鬼哭奇譚・七
「ヒューゴさんに、ベイルさんの名前は戦争中に使っていたものの一つだと聞いたので。……本当の名前じゃ、ないんですよね?」
「ああ……そうだな。そう言えば、そうだった」
「なので、その、」
「マリアノ・ベディヴェル」
散々どもって発した問いには、あっさりと答えが返された。あっさり過ぎて、逆に私はすぐに反応ができなかったのだけれど。
「マリアノさん、ですか」
「ああ。レムレースの奴が面白がって付けた名だが」
「でも、ベイルさ――マリアノさんのこと、考えて付けてくれたんですよね。そういうの、いいなって思います。私も名前なかったんですけど、育ててくれた人が付けてくれたので」
「そうかい。――それじゃあ、交換といくか」
へ、と目を丸くさせる私の前で、ベイルさん、じゃなかった、マリアノさんが肩を竦めてみせる。
「俺だけ話すんじゃ、不公平だろう」
「でも、その、私、そんな大したこと話せないです。きっと、面白くないですよ」
「それは話を聞いてから、俺が決めることだ。話したくねえってなら、無理強いするつもりはねえが」
思わず、言葉に詰まる。そういう台詞は、ちょっとどころでなくずるい気がする……。
「答えは?」
「……本当に、面白くない、ですよ」
「同じことを二度言わせるつもりかい」
すっぱりと、ベイルさんは切って捨てる。て、手強い……。まあ、ベイルさん――ええい、もうこっちで呼ぼう――みたいに特別な事情がある訳でもないし。話せばいいんでしょ、話せばー!
「……私が育ったのは、日本という国の、木津野って街でした。生まれもそうだと思うんですけど、よく分かりません。直生という名前は、孤児院の人が付けてくれました。苗字の天沢は、孤児院の前に捨てられてた私が持ってた手紙にあったらしいです。で、えーと、他、は……な、何、喋ればいいんですか?」
「何でも。ニーノイエに来る前のことでも、それ以外でも」
面白いことを喋れ、とか言われないのは助かるけれど、残念ながら話を切り上げるという選択肢はないようだ。ほんともう、面白くない話だと思うんだけどなあ。
「ニーノイエに来る前――って、大体半年くらい前ですよね。その頃は、高校に入ったばかりでした。こっちの世界にも学校はありますよね?」
「まあ、基本的に貴族のものだがな」
「あ、そうなんですか。それで、ちょうど入学してすぐに幼馴染の子の誕生日があって――あ、ベイルさんの誕」
言いかけて、慌てて口を噤んだ。友達と話すようなノリで言ってしまったけれど、これは訊くべきじゃなかった……!
「赫林の十二日」
――と、思ったのだけれど。さくっとベイルさんは答えてくれた。ぽかんとする私を見て、事も無げに言う。
「竜が親や先祖の記憶や知識を継ぐ生き物で、生まれた時から既にある程度の知能を持ってることは知ってるかい」
こくりと頷く。ちょうど昨日、アーディンから聞いた。
「――って、もしかして、ベイルさんも」
「生憎とな。俺は鬼と人と竜の混ざりものだが、どうやら竜の割合が一番高いらしい。先祖の記憶までは持ってねえが、母親の腹から出てすぐ、自分が何者で周りがどうして騒いでるのかは、分かってた。だから、いつ生まれたのかも知ってる」
成程、と納得する反面、それはこの上なく残酷なことのような気がした。だって、それは自分が捨てられる時も、そのことを分かっていたことになる。思わず渋い顔をしてしまいそうになるのを堪えて、殊更明るい声を出した。
「赫林の月――十月の、十二日ですか。ということは、私と会った時は、誕生日がきてすぐだったんですね」
「まあ、そういうことになるか」
そう言えば、ヒューゴさんはベイルさんの年齢を知らないと言っていたっけ。気になるけど、こう、軽々しく訊いていいんだろうか。年齢の話って。
