鬼哭奇譚・九
木から飛び降りたところを狙って、角を掲げたバイコーンが突撃してきた。咄嗟に刀を噛み合せはしたものの、突撃の勢いで大きく弾き飛ばされる。空中で体勢を整えようとすれば、上空から鎌鼬が雨あられ。鎌鼬自体はエンデが弾いてくれたものの、破砕された木々はコートを失った身体のあちこちを傷つけた。
「いったたたた、地味に痛い!」
「そう呻いていられるのなら、まだ余裕であろうよ」
ほうほうの体で転がり逃げるも、また石化の息吹が迫る。とにかく、コカトリスを先に片付けないと! グリフォンの対地攻撃で飛び散った雪の飛沫を足場にして宙を踏み、三角跳びの要領で石化の息吹を避けて跳ぶ。一気に間合いを詰めて刀を振れば、ぎゅうっと圧縮させた水が薄い刃となって射出される。刃はコカトリスの頭から尻尾までを、すっぱり両断した。
「――残り、二匹!」
上がりかけた息を、深呼吸をして抑える。
「しかし、面倒な組み合わせで残ったものよな。グリフォンは付かず離れずの距離から狙撃を繰り返すだろう。我らがそれを捌く間に、バイコーンは突撃する」
気付いてみれば、二つの魔物の気配は消えていた。逃げたはずはないから、隠れて様子を窺っているのだろう。
「糸を張って、バイコーンを先に仕留めるのは?」
「無意味だ」
言いながら、エンデは周囲の木々に鋼線を張り巡らせる。その糸は見かけよりもずっと強靭で、闇雲に突撃して来るなら、バイコーンだって簡単に切断できるはず――なのだけれど、突如吹き荒れた暴風によって、周囲の木々は根こそぎ倒された。結んだ糸は弛んで雪に埋もれ、防壁の意味を果たさなくなる。
「で、こうなるってことね!」
薙ぎ倒された木々の向こうから、高速で突進する影。脚力を強化したバイコーンは、目に映すのもやっとだ。それに、まだグリフォンもいる。独りだったら、生き延びられたか自信がない。
「やっぱり、独りじゃないっていいよね」
「何を藪から棒に」
「私はバイコーンをどうにかするから、背後の守りはお願い」
エンデの答えを待たずに、真っ向からバイコーンへ向かって走り出す。背後で猛然と渦巻くグリフォンの魔力を感じながら、それでもただ前へ。
―― ど く ん
その時、異変が起こった。左胸から迸る、内側から肉と皮を突き破るような激しい痛み。足が止まり、息が詰まる。ぜい、と喉が壊れた笛みたいな音を立てた。
「ナオ、何が――ハーデの謀か!?」
エンデが困惑しきった声で言う。どうやら、この痛みはエンデにまで共有されるものではないらしい。分からない、と声にならない声で呟きながら、必死の思いで顔を上げる。痛みで明滅しそうな視界の中、バイコーンがもう目と鼻の先にまで迫っていた。
それなのに、激しく震える指は刀を取り落としてしまう。エンデが術式を構築しようとしても、不思議と形を成さずに消えていった。ならば、と姿を現そうとしても、また失敗。誰の仕業かなんて分かりきった話だけれど、強い妨害が生じていた。
「おのれ、ハーデ!」
エンデの絶叫が頭の中で反響する。霞んだ視界の向こうで、バイコーンが嘶いた。二本の角を掲げ、最後の一駆けを突き進む。
震える手で胸元を探れば、指先に触れる結晶の感触。薄紅の結晶の花。湖の街でもらった、抗魔術のネックレス。ありったけの魔力を注いで、術式を増幅させる。身体を縛る術式がわずかに弱まり、落とした刀を拾い上げる猶予。激突は間近。右手で刀を構え、左手は正面に翳す。
「ぐ、う――」
掌を、灼熱が焼いた。手袋を溶かし、皮膚を爛れさせる痛みに呻きながら、ごつごつと捻じれ尖った角を掴み取る。真っ向から受け止めた突撃の衝撃で滑った足が倒れずに踏み止まれたのは、ほとんど奇跡に近い。
「勁き雄牛の如く……」
残る力を振り絞って、腕力強化。背中を破城鎚じみた風に叩かれて胸に生暖かいものが伝うのも、エンデが悲鳴を上げるのも、今は意識の内に入らない。爛れた手で角をねじ折り、一刀の下に首を刎ねる。振り返れば遠い空、風の中を舞う獣が見えた。
強化した左腕の渾身の力で、毒角を投擲。風を裂いて飛ぶ角は過たずその胸を穿ち、グリフォンは墜落した。
――後に残ったのは、ひたすらな静寂。
「……終わっ、た」
緊張の糸が切れると、痛みがぶり返してきた。あっちこっちが痛い。魔力も体力もすっからかん。かくり、と膝が抜ける。
「――え?」
