鬼哭奇譚・三
街の明かりもほとんど消えた夜更け、ベイルさんは出撃の準備を始めた。たくさんの感情が頭の中に渦巻いていて、ひどく気分が重い。それでも、発つ人に送る言葉だけは間違えないでいたかった。震える声で、祈る。
「どうか、無事に戻ってきてくださいね」
「ああ」
かすかな頷きが返されるや、テーブルの傍らに立つベイルさんの周囲で転移魔術が展開されていく。その最中、つと藍色の双眸が私に向いた。
「お前は、怨んでいい。俺は殺しに行く」
冷たくすら聞こえる声音に、息を呑む。目眩がするような気分で、項垂れた。とっくに分かっていたことだ。
ゾエさんを言葉で止めることはできない。躊躇ったり、譲ってくれたりするような相手ではないのだ。それでもベイルさんの帰還を望まずにはいられない以上、その敗北を――死を、覚悟しなければならない。なのに、私はまだ迷っている。
かつて師と仰いだ人達に対して、どんな感情を抱いたらいいのか。……本当に、私は馬鹿だ。迷うにしたって、せめて隠しておければ良かったのに。そうしたら「恨んでいい」だなんて、こんな風に気を使わせてしまうことはなかった。
「すみません、ありがとうございます。でも、気にしないでください。……自分の選択の責任は、自分で負います」
首を横に振って、答える。恨むのはお門違いだ。ベイルさんは代わりに戦ってくれているだけで、これは私が発端となった、私の問題なのだから。
「そうかい」
溜息混じりに呟く声が聞こえた。それきりベイルさんは何も言わず、こちらに目を向けることもなかった。その姿が掻き消える様を見届けて、部屋を出る。
まず、シェルさんを訪ねることにした。扉をノックして名前を言うと、「どうかしたのか」と部屋の主が顔を出す。周りに人がいないことを確認してから、ベイルさんが迎撃に出たこと、私達はここに残れと言い渡されたことを伝えた。
「なら、その通りにするのしかないのだろうな」
話が終わると、シェルさんは溜息を吐きながら部屋から出てきた。今度は二人でヒューゴさんの部屋に向かう。
「グレッグ、デールだ」
シェルさんが扉をノックして言うと、すぐに扉が開いた。怪訝そうな顔をしたヒューゴさんは廊下に並ぶ私達を見比べて、ぎゅっと眉根を寄せる。
「また、あいつが何かしたのか」
「その話を、これからする。入っても構わんか」
ヒューゴさんは溜息を吐きながらも、私達を部屋へ入れてくれた。さっきから、誰も彼も溜息ばかりだ。シェルさんは部屋に入ると、防音と防衛の結界を張ってから話し始めた。
「ベイルが独自に迎撃に出たそうだ。俺達はここに留まり、ナオの護衛を継続しろということらしい」
「ホント勝手な奴だな、オイ」
「問い質すことがあると言っていたので、何か目的があるんだとは思うんですけど」
「その辺、聞いてねえのか?」
「……教えては、もらえませんでした」
「さしずめ、最重要機密と言ったところか」
「多分……ですね。それでシェルさん、探査はできますか?」
「探査? そう広い範囲はできんが、可能は可能だ」
「なら、私が広い範囲を見ておきますから、近くを細かく見てもらえますか? 別働隊がないとも限りませんよね」
「ああ、確かにそうだな。承知した」
「んじゃ、俺は何か出てきた時の迎撃担当てとこか」
「はい、お願いします」
「おうよ、任せとけ」
私とシェルさんが探査術式を展開させれば、ヒューゴさんも出撃に備えて準備を始めた。
「ナオとシェルは座っとけよ」
装備の点検と装着を行うヒューゴさんの勧めに従って、椅子を借りる。これだけ大規模な魔術を使うとなると、さすがに負担も大きい。細く息を吐いて、更に領域を広げていく。街を覆い尽くすだけでなく、もっともっと外へ――街から南に三キロ近く離れた地点に至って、やっとその気配は見つかった。
「ベイルさんを見つけました。南に三キロ弱――」
そう告げると、部屋の中の空気がぴんと張り詰めた。
「既に交戦中。敵はゾエさんを含め、十三人です」
「〈牙〉の類の増員か?」
「ではない、と思います。気配が違います」
「それなら、まだ不幸中の幸いか」
そうですね、と頷く。実際に敵の数は次々と減っていき、すぐにゾエさん一人きりになった。動かなくなっただけで生命反応まで消えてはいないから、昏倒させただけなのだろう。
目を閉じて、視界をも遠く南へと急がせる。やっぱり、私がここで何も知らずに隠れていてはいけないと思うのだ。
