最果てに至り・十
「修復など、容易なこと」
「修復だと?」
「ええ、〈アンドラステ〉は私の兵器ですから」
これみよがしの優越感を滲ませて、ハーデが笑う。かすかに胸中を過った諸々の感情を、ベイルは意図して封じた。今はそれにかかずらっている場合ではない。
剣を紋章に封じ直し、空手になって間合いを取る。受け手を失った刀が空を切り、直生の身体が傾いだ。その隙を突いて背後に回り、娘の竜化した左腕――正確には装飾を着けた手首を掴み、ねじり上げて魔力を押し込む。
「やはり、単純な戦闘能力では敵うべくもありませんか」
「その程度、お前が何よりも分かってるだろうに」
「ええ、知っていますよ」
どこまでも軽く、笑う声。笑いながらも自ら仕掛けてこないのは、ハイレインの猛攻を防ぐ骨竜の使役に意識を割いてしまっているからか。それとも――
刹那の思索の最中、不意に直生が背後を振り向いた。虚ろな、何の痛痒も感じていない人形のような双眸が見上げてくる。その目が暗い光を帯びた気がした。背筋を走った悪寒、それは果たしていかなる感情の表出であったか。
「さすが中佐、聡い」
ハーデの揶揄する声を黙殺し、ベイルは肘から先が綺麗に消失した義手を捨てた。咄嗟に左腕を盾にしたのは、半ば無意識によるものだった。あの術式を前にしては、生半な防御は無意味。相殺するにしても、相当な規模の術式を組まねばならない。万全の状態であったとしても、瞬時に構築するのは難しい。
「……ったく」
重苦しい声で、ベイルはぼやく。いかに向けられる術式が凶悪でも、置かれた状況が困難でも――退く気にだけはなれないのだから、我ながら焼きが回ったと呆れてしまう。
連射される消滅術式――閃光に似た発現形状を成すそれは、威力の絶大さに反して、有効範囲が極端に狭い。ほんの数瞬だけ迸り、消える。風を踏んで宙を駆けるベイルにとって、回避すること自体はさして難しくもなかった。
ふと、ベイルは虚ろな顔をした直生が玉の汗を浮かべていることに気付く。果たして、それは術の行使による疲労からか、それとも彼女もまた己の内で戦っているからか。
「直生」
呼べば、ぴくりと肩が震えた。術式が途切れる。銀の鱗に覆われた左手が、もがくように左胸を掻き毟った。
「〈アンドラステ〉!」
ハーデが叫ぶ。耳を貸すな、と命じる。髪を振り乱して頭を振り、拒絶の仕草を見せながらも、直生は刀を振りかぶった。振り下ろされた刀から、銀に光る大渦が迸る。あの万物を崩壊させる光でなければ、破ることも難しくはない。
ベイルは再度白金の長剣を召喚、斬り飛ばそうとして――止まった。渦の中心から、矢のように飛び込んでくる小さな影。突進してくる娘に向かって剣を振る訳にもいかず、ベイルは渋い表情でその突きを受けた。
「そのまま捕えなさい!」
苦痛に顔を歪めながらも、直生は命じられるがまま迸らせた魔力でベイルを押し包んだ。瞬きの間に飛行術式を分解され、落下する。背中から地面に叩き付けられ、眉間に皺が寄った。
「首を一突き。確実に、息の根を止めなさい」
刻み付けるようなハーデの言葉に突き動かされ、ベイルの上に馬乗りになった直生は両手で刀を構え直す。逆手に握った刃を持ち上げ――そして、ぴたりと止まった。
「〈アンドラステ〉、私の命令が聞けない?」
ハーデの不機嫌そうな声にも、直生は微動だにしなかった。空中で静止した刃は、かたかたと震えている。
「殺しなさい。殺せ、〈アンドラステ〉!」
「――い、やだ!!」
怒号に応じて上がったのは、かすれた絶叫。その途端、赤い光が弾けた。覚えのある気配は、争い好まぬ竜を抱いた街でベイル自身が彼女に施した祝福に他ならない。赤く眩い燐光が、虚ろに侵された少女に己を取り戻させる。
「絶対に、殺す、もんか……!」
悲痛な呻きと共に、直生が鱗の浮いた左手を自身の胸に突き立てた。長い爪が皮膚を突き破り、引きずり出すのは毒々しく血に濡れた黒い茨。
「私は、誰の思い通りにも、ならない!」
血を吐くような叫びと共に、青色が爆ぜた。黒い茨を焼き尽くし、青い炎が燃え上がる。
「君は私のものだ!」
応じるは憤怒。再度の洗脳を施すべく、嵐が如く術式を迸らせる。……それこそが、ベイルの待っていた好機だった。娘を縛る呪いが破られ、新たな術式が向けられる、その刹那。
「珊瑚は、子供を守るんだと」
場違いなほど落ち着いた声音で呟き、ベイルは右手を伸ばした。燃え盛る炎にも構わず、銀の鱗に覆われた細い手首を掴む。その装飾に埋められた赤い石を、指先で辿った。
術式はとうの昔――贈る前に込めておいた。起動に必要な魔力も、これで満ちる。
「頭を上げよ。天を仰げ。光を見よ。――お前を縛るものは、何もない」
