鬼哭奇譚・二
「さて、夕までいくらか時間があるな。観光には出られねえが、しばらく好きにしていていい」
「好きに、ですか」
「ああ。休むでも、ヒューゴやシェルのところに行くでも。状況に支障のねえ程度なら」
言いながら、ベイルさんは部屋の奥――ベッドの荷物の元へ向かう。鞄を開けて地図を仕舞い込むと、こちらへ背中を向けたまま、振り向くことなく続けた。
「俺はここで時間を潰してるから、何かあったら呼べ」
「私は、外に出ていた方がいい、んでしょうか」
「いや。この部屋にいたけりゃ、いればいい。ここはお前の部屋でもある。退屈だろうがな」
退屈、と鸚鵡返しに呟くと、ベイルさんは肩を竦めた。
「俺はシェルのように人がよくもねえし、ヒューゴのようにお喋りでもねえ。時間を潰す役には立たねえだろうよ」
「そんなことは、ないです」
気付けば、そんなことを言っていた。振り向いたベイルさんが目を細める。その眼差しに込められた感情は、やっぱり読み取れない。ただ、考えるより先に口に出すのは、いい加減止めようと心から思った。何を言ってるんだ私はというか、そんなこと言う予定じゃなかったんだけどというか、もうやけくそである。
「ええと――あの、前、うたを聞かせてくれましたよね。それでその、そうだ、お話を、聞きたいんです」
「話?」
「アルトが――ベイルさんの生まれた国が、どんなところだったのか、とか、他のこととか、あの、いろいろ」
勢いで言ってはみたものの、後に残ったのは何とも言えない沈黙だった。気絶でもしてしまいたい気分で言葉を待っていると、顔を振り向かせていたベイルさんが、身体ごとこっちを向いた。
「お前は、物好きだな」
聞こえたのは、呆れたような、驚いたような――今までに一度も聞いたことのない声だった。そして、かすかな笑みを浮かべて言う姿を目にした瞬間、訳が分からなくなった。
私は一体、どうしてしまったのだろう。何がどうしてこんな、何も言えなくなってしまうほど、動揺しているのか。
「前にも言ったが、アルトは山ばかりの国でな」
テーブルに戻ってきたベイルさんは、そう切り出した。動揺を押し殺し、どうにかこうにか相槌を打つ。
「かつては隣国のラクスと同じ王を頂く、一つの国だった。王の跡目争いで、山岳地帯がほとんどを占めるアルトと、湖を多く擁する平地のラクスとに分裂した――って話だが、実際はどうだったもんかな」
変な話だ。どうやって国ができたかという話なら、もっとはっきり伝わっているものなんじゃないだろうか。
「ま、それに関しては、今は脇に置いておくとしてだ」
それからベイルさんはアルトの国について、たくさんのことを話してくれた。話はどれも分かり易く面白くて、ひょっとしたらベイルさんは先生とかも向いているのかもしれない。
それにしても、ベイルさんの知識の豊富さときたら、経済や地理に始まって芸術や神話伝承、知らないことがないみたいだ。私が自分の生まれた国のことを同じように語れるかと言えば、全くもって無理だ。大人になったって、話せる気がしない。
「アルトにも、竜はいるんですよね?」
「神山と呼ばれる山に、黒竜の一族がな。族長を筆頭に、厳格な組織化がされてる。これは連中だけの特性だ」
特殊な生態を持つ、山に棲む黒竜……。
何かが、引っ掛かる気がした。胸騒ぎがする。けれど、騒いでいるのは本当に私だろうか。私の中の竜ではなく?
「――と、ここらで休憩にするか」
はっとして外を見てみれば、いつの間にか空が赤い。随分と長いこと話をしてもらってしまったようだ。
「すみません、長い間」
「いや。そろそろ夕飯の時間だな」
「あ、そうですね」
もっとも、夕食は部屋まで運んでもらえることになっているから、待つ以外にすることもないのだけれど。
「ベイルさんは、どこでそんなに勉強したんですか?」
「軍でな。諜報員として動くには、それなりに知識がいる」
「……情報を、得る為に?」
「味方以外の連中に取り入って、情報を奪う為に――だ」
直接的な物言いに、つい黙り込む。
戦えないのならば、とハーデさんに度々転属を提案されていただけに、その職務については知ってしまっている。戦うのが怖いくせに転属を了承しなかったのは、そちらの仕事も同じくらい、或いはそれ以上に恐ろしかったからだ。
「諜報員としては、長く、働かれたんですか」
「グナイゼナウ部隊は遊撃部隊であり、諜報部隊だった。つまるところ、便利に使われる何でも屋だな」
遠回しな言葉は、つまり肯定に他ならない。余計なことを訊いてしまったと後悔しても、今はもう全てが手遅れだ。ベイルさんの姿を直視していることができずに、視線を俯かせる。
「恨んでる奴は、それこそ星の数ほどいるだろうよ。利用するだけして捨てた女だとかの類は、特にな」