そうして地面に座り込むはずだった身体の中から、どすん、と鈍い音が聞こえた。背後から突き飛ばされたような感覚。何が起こったのか、訳が分からなかった。
遅れて、脇腹に熱を感じる。壊れたロボットみたいにぎこちない動作で身体を見下ろすと、血でてらてらと光る蠍の尾が、他でもない自分のお腹から生えていた。首を捻って、振り返る。
背後には首のないキマイラが――尾で私を貫く魔物が、そこにいた。やっぱり、訳が分からない。
『存外、君もやるものだね』
虚空から聞こえるのは、よく知った声。ハーデ、とエンデが滴るような憎しみを込めた声で呼ぶ。
「貴様、そうまでして己が野望を成したいか! 貴様が――貴様さえ、居なければ!」
血を吐くような叫びに返るのは、高い嘲笑だった。
『そうだろうね、ああ、まさにその通り。私が憎いか、人蛇の魔祇よ? 殺したいと切望するか?』
「無論だ! 貴様が憎い。殺しても殺し足りぬ程に憎い!」
『では、招いてあげよう。嬉しいだろう?』
哄笑が響くや、ハーデさんの魔力が私の身体へ侵入してきた。エンデの存在そのものが、強制的に引き剥がされていく。叫び出したいほどの痛みを伴う、問答無用の離別だった。
「何だと!? 違う、私は――」
『何が違うというんだい? 忠誠も愛情も、過剰になればただの厄介ものさ。君は宿主を見捨て、憎しみに走った。その結果、ナオは更なる窮地に陥る。最果ての氷苑で、自らの選択の愚かさを精々嘆き悔むがいい』
「ああ、ナオ、済まぬ、違う、違うのだ、私は」
悲痛な叫びを途切れさせて、エンデの気配は消えた。
くつくつと喉を鳴らして笑う声が、どこかから聞こえる。人が悪いな、と朦朧とした意識の中で思う。
「やあ、ナオ。随分強くなったね」
ふと、目の前にあの赤と緑の色彩が現れる。
朗らかに笑う、線の細い男の人。全ての元凶である人。
「そのままじゃあ、話せないかな?」
パチン、とハーデさんが指を鳴らす。ずるりと蠍の尾が腹から引き抜かれ、壮絶な痛みに一瞬意識が飛びかけた。呻くこともできずに転がる私の前に、ハーデさんが歩み寄る。淡く足元に落ちた影は、その姿が幻ではなく、生身であることを示していた。
「私が手を出すまでもなく、倒れると思っていたよ」
予想外だったな、とハーデさんは肩を竦める。こちらに反応を求めるような素振りだったけれど、普通に無理だ。バイコーンの角毒にキマイラの蠍の尾毒、背中や脇腹の傷のせいで、今にも意識は途切れそう。視界は霞んで、呼吸も儘ならない。
「おや、まだ喋れないのか。仕方がないな」
呆れた声と一緒に、癒しの術式が降ってくる。悔しいどころの話じゃなかったけれど、この際、利用できるものは何だってしなければ。
「……それ、で」
「何をしに来たのか? 決まっているじゃないか、君を攫いに来たのさ――と、言いたいところだけれどね。君は今、ちょうど力を使い果たそうとしている。ならば、都合が良いと思ってね」
にんまり、ハーデさんが不穏な笑みを浮かべる。
「そろそろ、君は正確に自分の価値と意味を知るべきだ」
「その理解を、奪ったのは、あなた、でしょ」
絞り出した反論にも、ハーデさんの笑みは揺るがない。
「……何を、言いたい、んです」
「君は中佐を知った。その結果、かつての同胞――私ですら知らないことも知り得たのだろう。中佐は随分と君に入れ込んでいるようだね。あの人がこんなに深く誰かに関わろうとするなんて、初めてのことだ。ま、その意味は問わないけれどね。野暮なだけだ。――さて、それであの人を知った君に問おう。君は、あの人のようになれるか?」
「……? どういう、」
「あの人は強い。気高く、誇り高く。悪に馴れず、善を嘆かず。ただひたすらに、まっすぐ在りたいように在ることができる。君に、それができるか」
その声は悲しんでいるような、羨んでいるような、不思議な響きを帯びていた。私はその質問の不可解さよりも、その声にこそ動揺したのかもしれなかった。口の中に凝った血を吐き捨てながら、誤魔化すように問い返す。
「……私に、そう、尋ねる、あなたは?」
「私? 現状を考えれば、分かるだろう」
自嘲する声音で紡がれた言葉自体が、何よりも雄弁な回答だった。私は言葉を失い、沈黙する。
「あの人は、眩しい。遠く隔たった、手の届かないものだ」
憎らしいほどに。呟いて、ハーデさんはまた一歩私に近付く。