静かに紡がれたそれは、忘れ去られた旧い時代の言葉。幸いあれと願う、祝福の祈りだった。
「その歩みに幸いあれ」
言葉に導かれ、閃くは白色。呪いの奔流を裂いて退ける、闇を照らしだす篝火のような光だった。
「俺が、何もせずにただ逃げ回る訳がねえだろうが」
長らく施されていた呪縛から解放されたからか、疲弊が限界に達したのか。直生の身体がふらりと傾いで倒れ込む。荒い息を繰り返す娘を抱え直し、ベイルは身体を起こした。遠くから、驚愕に揺れる声が聞こえる。
「これほど綿密な術式を、いつの間に――」
「お前は昔からお喋りが過ぎる。せっかく奪った記憶や技術を、何故返す。馬鹿じゃねえなら、何か目的があると考えるのが常套だ。なら、それに備えねえ道理もねえ」
だからこそ、子供の魔除けと言い伝えられる珊瑚を用いた装飾に、保険となる術式を込めて持たせておいた。……もちろん、その意図の為だけに贈ったのではないが。
「あなたは、本当に変わらない。聡明で強く、迷いがない」
「変わる必要があったのは、お前だろう」
「……あなたはいつも正しい。だからこそ、その正しさが憎い」
遠方で強烈な魔力が膨れ上がる。かけ値なしの殺意。
『退避しなさい、あれは私でも防ぎきれない!』
ハイレインが精神感応越しに警告する。分かってる、と毒づくように思念を返し、ベイルは風を駆って走り出した。
「それで私から引き離したつもりですか。あなたを殺して、私は今一度〈アンドラステ〉を教育し直す」
怒りと憎しみに歪んだ声が吐き捨てる。膨れ上がった魔力は地平線を埋め尽くし、漆黒の劫火を織り成した。迫る勢いは凄まじく、とてもではないが逃げきれるとは思えない。――だが、抱えた娘だけは焼かせてはならない、焼かせたくはないと願った。
「全く、本当に焼きが回ったもんだ」
ぼやきながら、防衛結界を構築する。
「う……」
腕の中で、呻き声がした。よりにもよって、今目覚めなくとも良いだろうに。そう呆れながらも、一抹の安堵を感じている己に気付き、ベイルは今度こそ苦笑する。
結界が壊れ、花降る街で施された祝福が散らされ、背中に焼け付く痛みを感じても、不思議と不愉快な気分にはならなかった。
◇ ◇ ◇
どしん、と身体が背中から叩きつけられる。その衝撃と痛みで、沈んでいた意識が覚醒した。なのに、開けたはずの目は闇を映すばかりで、一体何がどうなっているのだろう。
「い、っ」
身体を動かそうとすると、左胸に鋭い痛みが走った。妙に濡れた感触もする。状況を説明してもらおうとエンデを呼んでも、一向に答えが返ってこない。いよいよ、おかしい。
「動くな」
痛みを無視して動き出そうとした瞬間、よく知った声が間近で響いた。けれど、いつも落ち着いて静かに響くはずの声は、ひどく掠れている。息遣いも荒い。
ぎょっと首を仰け反らせる。光が入ってきて、少しだけ目が見えるようになった。視界が塞がれていたのは、何かが覆いかぶさっていたかららしい。何か、と言うか――
「今、ハイレインのところに転移させる」
「ベイルさん? ちょっと、待って下さ」
「そこで――」
「待ってくださいってば!」
気付いた時には、目の前の胸板に頭突きをしていた。一拍遅れて、左胸の強烈な痛みに悶絶する。
「……阿呆。怪我してるくせに、何してやがる」
「それ、こっちの台詞です。怪我、してますよね。治します」
「俺より、自分の心配をしろ」
「自分だけ治っても、心配、減りませんよ」
今の状態では、一度に二人は治せない。エンデの力を借りる必要がある。治癒術式を組み立てながら、意識を内面、その深みへと向ける。気配を手繰り、封じ込められた存在を叩き起こす。
『起きて、エンデ! ――アルクス・バシリサ・メテオラ!』
叫んだのは、真名。特別に教えてもらった、秘された名前。永い時を生きる彼女の名前は、響きそのものが力を持つ。使い方を誤れば彼女自身を損なってしまうほど、強い影響力があるのだ。
叫んだ甲斐あってか、ようやっと応答があった。
『……む、何事だ』
『ごめん、説明する余裕、ない。とにかく、手を貸して』
『私がそなたを助けぬことがあったか』
やれやれ、とばかりの呟きが落ちるや、身体が軽くなる。流れ込んでくる魔力が、左胸の傷を癒していく。
『傷は癒えたな? ベイルが傍にいるのなら、さほど心配もあるまい。竜が苦戦しているようだ、恩を売ってこよう』
『そうなの? じゃ、お願いしていい?』
任せろ、とエンデは私の内から抜け出ていく。心配事が一つ消えたことにほっとして、荒い息のベイルさんの下から這い出し、起き上がる。そして、それが目に飛び込んできた瞬間、思わず泣きそうになって――我慢した。まだ、戦いは終わっていない。




