最果てに至り・二
ぱち、と弾けるような音が聞こえて、意識が浮かび上がる。重い瞼を押し上げると、霞んだ視界の中、ごつごつした岩肌の上で伸び縮みする影が目に入った。眼だけを動かして、周囲の様子を探る。壁もまた剥き出しの岩肌で、複雑な模様のタペストリーがかけられていた。……岩屋、という奴だろうか。
「目覚めたか」
どうしたものかと天井を見上げていると、声が聞こえた。錆びた女の人の声だった。
「傷は癒した。起き上がれるほどには回復しているだろう」
確かに、身体に痛みはなかった。布団から這い出すと、自分が血糊もない清潔な服を着ていることに気付く。左手を始めとした傷にも手当てがされて、刀もベッドに立てかけられていた。
辺りを見回せば、寝ていたベッド――両手を広げても到底端に届かないほど大きい――から、そう遠くないところに囲炉裏があった。ちらちらと揺れる火の傍に、大きな影が座っている。
「ええと、ありがとうございます。助けて頂いて」
うむ、と相槌を打ちながら、影が振り返る。その姿を正面から捉えるや、私は目を見開いた。
長い朱色の髪の中から天に向かって伸びる、一対二本の硬質な黒。緩やかに湾曲したそれは、紛れもない角だった。それでも、いくつかの違い――シェルさんより大きな身体や、口元に覗く牙――を除けば、そのひとは限りなく人間の女性に似ていた。
「あなたは――魔祇、ですか」
「そうとも呼ばれる」
呆気ない肯定。そうですか、と拍子抜けした気分で答えると、含み笑う声が聞こえた。
「ほおう、予想したほどには、驚かんな?」
「驚いてない訳じゃないんですけど……母のような、姉のような、友人がいるんです」
「魔祇の?」
「はい。今は、離れてしまっているのですけど」
「ふうむ、中々に不可思議な身の上にあるようだな。――まあ、ちょうど粥もできたところだ。まずは食べると良い」
金色の双眸を細めると、そのひとは長い腕を差し出した。手の中の小さなお椀では、お粥が芳しい匂いを上げている。お礼を言って受け取りはしたものの、そう言えば――
「腹の傷は塞いでおいた」
「……何から何までお世話になりました」
頭を下げてから、器に添えられたスプーンを手に取る。熱いお粥を掬っては冷ましを繰り返し、ゆっくり食べた。
「主、名は?」
「直生です。苗字が、天沢で」
「ナオか。私は、ジヴルなどと名乗っている」
「ジヴルさん、ですか」
「ただのジヴルだ」
「……ジヴル、は、何故私を助けてくれたんですか?」
「私は、主が大立ち回りを演じてくれた、この山を住処にしている。そして、近くの村と契約を交わしていてな。この辺りは竜の巣に近いだけあって、強力な魔物も多い。私は村の守護と引き換えに、ヒトと取引せねば手に入らぬものを対価として得ているのだ。衣服や香辛料の類だとか――ああ、これも対価の一つだ」
見事だろう、とジヴルは自慢げに壁のタペストリーを示す。
「重ねて言うと、その契約には山で遭難したヒトを助けることも含まれる」
それで、こうして介抱してもらっているという訳か。何とも幸運なことだけれど、ここが竜の巣に近いということは、やはりアイオニオンの近くなのだろうか。
「して、主は何者だ? 二つの違う竜の気配を纏うヒトなど、今まで見たことも聞いたこともない」
「少し、込み入った事情がありまして」
「それはそうだろうな。その有様で込み入った事情がない方がおかしい。教えたくないのならば構わんが、一つだけ答えてもらおう。――この国や、村を脅かす意思は?」
「ありません。そもそも、私はここがどこかすら分かっていないんですけど……アイオニオンの近くですか?」
「ああ。ここは竜の住処たる湖に最も近い村、モーネだ。正確には、その村から東の山中になるが」
「湖まで、どれくらいかかりますか?」
「ヒトの足で三日程だろう。あれを目指しているのか?」
「最終的な目的地は、そうです」
「昨夜より、アイオニオンから不穏な魔力が流れているが」
「……だろうと、思ってはいました」
そうか、と頷くと、ジヴルはそれ以上何も訊かなかった。私も黙ってお粥を食べ、空になったお椀とスプーンを返却する。身体は少し萎えているけれど魔力も戻っているし、あれだけの負傷の後にしては奇跡的だ。問題は今後どうするか、だけれど。
「ナオよ」
悶々と思案していると、静かな声に呼ばれた。顔を上げれば、どきりとするほど真剣な眼差しが向けられている。
「主は、危険だ」
抜身の刃に似て、まっすぐな言葉。返答に詰まる。