「……お前が今何を気にしてるかは、訊かねえでも分かるから先に言うが」
「何と言いますか、その、すみません……」
「畏まられる話でもねえがな。今年、三十一になった」
「あ、じゃあ、ちょうど十五違うんですね。私、来年の一月で十六歳になるんです。早花の月の十六日が誕生日――というか、孤児院に入った日なので」
そこで言葉を切って、ちょっと咳払いをする。不思議そうな顔をするベイルさんに笑って見せて、
「お誕生日、おめでとうございました」
次を祝うことはできないから、無理矢理だけれど、今言っておくことにした。どうも、と答えが返ってくるのを聞いて、何となく切ないような気分になったのは、多分、気のせいだ。
それからまた、私の話を少しした。誰かのことをこんなにも知りたいと思ったのは初めてだけれど、誰かに自分のことを知ってもらうのがここまで難しくて緊張することなのだとも、初めて知った。ただ、ベイルさんが私のことを知りたいと思ってくれたなら、それは何だかとても嬉しいことのような気がした。
逗留三日目の朝、ベイルさんの義手の調整は終了した。一日ぶりに左腕を得たベイルさんは、あれこれ試すように動かしている。
「具合はどうだ?」
「悪くねえ。助かった」
それは良かった、とシェルさんが頷く。その時、扉が荒っぽく叩かれて、ヒューゴさんが顔を出した。
「おい、朝飯のこと言ってきたぞ」
「あ、ありがとうございます」
朝食は今後の予定を詰める為にも、二号室に運んでもらうことに決めていた。足りない分の椅子はヒューゴさんとシェルさんが部屋から運んできて、四人でテーブルを囲む。
「んで、今日出発で良い訳か?」
「ああ、問題はねえ」
「でも、無理はしないようにしてくださいね。傷、塞がりきってませんから」
「はいはい」
「またそういう反応をする……」
溜息を吐いてみせたところで、ベイルさんは何食わぬ顔で朝食をつつくばかりだ。全くもう!
「そういや、その腕落とした張本人として前々から訊こうと思って、忘れてたんだけどよ。何で繋げなかったんだよ。お前、腕繋ぐくらい自分でできんだろ」
不満を朝食にぶつけていたら、予想外の言葉がヒューゴさんの口から飛び出して、心底びっくりした。目も口もぱっくり開けてヒューゴさんを見ると、逆に意外そうな顔で言われる。
「ありゃ? ナオはその辺聞いてねえのか?」
「き、聞いてません」
「わざわざ話すことでもねえだろう」
なのに、ベイルさんの合いの手に「ま、それもそうか」とヒューゴさんが頷いてしまい、始まる前に会話が終わりかける。
「ちょ、ちょっと待ってください、あの、ベイルさんはヒューゴさんと戦って、そうなったんですか?」
「まーな。……あー、これは喋っていいのか?」
「聞きたがるなら、話してやれ」
「へいへい。――つっても、どっから話すかな。大した話でもねえんだけどよ」
「十分大した話だろう」
呆れたようなシェルさんの呟きに、つられて頷く。どう考えても、些細な話じゃないです。
「気にすんなって。そうさな、戦争の終わり際ってのは、何となく気配で分かんだよ。嫌あな空気が流れ出してな。そうすっと、ケツまくって逃げる奴、最後のひと稼ぎと張り切る奴と、色々出る。んだが、俺とこいつはアホだったから、全く違うことを考えた訳だ」
「遺憾ながらな」
「遺憾とか言うんじゃねえよてめえ」
「ええと、それで全く違うことって、何ですか?」
予想はできていたけれど、話が脱線しても困るので、訊いてみる。一瞬の沈黙が落ち、
「勝負の決着」
重なって、二つの声が響いた。分かり易い――もとい、分かりきった話だ。だろうな、とシェルさんが呟く。
