鬼哭奇譚・五
「漸うの帰還か。なれば、我もそろそろ帰るとしよう」
「あ、はい、ありがとうございました」
「否、礼には及ばぬ。では、またな」
そう残し、アーディンは姿を消した。けれど、展開し続ける転移術式はまだ術者の姿を見せない。転移に支障が出るほど、消耗がひどいのだろうか。
転移魔術は、任意の二地点の間で物体を移動させる術だ。普通の術者では、よほど目立つ目印がない限り転移先を捉えられずに失敗する。その対策として、人工の目印――〈転移碑〉が使われるのだけれど、消耗したベイルさんは、目印のないこの場所を見失いかけているのかもしれない。
そうとなれば、することは決まりだ。深呼吸をして、轟々と渦を巻く魔力の中に手を突き入れる。私は、ここにいる。そう示せば、きっと見つけてくれると、信じた。
「……っ、」
伸ばした手が掴まれる。痛いほどの力で握る氷のように冷たい手を、必死に握り返して引っ張った。血と雪で濡れた身体が、風を掻き分けるようにして現れる。
「ベイルさん?」
呼ぶと、深い藍色の双眸がこちらを向いた。その眼が、ほんの少しだけ細められて、
「――うわっ!」
倒れ込んできた身体を、慌てて両腕で抱き留める。一緒に倒れそうになるのを、強化の術式をありったけ起動させて、辛うじて踏みとどまった。
「大丈夫ですか?」
「……悪い、気が抜けた」
目が見開く。そんな言葉を聞くとは思いもしなかった。
「服、汚したな。悪い」
私の肩を押して、ベイルさんが離れる。テーブルの上の薬や包帯を認めると、
「助かる」
そう言って、すれ違いざま、私の頭をぐしゃりと撫でた。
「あの、ベイルさん!」
堪えきれなくなって叫んで振り返ると、ベイルさんも振り向いて私を見ていた。その姿は本当に傷だらけの血だらけで、私が泣いていいはずもないのだけれど、泣きたくなる。
「お疲れ様でした、ありがとうございます」
「礼を言われることじゃねえ」
「それ、同じことヒューゴさんも言ってました」
ベイルさんがあからさまに嫌そうに眉間に皺を寄せるので、思わず笑ってしまった。
「鞄、持ってきますね。着替えなくちゃいけないですし」
「ああ、お前も着替えてこい」
「え?」
「今、俺が汚したろう」
「でも、これから手当でまた汚れるかも」
「そこまでする必要はねえ。ヒューゴかシェルの部屋に行ってろ」
「嫌です」
首を横に振ると、ベイルさんはまた眉間に皺を寄せた。でも、これだけはどうしても譲れないのだ。
「一人で手当てするの、大変ですよ。ベイルさん、アランシオーネの時より、ずっと疲れてますよね? さっき私が大丈夫ですかって訊いた時、何も言わなかったじゃないですか」
ベイルさんが黙る。きっと、この沈黙は肯定だ。
「私が駄目なら、ヒューゴさんかシェルさん呼んできます」
「……ここにいろ。ヒューゴは喧しいし、シェルの小言をもらうのも御免だ」
観念したような声で、ベイルさんは呟いた。拒絶されなかったことにほっとして、少しだけ気が緩む。
「分かりました、それじゃ座っててください」
「……ああ」
重々しげな溜息を聞きながら、急いでベッドへ向かう。私のものより大きく、重い鞄をやっとのことで移動させた。
椅子の背もたれに寄り掛かって座るベイルさんは、少し虚脱して見えた。その脇に椅子を引っ張ってきて、手早く術式を紡ぐ。まずは止血で、それから治癒だ。ベイルさんは顔を顰めながら、血で重くなったコートや、ほとんど皮膚に貼り付いた服を脱ぎ捨てる。露出した肌は血でべっとりと汚れていて、両肩と左胸、それから右脇腹には大きな傷口が開いていた。
「痛み止め、飲みます?」
「感覚が鈍る。要らねえ」
「じゃ、しまっておきます。――あ、寒くないですか?」
「いや」
「我慢しないでくださいよ」
「はいはい」
「何ですか、その返事」
「そういうお前は、何で妙に元気なんだ」
「安心したからに決まってるじゃないですか」