いつか誰かにそう言われるだろうとは思っていた。けれど、私はようやくその真意を理解したばかりで、何の判断も覚悟もできていない。その状態で、真っ向から痛烈な評価を突き付けられるのは――少し、痛すぎた。
「主の内では相容れぬはずの、相反するものが入り混じり渦を成している。それは世界の秩序を乱し、均衡を崩そうよ」
「……分かっています」
私が生まれ持った属性は、火だ。水を使うのは、あくまで後天的な要因――竜の亡骸が埋められたから。今まで水属性だと思い込んでいたのは、火を使った記憶がなくて、水と火の相反する属性を揃え持つものなんて、存在するはずがないからだ。ただ、思い返してみれば、あちこちにヒントはあったのだろう。
水属性は青色を、火属性は赤色を象徴とする。火属が水属に打ち消されてしまうように、その二色も決して混ざり合わない。粋蓮でシェルさんが私の属性を水だと判断したのも、その為だ。火属性なら赤を、水属性なら青を示す石が、紫――赤を混じらせた青を浮かばせることなんて、本来なら有り得ない。有り得ないからこそ、誰もその可能性を考えなかった。
魔力を使うイメージも同じだ。水を流すように、魔力を放出する。それだけならまだしも、蒸発は熱――火に近しい。ベイルさんも煮え切らない反応をする訳だ。ひょっとしたら、あの時にはもう私の本当の意味に気付いていたのかもしれない。
「私は、全てを消し去る為の兵器として、造られた」
原理は、相反する二属性の魔術による相殺効果と同じだ。ハーデさんは火と水の二属性の魔力を同時に作用させて巻き込むことで、対象を消滅崩壊させる術式を考案した。
決して同時に保有されないはずの二属性が併存してしまっているのは、私がこの世界の生き物ではないからかもしれないし、ただの偶然なのかもしれない。その本当の事情なんて分かりはしないし、そんなことはもう、どうだっていい。
「こんな力、欲しくありませんでした」
アランシオーネで抱いたものとは、比べものにならないほどの恐怖。呟いた声は震えていた。
例えハーデさんに打ち勝って竜の腕を手放すことができたとしても、与えられた性能までは失われない。ハーデさんの言ったように、いつか我を忘れて使ってしまう時が来ないとも限らない。何よりも、味方である人達にその術式を向けてしまう可能性があると考えるだけで、気が遠くなりそうだった。
こんな有り得るはずのない実験が成功さえしなかったら、この争いだって起こらかったのに。仲間だった人達が、争うこともなかった。どうして、成功してしまったのだろう。有り得ないはずのことが、今回に限って、本当に、どうして。
「恐ろしいか」
静かな、落ち着き払った声が囁く。澄み切った水のような響きの問い掛け。私は震える身体を両腕で抱いた。それで身体の震えは弱まっても、声の揺れまでは止まらなかったけれど。
「怖くて、恐ろしくて、どうしようもないです」
「ならば、今ここで、一思いに殺してやろうか」
その言葉を聞いた瞬間、ぴたりと思考が停止した。
そんな馬鹿な、と一蹴してしまうには、その言葉は魅力的過ぎた。死んでしまえば、全ての重圧から解放される。けれど、辛うじて残った理性が、誘惑に待ったをかけた。
「……でも、アイオニオンに行かなければいけないんです。届けるものがあって、止めなきゃいけない人も」
「ならば、私が代わりに為してやろう。誓いは違えぬ。苦しまずに済むよう、一瞬で終わらせてもやる」
ジヴルの、黒く鋭い爪が猫のように、すっと伸びる。指を揃えると、ほとんど剣のようになった。
口を開きかけて、止める。自分が何を言いたいのか、どうしたいのか、もう何も分からなかった。死にたくはない。帰らなければとも思う。けれど、後を引き継いでくれるひとが見つかったのだから――惨劇を起こす前に、今のうちに大人しく死んでしまうべきではないのか。それが正しい選択なのではないかという考えを、振り払うことはできなかった。
「決断ができぬのならば、代わりに私が手を下そう。主は、ただ怨めばいい」
悩み続ける私に、恐ろしくも優しい言葉が降り注ぐ。
ああ、このひとは公平で優しいのだ。麻痺した思考の中で脈絡もなくぼんやり思う。――まるで、
(まるで――)
ざ、と脳裏に見慣れた面影が過る。懐かしいような、苦しいような、複雑な感情が胸を浸した。
「そいつは困るな」
だから、その声が聞こえた時も、感傷が聞かせた幻聴ではないかと思ったのだ。
「人が守ってるものに、自殺を唆されちゃあ」




