見知らぬ街で・五
「適当に座ってくれて構わん」
扉を閉めると、部屋の中央に置かれたテーブルの辺りを指で示される。失礼します、と断ってから近くの椅子に座ると、シェルさんも私の向かいに座った。
「まず――その感覚は、天性のものか」
「あ、その……私は感覚、というのが、どんなものなのか、よく分からなくて」
「分からん?」
「はい。……すみません」
「謝る必要はないが、もしやお前はストランジェロの出か」
問う声が険呑な硬さを帯びる。けれど、私はそれを不思議に思うよりも早く、「はい?」とひどく気の抜けた声を上げていた。一転して、シェルさんが拍子抜けした表情を浮かべる。
「違うのか?」
「ええと……その、そこの出身じゃないのは、確かです」
「では、先の反応は単に獣人を初めて見たからか」
悩んでいる間に、また問い掛けられた。え、と首を捻ると、
「扉を開けた時、物珍しそうな顔をしていただろう」
さらりと言われて、一瞬、頭の中が真っ白になった。
「す、すみません! 私、獣人の方に会ったことなくて――」
ああもう、最悪だ。慌てて謝りながら、何度目かも分からない自己嫌悪に陥る。すると、小さく笑う声が聞こえた。
「ああ、分かった。謝らんでいい」
「あ、はい……。ありがとうございます」
「いや、礼を言うのは、俺の方だ」
今のやり取りのどこに、感謝される要素があったのだろう。思わず首を捻ると、シェルさんは苦笑しながら、
「俺はストランジェロも、そこの人間も嫌いでな。さすがに預かっておいて放置では、まずいだろう」
「お嫌い、なんですか。ストランジェロ」
間抜けな返しだとは思うけれど、他に思いつかなかった。シェルさんは、何を当たり前な、とでも言いたげな顔をする。
「あれは魔術を外法と蔑み、純粋種の人間族を至上と定めた国家だ。獣人が好く理由はどこにもありはせん」
「そ、そうですか……」
いきなり物騒な話になってきた。どこの世界でも差別はあるらしい。嫌な話だ。
「それにしても、素性然り随分と妙だな。獣人を見たことがない上に、ストランジェロの事情にも明るくない。浮世離れにもほどがある。一体、どこの山奥から連れてこられた?」
あっ、しまった! せっかくベイルさんが事情を伏せておけるよう、色々と言っておいてくれたのに……。
答えるに答えられないでいると、シェルさんは小さく唸った。
「ふむ……ベイルが言うだけのことはある、ということか。相当込み入った事情のようだな」
「……た、多分」
「多分?」
「自分でも、その事情が全く分からないんです。何が起こっているのか、何が起こったのか――本当に、何も」
「傭兵志望で、ここに来た訳ではないんだな?」
「それは、はい。そうだと思います」
「なら、別に訊いても構わんか。どんな事情だ」
「え? ……その、本当に、信じられないような話ですよ」
「それは分かったから、ひとまず話してみろ」
シェルさんの追及は緩まない。……話すしかなさそうだ。
「気がついたら、この街にいました。でも、私は家で寝ていたはずで――だから、最初は夢かと思って、頬をつねってみたりしたんですけど……。ちゃんと痛くって」
「夢ではない、と分かったと」
「はい……。だから、私は家で寝ているうちにこの街に来てしまったことになるんです。……お陰で、本当に何も分からなくて。故郷がどこにあるのか、ここがどんな場所なのかも」
「ほおー」
相槌を打つ声は、シェルさんのそれよりも少し高かった。
ぎょっとして、声のした方を見る。そこには窓枠を掴み、外から部屋の中を覗き込むヒューゴさんの姿があった。……な、なんて無茶を。ここ、三階ですよ!
