最果てに至り・三
いつも通りの平淡な声を響かせて、何もない空っぽの空間から、その人は現れた。いつもの精密さが嘘のような、力押しそのものの粗い術式で、無理矢理身体を押し出すように、会話を断ち切らせるかのように――私とジヴルの間に立ちはだかった。
少し前までは、ずっと待っていた人。……今は、誰よりも会いたくなかった人。
「直生、悪かった、責めは後でいくらでも聞く」
私の思考を知る由もなく、打てば返る鐘の音のような、どこまでも迷いのない風でベイルさんは言う。その言葉は頼もしくもあり、辛くもあった。
殺してしまう前に、消し去ってしまう前に、この人から離れなければならない。何よりも恐ろしいのは、喪ってしまうこと。別れることではない。――ない、はずだ。
歯を食い縛り、ベッドの上を這って、立てかけられた刀へと手を伸ばす。硬い感触を両腕で抱き締めると、ようやく少しだけ落ち着けた気がした。独りでいることは、こんなにも心細かっただろうか。エンデがいたら、どんな助言をしてくれただろう。ジヴルの申し出には、烈火の如く怒ったに違いない。そう思って、少しだけ笑う。笑った頬は引き攣っていたけれど。
「で? てめえは何だ。魔物、魔祇かい」
「そう問う主が何だ。ヒト――とも、違う気配がするな?」
「俺のことはどうでもいい」
「やれやれ、頑迷だな。私はモーネの守人、ジヴルという」
「モーネ? ……ヒューゴの故郷か」
「ヒューゴ? 人獣族のヒューゴ・パルツィファルか?」
「そのヒューゴだが――知ってるのかい」
「私がこの場所に根を下ろして、もう百余年になる。あの向こう見ずな子供とも、よく遊んでやったものだ。あれが村を飛び出してから、十年ばかりか。まだ生きているのか?」
「ああ。十数年前から、相変わらず向こう見ずで騒がしい」
「そうか、それは何よりだ。――して、これである程度答えになったと思うがな?」
「敵意はねえらしいな」
「私にはモーネの村を守る契約があるのみよ。無益な闘争は求めるところではない」
「その割にゃ、えらく物騒な誘惑をかけてたようだが?」
「ただのお節介だ。ナオの存在はこの世界の均衡を崩す。ひいては、この国や村にも害をなすとも知れん。今ここで殺されてしまった方が、ナオ自身苦しまずに済むと思うがな」
「それはお前の決めることじゃねえ」
「だが、全くの間違いでもなかろうて。お前は何故にナオを生かしたがる?」
「世界や国がどうなろうと、知ったことじゃねえ。こいつを故郷に送り届けるのが、俺の役目だ」
「送り届けて、何とする」
「後の面倒は任せるさ。全ては奴らの問題で、責任だ。付き合ってやる義理なんざありゃしねえ。何を犠牲にしてでも、引き受けてもらう」
ベイルさんが強く言い切る。そうか、と応じたジヴルの声は、少しだけ笑っていた。
「主はただ、ナオの味方であると言う訳か。いずこかの国でも、この世界でも、彼の竜でもなく」
「分かったなら余計な口を挟むな、黙ってろ。邪魔だ」
「あい分かった、部外者はそろそろ黙るとしよう。しかし、アイオニオンに送り届けると言う割には、当のナオが死にかけていたのは如何なる訳だろうな」
「俺の落ち度だ」
「弁解はなし、と。潔しと言うべきか、はてさて。何にしても、ナオは戦場に向かえる状態ではない。癒しはしたが、後一日は休息が要る。アイオニオンの異変は知っているか」
「ホヴォロニカの地竜から知らせがあった。ニーノイエの特殊部隊が侵攻を開始したらしい。連中は竜の亡骸を魔道具に使ってやがる。下手な戦力じゃ、止めらやしれねえ」
「成程、不穏な気配がしているのはそれ故か。アイオニオンの竜も辛かろうて。永年の連れ合いを亡くし、忘れ形見はまだ孵らんと聞く。守りながらの戦闘は、辛かろうよ」
「成程、あれはまだ卵の中の雛か。どうりで術も粗い」
「知っているのか?」
「俺は間接的にだ。直接のやり取りがあるのはこっち」
ベイルさんが軽く顎を振って、私を示す。その背中の向こうから、首を伸ばしたジヴルの物珍しげな視線が届いた。気まずく沈黙していると、ジヴルが呆れ顔で首を振る。