両肩の傷を拭き、治癒術式を唱えながら包帯を巻く。
「あれ、右腕のこれ、封印紋ですか?」
ふと、ベイルさんの右腕に対になった二つの紋様が刻まれているのが目に付いた。独特の形状は、何らかのものがその紋章に封じ込められていることを示していた。
「昔使ってた剣を封じてある。名が売れすぎたからな」
あの白金の剣のことだろうか。察することはできたけれど、戦いを覗き見していたことは言い出せなくて、「そうですか」と相槌を打つだけに留めておいた。
「あ、ちょっと、背中、浮かせてください」
肩の傷は終わったから、次は胸と脇腹だ。鍛えられた身体は厚くて、抱き着くように腕を伸ばさないと包帯が巻けない。手当の為だとは言っても、何度もそうやって接近するのは、妙に気恥ずかしかった。
「だから、外に行ってろって言ったんだ」
ぼそりとベイルさんが言う。私は意地になって、言い返した。
「何か言いました?」
「何も」
しれっとした顔が、明後日の方を向く。上目に睨んでみたものの、少しやつれて見える顔には感情らしい感情もなく、まさに素知らぬ振り。一抹の悔しさを噛み締めながら胸と脇腹の手当てを終えると、包帯も残り少なくなっていた。
「後は――」
「右腿にあるだけだ。着替えるついでに始末するから、お前はシェルのところへ使いを頼まれてくれ」
「お使い、ですか?」
「念の為、義手の調整をな」
義手、とぽかんとする私の前で、ベイルさんは事も無げに右手で左の二の腕を掴み、
「うわっ!」
ぎっ、と軋むような音がしたかと思うと、腕が取れた。
「左手は戦時中になくした。今はこれに色々仕込んで、魔術を使ってる訳だ」
差し出される義手を、おっかなびっくり受け取る。見かけは生身の人の腕そのものだ。断面を覗き込んで、ようやく人工物だと分かる。これで体温があれば、本物だと間違えてしまいそうだ。――そこまで考えて、気付く。
「あ、そっか」
「どうした?」
「や、大したことじゃないんですけど、これ、体温がないから触れば義手だって分かりますよね」
「そうだな」
「じゃあ、今まで右手ばっかり貸してもらってたんですね」
アランシオーネで手を引いてもらった時も、悪夢にうなされた夜に背中を叩いてくれた時も、それ以外の時も。
「偶然、な訳ないですよね」
「余計な情報を増やしても、混乱するだけだろう」
いつも通りの声音で、さらりとベイルさんは言った。何気ない風の口振りが、本当に嬉しくて、敵わないなあと思う。
「ありがとうございます」
「ただの独断だ。――いいから、行け。シェルが寝る前に」
追い払おうとするような口振りにも、不思議と笑みが浮かぶ。はい、と返事をして、私は義手を抱えて部屋を出た。
「――直生」
運よくまだ起きていたシェルさんに義手を預けて戻ると、ベイルさんはおよそ全ての処置を終えていた。顔に血の気はないままだけれど、服も新しくなって、左腕がないことを除いたらほとんどいつもと変わらない。ベッドに座ったまま手招きをするベイルさんの傍へ、小走りになって向かう。
「何かご用ですか?」
「渡すものがあった」
ベイルさんが右手を差し出す。その掌の中にあったのは、丸い珠だ。澄んだ結晶の内に白い光を秘めている。
「お前の記憶だ」
小さく息を呑む。喜ぶべきはずなのに、どこか恐ろしい。奇妙な気分だった。
「ありがとう、ございます」
透明な珠を受け取る。その途端に白い光が結晶から溢れて、目から身体の中に突き抜けていく。ずきり、と左胸が痛んだ。危うく叫んでしまいそうな鋭い痛みは、幸い一瞬のことだった。
「直生?」
不審そうに呼ぶ声に、何でもないと首を横に振る。思い出したのはいくつかの過去、それから戦い方。得たものは、それだけ。それだけだと、語る。……騙る。
「そう言えば、ゾエさんは――」
「止めを刺す前に、ハーデが回収した」
「そうですか……。良かった、のかは、分かりませんけど」