それでも、耳を塞がない限り声は届く。ぎくりと心臓が痛むように震えた。かつて〈ヒラソール〉で交わされた、ヒメナさんとの会話が耳に蘇る。
『仕事でも色々あったでしょ?』
『仕事に挟む私情はねえな』
『模範的すぎて殴りたいわ』
……そういう、ことなのだ。
ようやく、あの会話の真意が分かった。本当に、どうして私は訊いてしまったのだろう。ベイルさんも、どうして答えてくれたのだろう。好き好んで話したい話題であるはすがないのに。
「だから、言ったろう」
乾いた声が、放り投げるように言った。凪いだ海というより、何もない広野を思わせる声だった。躊躇った末に、顔を上げる。ベイルさんは、私を見ていなかった。
「俺は人がよくねえと」
「そんなことは――」
「あるさ。今でも一片の後悔も罪悪感も持ち合わせちゃいねえ。何度も言われた通り、『ひどい男』なんだろうよ」
淡々とした言葉の響く中、私は必死に言葉を探していた。何を言ったらいいのか、それすら分からないけれど。それでも、どうしても、何か言いたかったのだ。
でも、と切り出すと、深い藍色の双眸が、やっと私を見てくれた。
「それが、その時必要なことだと、最善だと、ベイルさんは考えたんですよね。私は事情をよく知りませんから、そのことに関して軽々しく評価してはいけないんじゃないかと、思うんです」
私はまだ子供で、悔しいけれど、ベイルさんのように上手は話せない。だから、せめて正面から向かい合おうと思った。
「非難するなら、同じ状況に立たされた時、もっと良い選択ができないといけないと思うんです。……私にはその自信がありませんから、その、偉そうなことは言ってはいけないと」
「綺麗事だな」
「かもしれません。でも、そういうものだって必要でしょう?」
「……或いは、な」
「それに、昔のことで今を判断するのは、何だか違うと思うんです。だって、今まで私が見てきたのは、ひどい人なんかじゃなくて、本当に優しい、人で」
そこまで口走って、我に返った。さっきから、私は何を言っているのだろうか。そもそも、どんな話だったっけこれ!
「全く、お前は無茶を言う」
空転する思考の中、聞こえてきたのは呆れたような声音。そう言われてしまうのは、何だか無性に切なかった。唇が曲がっていく。駄々をこねる子供のようだとは思っても、止められない。
「でも、本気です」
「知ってる」
返されるのはいつも通りの、平らかな声音。その上――
「面と向かって嘘を吐けるほど器用じゃねえだろう」
ぐっさりと、止めの一言が降って刺さる。
ひどく歯痒かった。伝えたいことがあるのに、上手く言葉にできない。言葉に出来ない思いは、どうやったら伝えることができるのだろう。……分からない。分からないことだらけだ。
「……失礼しました!」
そうして、私は何もかもから逃げ出した。
部屋を飛び出し、狭い廊下を転がるように走る。辿り着いた部屋の扉を、震える手で叩いた。
「どちらさんだ?」
「あの、すみません、わ、私です、直生」
「へ?」
きょとんとした風の声がして、ヒューゴさんが顔を出す。
「何か用事か――って、あー、その、何だ、どうした。そんな顔真っ赤にしてよ」
困った様子で、ヒューゴさんは頭を掻く。どうやら、私はそんな顔色をしているらしい。
「ヒューゴ? どうした」
部屋の中から、更に声が聞こえてくる。シェルさんもまだ六号室にいたようだ。ヒューゴさんは顔だけで振り返り、
「何でもねえよ! ――いや、何でもあるのか、こりゃ?」
「一人で何を言ってるんだ、お前は」
「うるせえな! それよりも、何だ、まあ、入れ、ほら」
「……すみません」
ヒューゴさんに促されて、部屋に足を踏み入れる。一人部屋の六号室は、二号室よりも少し狭かった。
「……どうしたんだ、ナオは?」
やっぱり、シェルさんも私を見て目を丸くした。
「それをこれから聞くんだよ。あー、ナオ、そこ座っていい」
示された部屋の中央のテーブルには、椅子が二つ用意されていた。一方にシェルさんが座り、もう一つは空いている。ヒューゴさんが座っていたのだろう。
「――でも」
「良いから、座っとけ」
重ねて言われたので、大人しく座らせてもらうことにした。ヒューゴさんはテーブルの脇に立つと、腕組みをして、
「で、まあなんつーか、非常に訊き難い訳だが」
「ベイルと喧嘩でもしたのか?」
「って、話に入んのはえーなオイ!」
「下手に引き延ばしても、ナオが困るだけだろう。訊かずにいた方がいいのなら、俺達は何も訊かんが」
どうだ、とシェルさんは優しい声で言ってくれる。首を横に振ってから、答えた。
「大丈夫、です」
「そうか。それで、どうした?」
「喧嘩ではないんですけど。その、どうすればいいのか、分からなくなってしまって。あんまり近付かない――ええと、馴れ馴れしくしない? 方が、良いんでしょうか」
