最果てに至り・六
シェルとヒューゴは、戦況の急変を敏感に感じ取っていた。雲霞の如く押し寄せてきた魔物も、南の空で雷鳴が轟いて以来、ぱったりと出現が止んでいる。
「ベイルが来たってこたあ、ナオも無事だったぽいな。どこの援軍に行くよ?」
「魔物の残党はジヴルに任せて問題あるまい。ナオへはエンデが向かい――その上、空中戦だ。手出しができん」
「とすると、消去法で残りの一つか」
ハイレインとアーディンの親子の戦闘は、一進一退を繰り返していた。ハーデとリオネルの間には埋め難い力量の差があり、それはハイレインにとって付け込むに絶好の隙ではあったが、未だ卵から孵らず身動きの儘ならない彼の娘の存在もまた、敵陣にとって同様だった。しかし、新たな参戦者の存在によって、その均衡も崩れつつある。
「敵が一人減って、こっちゃベイルが増えて……行くまでもねえよな気がすっけどな」
「そうも言ってはいられまい」
「冗談だっつの」
「そうそう、他にも戦場はありやすぜ」
何気なく、第三者が会話に加わっている。ぎょっとして声のした方を見やれば、陽気に手を振る細身の姿が見えた。
色味の薄い金髪に、緑の目と褐色の肌。その色彩にも、快活に笑う若い青年の面差しにも覚えはないが、隻腕らしく空虚に袖を揺らしている姿には、引っかかるものがあった。
ややあって、ヒューゴが驚きの声を上げる。
「てめえ、ゲントか!」
「いかにも! ども、お久しぶりでやす」
軽快な足取りで、玄鳥は岩陰に滑り込んでくる。
「生きてたのかよ」
「や、この稼業長いもんで。どうにかこうにか――ただ、身内が暴走おっ始めちまいやしてね。お陰様で、義肢を捜す暇さえねえってもんでやして。そういや、鉄騎の旦那、お嬢に手紙、渡して頂けやしたかい?」
「む? お前、あの『くろいとり』か。別段呪いも掛かっていないようではあったから、渡しはしたが」
「や、そいつは有難いこってす」
律儀に頭を下げる仕草を、シェルは疑わしそうに見やった。
「ヒューゴ、敵か?」
「分かんねえ。が、その口振りからするに、俺達を殺しに来た訳じゃなさそうな感じだあな」
「へい、共闘のお願いに上がりやした。翠珠王家の誇る〈花禽〉は〈彩李〉でも飛び抜けて盲目なのが三羽、この湖に入っちまいやして。黄と、茶と、青と」
「そして、お前は黒い鳥なのだろう? ならば、それらと手を組んでいるものではないのか」
シェルの疑いの眼差しに、玄鳥は肩を竦めてみせる。
「連中は、どうにも視野狭窄が過ぎやしてね。何が何でもお嬢の持ってるブツを奪い取りたいらしいんでさ。でも、そうなりゃ竜の旦那と共同戦線どこじゃねェでやしょ?」
「そりゃそうだわな。ブチ切れられて、今度はお前んとこの国に怒りの矛先が向くに決まってら」
「ねえ。んなこた、子供でも分かるもんでやすが、〈彩李〉ん中でも、意見が割れちまいやして。強硬派と、穏健派とに」
「それで、お前は」
「あっしは、そうでやすねえ……翠珠が竜に睨まれるのは避けたいと思ってやすし、後は――お嬢の味方でやす。あのお嬢は、ちと優しすぎまさァね」
「つまり、ナオの助太刀かよ? 偽りはねえだろうな」
「まさか。お嬢を泣かせるつもりはありやせんぜ」
「それが無難だ。お前、もう一回泣かせてるかんな。次やったら、おっかねえのがすっ飛んでくぜ」
「くわばら、くわばら――て、やっぱし泣かせちまいやしたか。敵さん、あっしの腕返してくんなかったんで、嫌な使い方をされちゃあ困ると思ってたんでやすが」
「その嫌な使い方をされて、ナオは随分へこんでたぞ」
あちゃあ、と玄鳥は溜息交じりに天を仰ぐ。
「そいつぁ、申し訳ねェことを。その弁解ついでに、あっしはお嬢を狙って真っ先に飛んでった鳥を撃ち落としに行きやす。旦那方は、他の二羽をお願いしても構いやせんか」
「異存はない」
「右に同じ、だ。んで、その鳥どもはどこにいるよ」
「そいつはですね――」
◇ ◇ ◇
