の負けだ、ハーデ・べルムデス」
「私は負けていない!」
ベイルさんの白金の剣が、鋭い爪の光る五指を腕ごと斬り飛ばす。それでも爛々とした眼で、ハーデさんは叫んだ。
「あなたは、あなただけが、侵される恐怖を知らない。知らないから、卑怯だ!」
ハーデさんの言動は、ほとんど支離滅裂だった。それこそが封じられていたものの一端――なのかは、分からないけれど。
ハーデさんから迸る昏い魔力に対抗すべく、枯渇した魔力の残滓を掻き集める。その時、うなじが震えた。
「え?」
いい、と制止する声。ぽかんとした一瞬のうちに、視界は黒色に塗り潰されていた。勝算があってのことなのだろうけれど、もしものことを考えてしまうと、ぞっと嫌な汗が頬を伝う。
その時、ベイルさんを呑み込んだ黒渦の中から、鮮烈な光が溢れた。柔らかで清冽な緑色。闇を拭い去る、明るい輝き。
「結局、お前は一人で戦い続けてきたんだろう」
ハーデさんの懐に踏み込むベイルさんの首元で、緑に光るものが見えた。ああ、と小さく笑って息を吐く。むず痒いような、誇らしいような、不思議な気分だった。
「あなたは、そうではないとでも言うのか!」
「どうやら、幸いにも」
いつの間にか、平然と応じる声はいつもの音に戻っていた。目に入るのは、短い金の髪。すらりとした長躯、大きな背中。見慣れた――よく知った、後姿。
「それは、ずるいな――」
翳された剣は緩やかな弧を描く、あの優美な白金。
罅割れた声すらも断ち斬るように、光の粒子を纏った刃はまっすぐに振り下ろされた。
◇ ◇ ◇
ああ、終わってしまった。胸の内で吐露した感情は、自分でも驚くほど淡々としていた。さして悔しいとは思わないが、どこか空虚な気分ではあった。身体を斬り裂いた剣は、浄化の光を帯びていた。摂理に逆らって維持し続けた肉体には、まさに文字通りの天敵だ。遠からず、この身体は塵一つ残さず崩れてしまうだろう。だからかもしれない、と他人事のように思う。
『本当、馬鹿ね。あんた、昔から頭が良い割に馬鹿なところがあったけど、ここまで馬鹿だとは思わなかったわ』
ふと、声が聞こえた。懐かしい、かつての仲間の声。
過ぎ去った日々の記憶が、走馬灯のように脳裏を駆け巡る。辛いことも、苦しいことも多かった。だが、それでも輝かしく誇らしい日々だった。不思議と、今は心から素直にそう思えた。
ハーデは笑って、言い返す。うるさいよ、と。
『お前に言われる筋合いはないね』
『何でこんなこと、したのよ』
『どうしても、許せなかったんだよ』
そう、とヒメナが悲しげに呟く。
『ねえ、私、テオと結婚したの』
『へえ? 隊長にあんなに引っ付いてたのに』
『……振られたのよ。情け容赦もなく』
心底苦々しげな声に、また笑ってしまう。笑ってんじゃないわよ、と刺々しい声で言われたが、止められない。
『子供がいるの』
『お前に?』
『そう。私達に血の繋がりを得ることは許されない。それでも、家族を得られたわ。ヒトの中でだって暮らしていける』
『その家族が、愛しい?』
『愛しいわ。だから、私は――私達は、世界を守りたい。それが私達の見つけた答え。ねえ、ハーデ? あなたは何を求めたの? 本当は、何が欲しかったの?』
『……忘れてしまったよ、もう』
そう、と悲しげな声がもう一度同じ相槌を打つ。
『もう行けよ、ヒメナ。お前は、お前の答えを見つけたんだろ。僕は――最期に、伝えなくちゃ』
何を、とは問われなかった。返ってきたのは、ただ一言。
『さよなら、ハーデ』
『さよなら、ヒメナ。テオドロに宜しく』