シェルさんとヒューゴさんが顔を見合わせる。ぱちくりと瞬きをした後で、ヒューゴさんが厳しい顔で言った。
「何か言われたのか?」
「い、言われたんじゃなくて、その、私が不用意に昔のことを訊いてしまって」
「でも、あいつは答えたんだろ? だったら、何も問題はねえよ。あいつは昔のことについちゃ、誰に何を訊かれても答えねえ。なのに素直に答えたってんなら、そりゃお前はあいつの中で確かに特別なんだ。今更、気にするこたねえよ」
「……そう、でしょうか」
「あいつは何もかも話したか?」
「全部じゃ、ないと思います。いくつか曖昧なままで」
けれど、それらは全て同じものに繋がっているのかもしれない。山に棲む黒竜の一族、黒い竜を語る神話のうた。そして、ナタンさんとの一戦――その後でベイルさんが唯一言及を避けた事柄。……それだけじゃない、他にもある。
思い出せ。竜巻踊る戦いの夜。竜の因子が、祝福が、何を叫んだ。ナタンさんは誰を指して、何と言った。
ぱちり、ぱちり、歪なパズルのピースが嵌っていく。
「ヒューゴさんは、全てを知っていますか?」
「いんにゃ。傭兵は他人の事情に首を突っ込まねえ。訊かねえのが暗黙の了解だ。だから俺は訊かなかったし、訊きてえとも思わねえ。知りてえなら、訊くといいさ。あいつはお前になら答えるだろうぜ、きっとな」
はい、と頷く。混乱していた頭が、やっと落ち着いたような気がした。……お陰で、すっかり迷惑を掛けてしまったと、穴があったら入りたい気分にもなるのだけれど。ええい、それはともかく、シェルさんに確かめることもあるんだから。
「ところで、あの、シェルさん、粋蓮の状況はどうなっているんでしょうか」
「ん? ああ、どんな話し合いがあったのかは知らんが、突然王子が封鎖を解除してな。出入りが自由になった」
「そうですか。……良かった」
ハイレインさんが上手く動いてくれたと考えて良さそうだ。ほっと息を吐くと、シェルさんが小首を傾げて、
「良かった?」
「ええと、シェルさんは、アーディンのことは?」
「ヒューゴから聞いた。ハイレインの娘だろう」
「はい。彼女を通して、ハイレインさんに翠珠を抑えて欲しいと頼んでいたんです。それが上手くいったのかな、と」
「成程な。おそらく、そうだろう。そうでもなければ、あの強かな王家が粋蓮を開放する訳がない」
「どうりで夜中にこそこそしてた訳だ」
にやりと笑うヒューゴさんにつられて苦笑する。――と、扉を叩く音がした。立ち続けていたヒューゴさんが扉に向かい、応対をする。二言三言交わすと、こちらを振り向き、
「夕飯だと。エレンはどうするよ?」
「あ、戻ります。すみません、ご迷惑をお掛けしました」
「いや。何かあれば、また来ればいい」
「おう。気兼ねすんな」
ありがとうございます、と頭を下げて、六号室を後にする。不思議と、部屋へ向かう足は重くなかった。ただ、その扉を叩くには、少しだけ勇気が要った。なけなしの勇気を振り絞ってノックすると、尋ねる声もなく扉が開く。
「戻ってきたのか」
「も、戻りますよ! 戻らない訳、ないじゃないですか」
意外そうな声の一言に、つい答える声が尖った。
「そうかい。そりゃ悪かった」
相変わらず、ベイルさんは淡々とした風を崩さない。妙な敗北感を抱きながら、扉をくぐる。
「もうすぐ、夕食だそうです」
「どうりで、足音が幾つも行ったり来たりしてる」
魔術の気配はない。ということは、持ち前の感覚でそれを捉えているのだろうか。……本当に、恐れ入る。
「勘にすぎねえが、今夜辺りあの女は来るだろう」
「ゾエさん、ですよね」
「ああ。だから、常にも増して神経が尖ってる」
「なら、街を出た方が――」
「心配しねえでも、じき出るさ」
その割には随分とゆっくりしている。というか、ヒューゴさんとシェルさんには伝えてあるのだろうか。私は初耳だ。また頭がぐるぐる混乱しだす。
「俺が一人で出る。お前はヒューゴとシェルに事情を説明して、奴らと一緒にここにいろ」
その一言を聞いた瞬間、混乱した思考は完全に停止した。どうして、と問い掛けたつもりで、声になっていなかった。ぱくぱくと無意味に唇が開閉する。やっとのことで声を絞り出す。
「な、なんで、ですか」
「連中に質すことがある」
「……それは、私が聞かない方が良いこと、なんですか」
今度沈黙したのは、ベイルさんだった。短い沈黙の後に、「そうだ」とたった一言。それ以外には、何もなかった。説明も誤魔化しも、何も。私には、頷く以外の選択肢が残っていなかった。
「ヒューゴとシェルには、俺が出た後でお前の口から伝えろ。なるべく、すぐに戻る」
ただ黙って、もう一度頷き返す。
「それから、覚悟をしとけ。今まで殺さずに済ませられてきたのは、奇跡に近い」
今度こそ避けられない――そういうことなのだろう。
口の中で、ひどく苦い味がした。