「ほう?」
「ゾエさんは、とても誇り高い人ですから」
「任務の失敗と負傷は、誇りに障るか」
かもしれません、と呟くと、今度こそ沈黙が落ちた。どうしてもその沈黙に意図的なものがあるように感じられてしまうのは、きっと私に後ろめたいことがあるからなのだろう。
「お風呂、入ってきます」
逃げるように、浴室へ向かう。狭い浴槽にお湯を張りながら、姿見の置かれた脱衣所で服を脱ぐ。姿見へ目を向けてみれば、また少し傷痕の増えた身体に、欲しくなかった変化があった。
『やはり、か』
エンデの呟きに、無言で頷く。左胸の黒い茨が、一層広がっていた。ケラソスさんの祝福である蔦の紋様があるからか、左腕の方には伸びていかないものの、肋骨や腹筋に沿ってのたうっている図は、結構どころじゃなくて気味が悪い。
『ハーデさんが、何か仕込んでたのかな』
『十中八九。エジードの持っていた記憶が種を根付かせ、ナタンの記憶で芽吹いた。今回で成長したというところか』
『左腕の封印に影響は? ある?』
『薄気味悪いほどに、何もない』
とは言え、ハーデさんが潜ませた呪いだ。今は影響がないとしても、警戒だけは怠らないようにしないと。
『ナオ、自覚はないだろうが、そなたには一種の思考誘導が施されている。ベイルと拳を交えた時を覚えているか』
『アランシオーネでのことだよね? 何かおかしかったのは、少しだけ覚えてる。変だね、あの時だけだよね? 私がおかしくなったのって』
『何の、実に狡猾な呪いよ。あの呪いには思考を縛り、戦闘に没入させる作用があると見た。そなたは竜騎兵を相手にすると感傷で心揺れ、剣が鈍る。それは連中にとっては追い風だが、その他の雑兵と相対した時にもそうでは困る。よって、呪いで余計な感情を排除し、それにより一人や二人殺し、罪の意識に囚われれば尚良いと、そんな腹だろう。先のミスミの追っ手で発動せずにあったのは、それに値しなかっただけであろうしな』
『何それ、やだなあ……。その呪いが、この茨?』
『確証はない。そもそも、思考誘導はエジードが記憶を返す前に発動していた』
『結局、推測の域を出ない、って奴かあ』
『口惜しいが、そうなる。ベイルも言っていたが、考えて分からぬことを気に病んでも仕方あるまい。私もそなたも、警戒は続ける。それで構うまいよ』
「そうだね――うえっくし!」
相槌とくしゃみが混ざって口から飛びだす。うう、寒い。服を脱ぎながら長話なんか、するんじゃなかった。
◇ ◇ ◇
ナオが入浴を終えて部屋に戻ると、ベイルは既に寝台で眠っていた。点いたままの灯りを消し、近寄ってみても反応は無い。常に半分目覚めながら眠っているような、奇妙な眠り方をする男であるのに、今宵に限っては確かに熟睡しているようだった。
それだけ傷が重いのやも知れぬが、ナオに気を許したという側面もあるだろう。この時ばかりは、己が実体を持って在らぬことを幸運に思った。姿を持っていれば、今の私はひどくにやついていたに違いない。
『エンデ、何笑ってるの』
おっと、うっかり感情が伝わってしまっていたようだ。
『ふふ、可愛い宿主殿の今後を思って、つい』
『へ? ていうか、今日はいつもより元気だね?』
『そなたの欠けが満ちつつあり、竜の封じもより強固になっている。私も己の身を保つことに意識を割く余裕が出てきたのだ』
『そうなの? よく分かんないけど、良かったね』
『うむ。しかし、今は私よりも目の前の怪我人のことを気にするべきではないか?』
そうだった、とナオは慌ててベッドの脇に膝をつく。迷う素振りを見せてから、恐る恐るといった態で眠る男の額に小さな手を置いた。短い間を挟んでから、ほっと息を吐く。
「熱はないみたい」
よほど安堵したのだろう、その言葉は精神感応を為すことを忘れ、緩んだ声音でもって紡がれた。
「今、何かしたら、きっと起こしちゃうよね」
「聡い男だからな」