空を踏む、宙を走る。重力なんて消えてしまったみたいに、身体が軽い。今となっては言葉も要らず、指先の動き一つ、向けた眼差しの一瞥で術は成った。鋼の矢を水流で巻き込み落とすのも、光線を霧で阻むのも、呼吸をするように簡単だった。
「やはり君は凄まじいな。最後の一片を取り戻さずとも、これほどまでに強い。素直に感嘆するよ」
「それでも、続けますか」
にい、とリオネルさんは答えることなく笑った。腰の鞘から抜き放つのは、七色に光る玉を埋め込んだ短杖。
「僕も――僕らの国も、最早退くことはできない。それを成し遂げるか、破れて散るかのどちらかしかないんだよ」
「どうして!」
「この世界が、そのどちらかしか選択の余地を残さないからさ」
悲しげに言い、リオネルさんは虹色をした玉――杖の先端を私へと向けた。高らかに、朗々と呪言を紡いでいく。
頭の中で、エンデの声が私を呼ぶ。
「分かってる、あれが切り札だね。――凄い魔力だ」
虹色の玉は光属性所縁の魔石、杖そのものにも竜の爪が埋められているはず。さもなければ、ここまで途方もない量の魔力を収束させることはできない。
『真っ向から受けるのは、得策ではないぞ』
「逸らすか、返すかするよ」
構えた刀に魔力を流す。刀身に刻まれたルーンを開放。
「君は、まだ少し迂闊だね」
「――はい?」
「その背の向こうに何があるか、蛇に訊いてみるといい!」
問い返す間もなく、リオネルさんの掲げた杖から眩い光の束が放出された。ごおん、と鐘が鳴るような衝撃。咄嗟に刀を媒介に防衛結界を紡いだものの、その圧力は凄まじく、受けているだけで刀を握る手に痛みを覚えた。
「エンデ、後ろに何かある!?」
『待て、今探る――』
しばしの沈黙。対人どころでなく、対城、対軍を想定された術式を押し留めるのには、途方もない気力と魔力が要った。いくら今の私でも、そう長くはもたない。
エンデ、ともう一度呼びかけようとしたところで、
『――ナオ、村だ! 村がある』
「村って――モーネ!?」
『おそらくはな。この規模であれば、直撃すれば壊滅だ。さりとて、これあ正面に返してもならぬぞ』
どうして、と叫び返しかけて、気付く。にんまりと笑い、じりじりと光条の出力を上げるあの人の、その向こう。
白銀の雪原に鎮座する、滑らかなまるい物体。
「卵……!」
あれだけには、ぶつけてはいけない。呻きながら、渾身の力で剣を跳ね上げる。結界ごと、空へ弾き飛ばした。
「まったく、君は優しい」
声がしたかと思うと、左肩から胸へ鋭い衝撃が走った。灼熱じみた痛み。けれど、痛みより強く感じたのは、激しい苛立ちだった。足踏みしていないで、早く行かなきゃいけないのに。
苛立ちを追い払うように頭を振り、体勢を立て直す。見上げた視界の中に見えたのは、エンデの鏃を食らったリオネルさんが肩を押さえて飛び退るところだった。風属の魔力を帯びて淡く光るローブには、返り血――私の血が点々と散っている。その赤色を睨み据えて、唱えた。
「其に抱かれて浄められぬものは無し」
赤い血を火種に、青い炎が燃え上がる。火は瞬く間にローブを覆い、飛行術式を綻ばせた。為す術もなく落下するリオネルさんは燃え残った衣を駆使し、何とか着地したものの、
「――やはり、私では荷が重いね」
上空から斬りかかる敵に反応しきることはできない。楯のように翳された、弓を備えた籠手ごと腕を斬り裂く。
「腕を落とすこともできたろうに」
間合いを取る私を見て、リオネルさんは笑う。
「あなたを殺したい訳じゃありません」
「全く、本当に甘いんだから。――それにしても、君の肩は硬いな。腕を斬り落としてしまおうと思ったんだけど」
「地竜と我が加護の前に、貴様などの爪が立つものか」
「これでも、結構な業物だったんだけどな」
残念そうな表情で、リオネルさんが短剣を翳す。銀色の刃は、少し欠けていた。
ふう、と息を吐いて、リオネルさんは私を見詰める。
「君は、僕を倒すこと――その意味を理解しているのかな」
「どういうことです」