拡大した知覚領域に乗って、視覚は夜の闇と雪の白に塗り分けられた世界へと飛び出す。心が急けば急くほど、通りすぎる景色の速度も増した。おそらくは数秒、けれど数十分ほどにも思えた道程を経て、目的の場所に辿り着く。
多くの人が倒れ伏す大雪原。その真っ只中で対峙する二人は、固く口を閉ざしていた。硬く凍った空気が満ちている。聞こえるはずもないのに、私は息を殺していた。
◇ ◇ ◇
ゾエ・ミッテランは〈鋼の騎士〉と謳われる、ニーノイエ国軍でも指折りの剣士だ。だが、対峙するベイルからしてみれば、まだ若い女兵士にすぎなかった。無論、当然の話ではある。
ベイルがアルトゥ・バジィ国軍に在籍していた時分から評価されていたのなら、当時耳に入っていないはずがない。アルトゥ・バジィは国土の南一帯をニーノイエと接している。北方との戦の最中に後背を突かれては堪らない。戦時中は特に、ラクストゥ・バジィに勝るとも劣らぬ関心が注がれていたのだ。
若い軍人の実力が近年になって、ようやく評価に値する域に到達したのか。それとも、単に竜の亡骸を用いた魔道具の恩恵か。どちらかは分からないが、どちらでも構わないとも思う。何がどうであれ、敵は全て降さねば目的も果たされない。
今一度、ベイルはゾエを値踏みする。長剣の構えには微塵の隙もなく、敵を見据える双眸も冷徹そのものと言えた。――手加減は無用。そう判断するや、ベイルは躊躇いなく枷を外した。
額に刻印された封を解けば、身体の奥底から迸る、狂気を孕んだ闇色の奔流が瞬く間に全身を覆う。ともすれば精神にまで干渉したがるそれを、己の意志一つで抑え込む。
雪混じりの風が吹き抜け、白金に変じた髪を視界にちらつかせた。膨張した体躯は墨の如き漆黒に染まり、両手の爪は刃に似て鋭く長い。額には天を衝く黒金の一角を抱き、その有様はまさしく悪鬼、異形と呼ばれるものだった。
「それが、グナイゼナウの証か。凄まじいな」
驚愕の片鱗すら見せず、静かな声音でゾエが言う。
「ハーデは、お前達に、そこまで、話したのかい」
「酒の肴に多少。その程度だ」
「その、宴席に、アンドラステは?」
「否」
「そうかい。そりゃ、良かった」
「ほう? 閣下は貴公を冷酷無比、無感動な兵士の鑑と評したが――市井で生きるうち、変質したか」
意外そうに言う声に、ベイルは答えなかった。会話が億劫になったからでもあり、答える理由が見当たらなかったからでもある。ただ、指摘に意外な感を覚えてはいた。
封印を解いた姿がどうであるかなど、誰よりも自分自身がよく知っている。もちろん好んでなどいないが、忌々しいと思ったこともなかった。元より興味がないのだ。だが、ふと埒もない思考が脳裏を過ったのも確かだった。
この醜悪な姿を、可能な限り見せずにおきたい、と。恐れられるのはいい。忌まれても構わない。しかし、やたらに甘いところのあるあの娘は、恐れ忌むことすら咎だと自責するに違いない。既に数多の悩みを抱えている身に、これ以上の重荷を背負わせたくはなかった。ベイルは自分が極度に無関心な性質であることを自覚している。だが、その割には随分と例外的な思考だ。或いは、これこそが「変質」なのか。内心に細波のような情動を覚えながら、ベイルは罅割れた声で嘲笑った。
「暢気にお喋りとは、血眼になって、たかが一人の娘を、追い回してる割には、随分と余裕だな」
「それもそうだ。我々の間に問答など無用。議論や世話話など、尚無意味」
ゾエが剣を構え直し、すっとその双眸が細くなる。
「――いざ、尋常に」
降り積もった雪が爆散した。白雪を蹴立て、〈鋼の騎士〉が疾走する。突進の勢いの乗った突きを、ベイルは事も無げに爪先で払った。衝撃で泳ぐ剣を横目に、右手に握った剣を振り下ろす。首筋めがけた剣筋は肩から腹へと抜ける軌道を描き、間違いなく一刀の下に絶命させる質のものだった。
「!」
だが、必殺の一撃は弾かれた。歯の浮くような音を響かせ、白刃は宙を滑る。ベイルは素直に感嘆の念を覚えた。
結界を斬れなかったことなど、近年覚えがない。何よりも感嘆に値したのは、その術が純粋に人の持ち得る魔力のみで編まれていたことだ。ゾエは、まだ竜に頼っていない。
紛れもない強敵である。薄く笑って、ベイルは左腕を振った。掌の内で剣を生成、投擲する。過たず結界は破られたものの、剣はまたしても届かない。ゾエは大きく跳んで距離を取っていた。