「何とまあ。全く、数奇なことだて。……アイオニオンには主らだけで向かうのか?」
「いや。既にヒューゴと、仲間を一人援軍に向かわせた」
「ほう、久方ぶりにあの子供と顔を合わせるも一興か」
「助太刀してくれるって?」
「アイオニオンが落とされては、モーネも危うい。夜も明け、じきに村人も目覚める。彼らに警告をしてから、私もアイオニオンへ向かおう。竜に貸しを作るのも、或いは面白かろうよ」
「助かる」
「何だ、急に殊勝になったものだな?」
「目的の為に手段を選んじゃいられねえからな」
「そうか、それも悪くない。――では、暫し我が家を主らに預ける。あるものは好きに使って構わんし、食事も適宜とるように。だが、出立の際には戸締りを忘れずにな」
やたらと家庭的な指示を残すと、ジヴルの姿は消えた。転移魔術を詠唱もなしに使えるということは、相当力のある魔祇なのだろう――と思考が逸れ始めたところで、くるりと目の前の背中が振り向いた。懐かしい、深い藍色の目が私を見下ろす。
「大丈夫かい、辛い目に遭わせたな」
ベイルさんはベッドの前で片膝を突き、手を伸ばしてくる。
私は首を横に振って、身体を引いた。
「直生?」
緩く眼を見開くベイルさんに、笑って見せる。引き攣っていたかもしれないけれど。
「辛くなんて、なかったです。ベイルさんがいなくても、ちゃんと戦えました。大丈夫です、何も問題ありません」
「寝言は寝て言え。その傷で、何が問題ねえって?」
「でも、そのお陰で、やっと分かったんです。自分の、性能」
「……そうかい」
「ベイルさんは、いつ分かったんですか」
「最初から」
「最初?」
「薄昏でお前を抱えて逃げた後、治癒を施したろう。あの時、ついでに探って――それで、知った」
それじゃあ、本当に最初からだったんだ。それなのにここまで親切に連れてきてくれて、本当に感謝するしかない。
「……が、お前はどう見てもただの子供で、何かを隠している風にも見えなかった。ひとまずヘイズにでも預けてみるかと思ったが、計ったように魔物が送られてくる上、ニーノイエの動向も怪しいとくれば、さすがにきな臭い」
「それで、砦に?」
「ああ。お前は存在そのものが稀有すぎた。下手を打てば、鬼子の二の舞になる。そいつは嬉しくねえからな。実のところ、ハイレインの取引は渡りに船でもあった」
そう言って、ベイルさんは言葉を切る。小さく肩を竦め、
「それに、お前には個人的な興味と借りがあった。いや、あると言うべきか。過去形にする意味もねえ」
「ハイレインさんとのことなら、もうそれ以上のことをしてもらったと思うのですけど」
「それを決めるのは、俺だ」
「……頑固ですね」
「その言葉、そっくりお前に返す。ともかく、余計な心配はするな。お前は生きて、故郷に戻ることだけを考えてろ」
きっぱりと言い放つ声。ああ、と内心で嘆息した。本当にこの人は強く正しく、そして優しいのだ。ハーデさんが言っていた通りに。ハーデさんが憎んでしまうほどに。
「何を黙ってる。帰りたくなくなっただとか、馬鹿なことを言いだすんじゃねえだろうな」
「帰るべきじゃないとは、言わないんですね」
「帰りたいなら、帰ればいい。邪魔をする奴がいるなら、退かせばいい。それで済む話だ」
「私が、全てを壊してしまう、最悪の兵器であっても?」
「それでも、お前は帰ろうとしたんだろう。だから、たった一人で何もかも奪われて封じられても、あの街に来た」
違うかい、と問われて、私は笑った。本当にどうしようもないことに、笑うしかなかった。その通りだった。
「そうですね。――そう、でした。私は、こんなになっても、帰ろうと思いました。帰らなければいけない」
「……何故、帰りたいとは言わない?」
「え?」
「お前の望みは、どこにある。帰るべきだと義務感に押されるのでなく、お前自身が欲するものは何だ」
「どういうことですか?」
「分からねえのかい」
ベイルさんが苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。私はただ、首を捻った。言われたことの意味が、よく分からない。