「七年間、こいつとは数え切れねえほど戦ったが、いつも邪魔が入っちまったからな。だから、最後にケリをつけたかった訳よ。七年の長きに亘る因縁に決着を、ってな」
「……どうしてか、は、訊いても?」
敵同士であったことは、これまでにも何度か聞いていた。けれど、今の二人がそうであるように、憎み合っていた訳でもないはずだ。それでも決着を望まずにはいられなかったというのは、一体どんな心境によるものなのだろう。
「言って納得してもらえるような理由は、多分、俺にもこいつにもねえよ。こいつは俺が今まで見たどんな奴よりも強くて、だから戦うと面白えんだ。強いて言うなら、それが理由だな。強え奴がいるなら戦ってみてえ。戦ってりゃあ、この上なく面白くて楽しいと思っちまう。こればっかりは、どうやっても止めようがねえ衝動なんだ」
「それで、死んでしまうとしても?」
「そりゃあ、俺が死ぬに値する奴に会えたってことだろ。きっと最高に楽しくて、夢のような話だろうな」
「……ベイルさんと、シェルさんも、ですか?」
「否定はしねえ」
「そこまで根が深くはないがな」
二人の口から出たのも、肯定――容認の言葉だった。何だかもう、目眩がしそうだった。
「傭兵ってのは、そういう、どうしようもねえ奴ばっかしなんだよ。――で、どうにかこうにか最後の勝負の準備を整えたまでは良かったんだが、今俺もこいつも生きてるように、結局また邪魔が入っってなー。あれだけは、今でも心残りだあな」
しみじみとヒューゴさんが言う。そうだな、とベイルさんまでもが頷くので、本気で気が遠くなるかと思った。
「まあ、当分決着を付けようとは思ってねえから、そう青い顔すんなよ」
「……なら、良いんですど」
「ベイルが左腕を落としたのは、その最後の戦闘でか?」
「おう」
「……お前は、大丈夫だったのか?」
「んにゃ、全然」
シェルさんがぽかんとする。あんまりにも平然と返されるものだから、私も一瞬何を言われたか分からなかった。と言うか、深刻な話なのにヒューゴさんの語り口が軽すぎて、どうしても深刻になりきれない。これもある種の才能なのかもしれない……。
「腹掻っ捌かれて、あん時ゃさすがに死ぬと思ったさ。お陰で、凄え傷っ腹だ。臍から背中まで、ぐるっと半分」
「両断されかけたのか……。よく生き延びたな」
「立会人で兄貴を立たせといて正解だったぜ。別にあのまま戦っても負けた気はしねえけど、生き延びる自信があったかって訊かれりゃ、そりゃ頷けねえもんよ」
「お前は兄貴に感謝すべきだな。一人だったら、開戦当初にさっさと殺してた」
「分かってるっつの。で、んなことより腕だ腕。お前なら自分で繋ぐくらい簡単にできたろ。何でしなかったんだよ」
「あの後、面倒な騒ぎがあって繋ぐ機会を逸した」
何のこだわりも無さそうな声で、ベイルさんが言う。けれど、時期的に考えて、その「面倒な騒ぎ」がグナイゼナウ部隊の粛清だろうことは明白だった。苦い感情と一緒にパンを口に押し込んでいると、珍しくヒューゴさんが低い声で言う。
「騒ぎ、な。本当にそれだけか?」
「それだけだ」
「そうかよ」
「俺がそんな殊勝な性分だと思ってたのかい」
「……んな訳あるかってんだ」
「全く、お前は昔からお節介な奴だ」
ほっとけ、とヒューゴさんが苦々しそうに呻いた。
それから間もなくして食事は終わり、私達はまだ朝の内にクヴィトルを発った。国境を越え、まず向かうのはバドギオン東部の大都市レグンだ。アイオニオンまでの道程は残りわずか。ニーノイエよりも、翠珠に属する人達の方が躍起になって追ってくるだろう。
『今まで以上に、気は抜けぬな』
エンデの呟きに、私は黙然と頷いた。