ゾエは雪面を滑るように後退しながら、その手に握った剣を大きく振る。迸る竜の魔力が一帯の氷雪を支配し、さながら津波のように押し寄せた。ベイルは無言で剣を一閃させる。一陣の風が雪壁を両断、わずかに発生した空隙へ飛び込むようにしてくぐり抜ける。その先に十重二十重と聳える雪璧とて、障害にはならなかった。
淀みなく前進を続けるベイルに、ゾエもまた率直な感嘆を抱いた。だからこそ一片の油断もなく、可能な限り重ねた強化術式を施し、黒鬼の突撃を待ち受けた。
上段から叩きつけられた刃は、結界を硝子細工のように破砕する。いくら強化の術式を施したところで、受け止められるものではない。渾身の力で捌きこそしたものの、両手は痛いほどに痺れていた。しかし、その状況とて、狼狽させるには及ばない。
およそいかなる状況でも揺らぐことのない、強固な愛国心と冷徹な頭脳。それこそが国軍有数の実力者に押し上げたのだ。
持ち前の頭脳をもって、ゾエは静かに判じる。異形の膂力は凄まじく、その差は術式を集中させた程度で覆せるものではない。ならば――
眼前に捉えていた姿を見失い、ベイルはかすかに目を見開いた。その途端、右の肩口から血飛沫が弾ける。背後から肩を抉った刃は振り返る暇すら与えず、傷を抉るだけ抉って消えた。
二撃目を受けたのは、左腿だった。身体を捻ってかするだけに留められたのは、ほとんど直感による所作だった。
ゾエは目にも映らぬ速度で接近と離脱を繰り返す。どうやら、上手くいったらしい。胸の内で独白しながら、ベイルは剣を振った。右肩、左腰、左脛――次々と迫り来る刃を弾いていく。
「凄まじいな」
二度目の、しかし、先とは違う意味合いの賞賛。
ベイルは一切の魔術を行使することなく、己の感覚と肉体だけを駆使してゾエの剣を捌き続けていた。
「これでは、些細な矜持を守ってなどいられないか」
低く零れた呟きに、ぴくりとベイルの眉が跳ねる。
「私は、己が手で積み上げてきたものに誇りを持っている。それを竜の遺物だとかいうもので、汚したくはなかった。だが、目的の達成に代えられはしない」
一転して、氷雪を支配していた竜の魔力が術者に矛先を向ける。その瞬間、ベイルの剣は砕けた。左胸から血飛沫が上がる。即座に剣を再構築するも、生成する端から砕かれた。
ほう、とベイルは小さく呟いた。ゾエの剣が、更に鋭さと速さを増している。それは、明らかに人の身に可能な領域を超えていた。紙のように白い面も、決して寒さの為だけではあるまい。
「称賛に値する」
防ぎきれない切っ先に身体を抉られながらも、ベイルは落ち着き払った声で言った。
「何?」
怪訝そうな表情を浮かべ、ゾエはベイルの前方――広く距離を取った雪原で足を止めた。
「この剣を、抜かせるのは、終戦以来、お前が初だ」
背筋が震え立つ。ベイルの右腕からは、匂い立つほどに濃密な魔力の気配が漂っていた。
やがて現れたのは、一振りの剣だった。月光を束ねて形を成したのような、艶めいて輝く片刃の白金の長剣。まさに優美と称されるに相応しい。だからこそ、ゾエは警戒した。美しい花に棘があるように、彼の剣もまた凶悪な性能を秘めているに違いない。
ゾエは残る魔力の全てを費やし、総身に強化を施した。過分な術式があちこちで肉体を崩壊させていることは分かっていたが、退却という選択肢など始めからありはしない。剣を握り直し、雷光にも似た速度で走り出す。限界以上に高めた走力と膂力、その双方をもってして、一撃のもとに首を刎ねる。背後ならば、反応する猶予もあるまい。必殺を期した一撃を振り翳し――
「何故」
口を突いて出たのは、またしても疑念だった。自分の速さについてこられるはずがないと、そう信じていた。
澄んだ音を立てて、手の中の剣が折れて砕ける。信じたくはなかったが、身体を袈裟懸けに走る灼熱の痛みは、否応なしに事実を突き付けた。
「私の、負けか」
認めない訳には、ゆかなかった。
真っ白な雪原に、鮮やかな赤が散る。仰向けに倒れるゾエを、ベイルは平坦な眼差しで見下ろしていた。
「何故、か。答えは単純だ」
応じる声は、既に平時の響きに戻っていた。
「遊びがなさ過ぎたな。お前は俺の剣を警戒し過ぎた。決着を期したなら尚のこと、より反撃を受けず、より致命となる個所を狙うに決まってる。読むのは難しくねえ」
「……成程、私の負けだ」
乾いた声でゾエが笑う。殺すがいい、と未だ冷徹な声が凛と告げた。ベイルは無防備にさらされた首筋へと、白金の剣先を突き付けながら、頷く。
「言われなくとも、そのつもりだ。――だが、その前に一つ確かめておくことがある」