答えないでいると、ベイルさんはひどく腹立たしそうな、苛立っているような顔をした。
「お前、消えようだとか考えてやしねえだろうな」
「消えるって」
「自分がいなくなっても、周囲が困らねえような状況を作り上げておいてから、自分の存在を消そうって訳じゃねえだろうな、と訊いてるんだ」
それも悪くないな、と一瞬思ってしまった分だけ、返事をするのが遅れた。そのわずかな沈黙の意味を見逃すほど、ベイルさんは迂闊な人ではない。眉間に深い皺が寄るのが見えた。
「お前は、幸運だったな。俺がヒューゴだったら、とっくに怒鳴りだしてる」
「それは、そのう、怒ってる、と。それも、とても」
「それ以外の何に聞こえる?」
ですよねえ、と笑う。もっと恐ろしいことを知ってしまったからなのか、不思議と怖くはなかった。
「暢気な顔をしてる場合か」
溜息まじりの呆れ声。すみません、と肩を竦めると、ベイルさんはもう一度深い溜息を吐いた。
「お前が『帰りたい』と言うなら、俺は何も言わずに手を貸すつもりだった。だが、お前は最初から『帰らなければ』としか言わなかった。その思考は危険だ。帰りたいという欲や執着があるなら、自らその場所に留まろうとする。だが、帰らなければならないという義務感だけで動くのなら、執着としては希薄すぎる。誰かの為に帰り、その役目を終えた時、あっさりと自分を消しかねねえ。面倒なものを抱えてるだけにな。……俺は、ずっとそれが気にかかってた」
気にしすぎですよ、とは言えなかった。既にその可能性を否定しなかった――できなかっただけに。
「いっそ、攫ってやろうか。監視役がいれば、安心できるんだろう。お前は」
「へ? ……ええ?」
「不満かい」
「や、いえ、そんなことは――って、そうじゃなくて!」
何でこんな話になってるんだろう。お別れを、さよならを、言わないと。言わなきゃ、いけないのに。
「私、言いましたよね。一人で大丈夫ですって」
「知るか」
即答三文字。バッサリ切り捨てられた。
「し、知るかじゃなくって。聞いてください」
「どうせ、ろくなことを言わねえに決まってるんだ。聞く必要があるとは思えねえな」
「横暴!? ああもう、お願いですから、聞いてくださいってば! 私は最悪の兵器で、ハーデさんに操られてしまうかもしれないんです。だから、お仕事はここで終わりにして、帰ってください」
「ふん、ようやくボロを出したか。結局、巻き添えの被害を想定して腰が引けてるだけじゃねえか」
いつになく刺々しい口振りで返される。確かに、その通りだけれど。でも、だって、そんな、
「だって、そんなの、無理でしょう。周りの人を、消して――殺して、しまいかねないなんて、」
その上、それが自分の意思を無視して行われてしまうかもしれないなんて。それこそ、怖くて正気じゃいられない。
「それがどうした。今更そんなことで悩んで、足踏みをし始めたってのかい」
「そんなことって――」
頭の中で、カッと火が燃えた気がした。まるでどうでもいいことのように語る口振りが、腹立たしくてならなかった。どうでもいいことで、こんなに悩む訳がないじゃないか。
「そんな風に、私は、言えない」
吐き出した声は、ひどく震えていた。どうして分かってくれないのかと、燃えるような怒りが胸に突き上げる。それが身勝手なものだと分かっていても、止めようがなかった。
「私は――」
唐突に、ハーデさんの言葉が頭の中に蘇った。
『子供の頃は、素直に憧れたよ。けれど、結局私は届かなかったし、あの人が興味すら持たなかった復讐も手放せなかった。それを杖にしてしか、永らえられなかった』
『言ったろう、今はただ憎いんだよ、あの人が。復讐し得る力を持ちながら、復讐を選ばずに生きられる強さを持つあの人が。羨ましくて、憎い』
きっと、あの人はベイルさんが憎かったのではなくて、ベイルさんが羨ましくて憧れて――けれど、憧れるだけで近付けなかった自分こそが憎かったのだ。眩いほどの強さは、羨む自分の弱さを暴き出す。強くはない私達は見たくないものを突き付けられることを恐れ、嫌い、怒りや憎しみにすり替えるしかないのだ。