「ベイルが誤魔化した事情は、そういうことだったって訳か」
どっこいしょ、とヒューゴさんが窓枠を乗り越えて中に入ってくる。本当にこの人、どうやってここまで来たんだろう……。
「よう、邪魔するぜ」
「邪魔してから言うな」
「まー、あれだ、細けえこと気にすんなって」
からからと軽やかに笑い、ヒューゴさんがテーブルに着く。シェルさんは溜息を吐くと、「どう思う」と問い掛けた。
「ま、どこぞの盗賊にでも攫われて、薬か魔術かで記憶を飛ばされたってのが、一番ありそうな筋書きじゃあるけどな」
「であればこそ、街をふらふら出歩ける訳があるまい。大事な商品だ。それに、記憶――いや、知識の失われ方が妙だ」
妙、とヒューゴさんが首を傾げる。つられて、私も首を捻った。シェルさんは難しい表情を浮かべて、続ける。
「ナオからは過去の記憶だけでなく、獣人族やストランジェロに関するような、ごく一般的な知識までもが失われている」
「そうなのか?」
ヒューゴさんが目を丸くして、私を見る。少し躊躇ってから、頷いた。その間もシェルさんの話は続く。
「記憶と知識は別のものだ。記憶を失う話に比べ、記憶と知識を一度に失うという話はそう聞かん」
「けどよ、カレルヴォんトコ行った後なんだろ?」
「あ、はい。何も問題はないと言われました」
実際のところ、それは単なる日本生まれによる無知なのであって、記憶喪失とは関係がないのだけれども……。どう話したものか分からないので、黙っておくことにする。
「不可解過ぎるが――とりあえず、ナオはこの島がどこにあるのかも知らんのだろう?」
「はい。……と言うか、島なんですか?」
「オイオイ、そこから知らなかったのかよ」
「す、すみません」
「謝るこっちゃねえけど――っつか、そう畏まんなって」
「ええと、その、すみません」
「いやだから」
「ヒューゴ、お前は少し黙っていろ。ベイルには魔術を教えろと言われたが、先にこの島ついてを話すべきかもしれんな」
「あ、はい。お願いします」
「ああ、まずこの街はシィラという。ミスミ国スィレン島にあるが、島そのものが一つの街だと言っていい」
シェルさんが近くの棚から地図を取り出し、テーブルの上に広げる。一面に描かれているのは、横長の楕円形の島だった。
「あれ?」
地図を見ていると、また漢字が書いてあることに気が付いた。翠珠王国粋蓮島の文字の上に、街で見た文字で振り仮名が振ってある。そして、町の名前は白碧と記載されていた。
「どうした?」
「白碧というのも、町の名前なんですか?」
問い掛けると、何故か沈黙が落ちた。しばらくして、
「そう言えば、ナオはミスミ語喋れんだぜ」
「ふむ……。ますます妙だな。記憶も知識も失っているというのに、ミスミ語は喋れるとは」
シェルさんが怪訝そうに眉根を寄せる。相変わらず、私にはその意味が分からない。
「前にも言ったけどよ、俺らが喋ってんのは大陸共通語だ」
「ああ、はい。そう言っ――」
頷きかけたのを、慌てて止める。そう言っていましたね――なんて言ってしまえば、自分が喋っている言葉すら理解していないことを暴露してしまうことになる。
「ん? どした?」
「何でもないです」
「そうか? んじゃ、話を続けんぞ。ミスミじゃ、共通語だけじゃなく、共通語成立以前の古語が日常的に使われてんだ。ショーランとか、通りの入口にゃアーチが掛かってたろ? それに妙な文字が書いてあったの、覚えてっか」
シェルさんが近くの棚から取り出した筆記用具で「こういうものだ」と「招籠」の文字を書く。漢字は翠珠語の古語らしい。
「ミスミは大陸における最強国の一つだ。それと諸々の事情が重なって、ミスミ文字は大抵の奴が読める。んだが、独特の発音まではそうもいかねえんだなあ、これが」
「俺達のような異国人には、少し難しくてな。ああ、この際だ。ヒューゴ、地理に関する説明はお前がしろ」
「あ? 何で俺が」
「暇を持て余しているんだろう」
さっくり言い放ち、シェルさんは棚から新しい地図を引っ張り出す。その姿を横目に、ヒューゴさんは溜息を吐くと、
「仕方ねえ。そんじゃ、俺が説明するけどよ」
軽い咳払いの後、講義は再開された。テーブルの上には、シェルさんの手で別の地図が広げられる。地図を見るに、翠珠は西にニーノイエ、東にメリノットという国と接しているようだ。南一帯は海で、北には大きな湖を挟み、セトリアという国がある。
「スィレンは、ミスミとセトリアの間の湖に浮かんでる島だ」
「へ? この島、湖に浮かんでるんですか? 潮の匂いがしたような気がするんですけども」
「ああ、何か神話の時代の魔術師の仕業だとかって伝承でな。それと碧色の湖水とがあって、碧の海――碧海って呼ばれてる」
地図には、ヴェーラメールはそのまま 碧海と書かれていた。
「因みに、セトリアはミスミの最大の友好国でよ。それにも、碧海の特性が関係あんだ」
「潮風とはまた違った特性ですか?」
「その通り! 碧海は一切の干渉を弾く。それが物理手段だろうが魔術だろうが、区別なしだ。お陰で国境を定めることもできねえ。明確な資源分割も、効率的な国境警備もできねえなら、いっそ融通を利かせられるよう仲良くしといた方がいいだろ?」
「そう、かもしれません。よく分かりませんけど……」
「ま、俺もよく知らねえんだけどな。んで、碧海は国境警備が難しい。てことは、密入国する犯罪者の類も多い。そういう訳で、この街も治安の悪いトコは本当に悪い」
「薄昏、みたいに」
「ああ。この島もミスミの領土じゃあるが、本土から遠いせいで一種の独立都市みてえになっててな。自治の趣が強えし、島主も王に向かって『互いの不干渉こそが最良』と言って憚らねえ。その癖、スィレンで騒ぎの責任は全部ミスミに押しつけられる」
「……何というか、ややこしいですね」
「全くだぜ。何か騒ぎがあって国軍を大挙させようもんなら、セトリアへの威嚇と取られかねねえしな。いくら国同士の仲が良くても、その辺はどうしようもねえ」
肩をすくめてみせ、ヒューゴさんはそこで言葉を切る。
「で、シェル。こっからはお前の出番だろ。お前の身内の話だ」
そうだな、とシェルさんが小さく頷いた。