そして、ナオは少し鈍い。私は敢えて何も言わぬが。
「やっぱり、朝になってからにしとく」
「うむ。――それにしても、良かったな。無事とはゆかなかったが、この男はそなたの許に帰ってきた」
うん、とナオがはにかむ。しかし、その表情は何故か、すぐに曇ってしまった。
「どうした?」
「あのね、私、ひどいんだ。ゾエさんが死んでしまうのは怖かった。でも、一番怖かったのは、違うんだよ」
何か、とは問わなかった。その代わりに、口ごもる娘の胸の内を代弁してやる。
「ベイルを喪うことが、何よりも恐ろしいのだな」
「……うん。変だね。今でも人が死ぬのは怖いけど、他の誰かよりもベイルさんが死んでしまう方が、ずっと怖くて、嫌だ。何でだろう、そんなに頼っちゃってるのかな」
「さあて、何故だろうな」
くすくすと、私はこれ見よがしに笑って見せる。
「何にしろ、もう眠るがいい。ベイルに変事あれば知らせる故」
「分かった。じゃ、お願いするね」
「ああ、良い夢を」
やはり疲れは深かったらしい。ナオは寝台に上がると、すぐに眠ってしまった。それを見計らったかのように――否、見計らって、不機嫌そのものの声が上がる。
「わざわざ聞かせる為に言わせるな、趣味の悪い」
「さてな。可愛い宿主の為とあらば、多少の策も弄そうというものよ。そなたも決して、裏切ってくれるでないぞ」
「俺が直生を裏切ると思ってんのかい」
「否。それでも、念押しはしておかねばな」
「過保護なことだ」
「何とでも。――それはそうと、ゾエに何事か問い質してきたのであろう?」
「何も目新しいことはねえさ。直生に与えられた役割の確認ついでに、探りを入れただけだ。――が、やはり見立ては外れてなかったな。ハーデの野郎、とんでもねえことをしでかしやがった」
「……あ奴にとっては、竜すら踏み台に過ぎぬ」
「らしいな。面倒ばかり起こしやがって。……自分に課された全てを知れば、直生は必ず惑う。その時には、必ずお前が支えろ。おかしなことを考えねえように」
「そのことは、私とて気にしてはいる。だが、」
「泣き言は聞かねえ。ハーデがその気になったら、俺はその場に居合わせることすらできねえだろう。だからその間、何としてもお前がやれ。時間を稼げ。直生を守りたいなら」
「……承知した、可能な限り時を稼ごう。であるからには、そなたも必ずナオの元に戻るのだぞ」
「当然」
「うむ。……しかし、そなたも私を過保護などと言えぬのではないか? 心配しきりではないか」
「喧しい。それよりお前、さっきみたく日頃から余計な口出しをしてるんじゃねえだろうな」
「それは濡れ衣というものだ。ナオのあれは天然よ」
そう返せば、ぐっと詰まるような沈黙が刹那に落ちた。
「……全く。子供のくせに、とんだ口説き文句だ」
「まんざらでもなかろ――ああ、そう睨むものではない。礼の一つも言ってやろうかと思っていたのだぞ、私は」
「礼だと?」
「ゾエを、殺さなかったのだろう」
「殺す前に回収されただけだ」
「そうであるとしても、礼を言おう。実際に手を下さずとも、人死にが出れば、ナオは気に病む。生涯消えぬ傷となろうよ」
「分かってる。だが、今回は相手が相手だ。いつまでも手段を選んじゃいられねえ」
「それでも、そなたは可能な限り選ぶだろう。選んでくれるものと、私は信じる」
「買い被られたもんだ」
「心にもない謙遜を口にするものよ。今更その配慮をせずにいられるほど、ナオに無関心でもいられまいくせに」
揶揄混じりに言えば、心底苦々しげな風の溜息が応じた。
「おや、ベイル、そなたは後悔を」
「する訳がねえだろう。本当に喧しいお守りだな、ご名答とでも言って欲しいのかい」
一旦、声が途切れる。小さな舌打ちが聞こえた。
「俺も焼きが回ったもんだ」
投げ捨てるような響きは、どこか負け惜しみのようにも聞こえた。そうして私は、今度こそ宿主に悟られぬように笑った。