「そして、君は、君が思うより恐ろしいものだ。君の意味を知れば、誰もが君を恐れ、憎み、滅ぼそうとするだろう。或いは、深山に封じられた旧い神にそうしたように、竜が討伐に出るかもしれない。君も薄々気付いていると思うがね」
「……何の、こと」
「君は水を操るが、それは水竜の腕を封じられたが故だ」
頭の奥で何かがじくじくと疼いている。
思い出せ、と叫ぶ自分がいるのに、嫌だ止めろと駄々をこねる自分が同時に存在しているような――奇妙な重複。
「まだ分からないかい? 私がただ水竜の腕を植える為だけに、面倒な手順を踏んで君を得る訳がないだろう」
ぱちん、とハーデさんが指を鳴らす。その途端、喉を裂いて悲鳴が飛び出した。毒に爛れた手を貫いて、地面に縫い止める白い骨。ニーノイエの地で果てた竜の遺骨は、焼け付くような魔力を放った。貫かれた掌から血を遡るように、灼熱が骨肉を侵す。叫ぶ声も涸れ、私はただ悶えた。
「君を満たす水は、今灼けて消える。そうすれば、分かるだろう」
ほら、とハーデさんが笑う。その言葉に促されたかのように、頭を浮かせる熱は唐突に消えた。痛みこそ残っているものの、意識は妙に冴えている。
ちろり、と冴えた頭の中に過るのは、真っ青な――
「ベイルさんは、あなたの、目的を、全部、知ってる」
それが何であるのか認識してしまうのが怖くて、反射的に言葉を吐き連ねた。
「企みは、全部、止められる」
「かもしれない。あの人は強く聡明で、何より正しいから。――だが、だからこそ、私はあの人を憎む」
「……憎む?」
「子供の頃は、素直に憧れたよ。けれど、結局私は届かなかったし、あの人が興味すら持たなかった復讐も手放せなかった。それを杖にしてしか、永らえられなかった」
「復讐が、目的、だと?」
「そうだ。全てはその為、その為だけに謀ってきた。あの国は私達を使い潰すだけ使い潰し、その果てに首を刎ねた。虐げるなら、虐げられる覚悟もすべきだ」
吐き捨てるように、叩きつけられる声。
「私は、弱い。あの人とは違う。あの人のようには生きられない。耐えることなどできない。許すことなど、まして」
呪いのように強い響きはきっと、長きに亘って折り重ねられた憎しみそのものだった。その言葉を、その意思を心底恐ろしいと思う。私が敵うような相手ではない。
頭がどうにかなってしまいそうな痛みの中、必死に術を紡ぐ。決して悟られぬよう、ひそかに、かすかに。
「その為に、あなたは、竜を、利用した?」
「手っ取り早く力を得るには、彼らは格好の材料だったからね。何より、彼らの存在こそが、ヒトの世界の均衡を崩している。敬うなんてとんでもない、ただの厄介者だよ」
竜の寵児と鬼子のことだろうか。確かに、良くも悪くも私達は竜や鬼――神々の持つ強い力に振り回されてしまう。
「彼らの何もかもを消してしまえば、もう秩序を乱すものはなくなる。抑えを失った神帝はあの国を滅ぼすかもしれないが、それもまた一興さ。ヒトを脅かすものがあるならば、それに抗する責任は全てのヒトでもって負うべきだ」
「それが、あなたの、望みの、全て?」
そう、と断言する声。どんな反論も、説得も無意味と悟らざるを得ないような。厳しい響きだった。
ハーデさんの――神々の遺産に翻弄され、悲惨な人生を送った人の、復讐へ走りたくなる気持ちも想像ができない訳ではない。ただ、だから今を平和に生きている人々を危険に晒していいかと言えば、それはまた違うと思う。
別に正義や善悪を語るつもりはないし、語れるほど大人でもないけれど。でも、私が辿ってきた道には辛い過去があっても今を幸せに生きている人達がいて、勿体ないほど手と心を尽くして導いてくれた人達がいた。私はその人達に幸せであって欲しいと思うし、その人達にもらった厚意を裏切りたくもなかった。
「そんなことは、させない」
「いいや、必ず成し遂げる。その為だけに永らえた。君は私のものだ。私が作り上げた、私だけの兵器。あの人になんか譲ってやらない。そうだ! 手始めにあの人を消そう。私の望みを阻む、かつての英雄には、消えてもらう」
ハーデさんは、冷え切った笑いを浮かべた。
「いい考えだろう? 君は、愛しい恋しいあの人を、その手で跡形もなく消し去るんだ」
その言葉を聞いた瞬間、ぷつんと何かが切れる音がした。