「一時とは言え、教え子であった君への親切だよ。僕が預けられたのは、君が失った最後の記憶にして、知識だ。それを得てしまえば、もう戻れない」
「……分かってますよ」
リオネルさんの持つ最後の断片を取り戻してしまえば、私ニーノイエにいた頃の――兵器としての姿に戻ってしまう。今は分からない、万物を消滅させてしまう術式の使い方も、きっと思い出してしまうのだろう。
「でも、その時のことは、その時になってから考えます」
「君らしくない言葉だ」
確かに、と胸の内で呟く。私はそんな風に大きく構えることはできない。今や未来のことを考えては怖がって、いつだって足踏みをしてばかりの、臆病者。
「それも、あの人のお陰かな。ま、悪くないと思うよ。君に足りなくて、君が欲しかったのは、そういうものだろうから」
言って、リオネルさんは走り出した。瞬く間に距離が詰まり、短剣が振りかぶられる。繰り出される刃を避け、捌き、大きく踏み込んだ――
「!」
途端、目の前にあの虹色の玉が突き出された。目前で収束する光。咄嗟に上体を反らせば、鼻先を光が焼くにおいがした。仰け反った勢いのまま、両手を地面について後転の要領で回転。蛙のように四肢を使って跳んで、間合いを空けた。左肩の傷が鋭い痛みを訴えたものの、今は文字通り割く手がない。
「もう一つ、訊いてもいい?」
「随分、お喋りですね」
当てこするように言っても、リオネルさんは笑うだけだった。その意図は明白だ。露骨な時間稼ぎ。
『落ち着け、ナオ。逸っても仕方がない』
苛立つ私を宥めながら、エンデは治癒を施してくれる。肩の痛みは、すぐに軽くなった。
「……何を訊きたいと言うんです」
「そうだねえ……。この一月余り、君を守り続けたのは、彼の〈鳴神〉だろう?」
「それ、ベイルさんのこと――ですよね」
「そう。そして、雷を操った旧時代の軍神の名でもある。その名で呼ばれ、味方にすら恐れられるほど、あの人は圧倒的だったそうだよ。敵からは〈荒野の王〉と、戦場を一木一草残さぬ荒野に変える、無慈悲な死神の王と忌み嫌われた」
「それが、どうかしましたか」
「何も思わない? 恐ろしいとは、思わないの」
「何故?」
「さあ、何故だろうね」
問い返すと、リオネルさんは愉快そうに笑った。その表情が、不意に険しいものに変わる。
「僕が君を殺せるとは思っていない。でも、役目は果たしてみせる。〈鳴神〉が膝を突くまで、ここにいてもらうよ」
「そして、それを私に殺させようと?」
「よく分かっている」
生徒を褒める教師のような顔で、リオネルさんは頷いた。
「そんなことは、させない」
右手だけで、刀を構え直す。切っ先から迸るのは、きらきらと銀色に輝く水渦。そのまま振り抜けば、破城鎚が如くにリオネルさんへと殺到する。綻びた飛行術式を励起、辛うじてリオネルさんは渦の直撃を避けたものの、飛び散る飛沫全てを避けきることはできない。
「高遠き流れ 混巡ぎ晶結り 氷凍て射打ち 填ぎ鎖す――」
飛行術式に強制介入、風属の魔力を略奪利用し、その身にまとわりつかせた水気を凍結させる。この為にこそ、わざわざローブも燃え残らせたのだ。
「……本当に、羨むしかないな」
「羨まれても、嬉しくありません」
苦々しく呟いた言葉には「そうだろうね」と淡い微笑みが返された。凍てつき、身動きも叶わず膝を突いた姿は、どう見ても戦闘の続行が可能であるようには見えない。
だというのに、私は決着をつける為の足を踏み出せずにいた。何かが警鐘を鳴らしている。――危険だ、と。
「それでも、僕は」
囁くような言葉が、俄かに途切れる。急速に収斂する魔力。爆発する、白く熱い奔流。反射的に跳び退ろうとすれば、
「――!?」
とす、と何かが身体に突き刺さった。それきり、身体が動かなくなる。声上げることすらできなかった。
『ナオ!?』
エンデが慌てて外界へ這い出そうとする気配。けれど、きっとそれも間に合わない。やばいかな、とまるで他人事のような思考が走る間に、視界は真白く焼き付いた。




