鬼哭奇譚・一
バドギオンとの国境の街、クヴィトルにはアーブルを発って六日目の午後に到着した。初日以降は追手に遭遇することもなく、旅は順調に進んでいる。
宿場町であるクヴィトルは、重厚な石造りの街だった。規模ではアランシオーネに勝るとも劣らない。けれど、季節柄か、通りを出歩く人は少なく、どこか物寂しい印象だった。
街並みを眺めていると、うなじを慣れた感覚が撫でた。覚えのある声が、その居場所を簡潔に告げる。
「直生、指定場所までの最短経路」
「ちょっと待ってください、もう少しで」
探査魔術によると、目的の気配は少し離れた北北東にあった。術式の精度を高めて街の構造を把握、最短ルートを割り出す。
目的の宿屋は、大通りから外れて十分ほど走った先、少し奥まったところにあった。ベイルさんが玄関の呼び鈴を鳴らすと、扉の脇の小窓から白髪のおばあさんが顔を出す。
「七号室のデール・ホワイトヘッドの知り合いだが」
「ああ、はいはい。聞いていますよ」
にっこりと頷いたおばあさんは宿の中を振り返って、
「エディ、ホワイトヘッドさんにお客と伝えて頂戴な!」
張り上げられた声に、若い男の人の声が「了解!」と叫び返す。おばあさんは私達へ向き直ると、
「お客さん達もお泊り?」
「ああ、一晩。空きはあるかい」
「ちょうど、二人部屋と一人部屋が空いていますよ」
「なら、それで頼む」
「承りました。それじゃ、ウェンテは裏に停めてくださいな」
ウェンテを停めて宿屋に戻ると、カウンターで宿帳への記帳を求められた。誰が言うともなく、ベイルさんが羽根ペンを取る。隣から首を伸ばして覗き見ると、整った教科書のお手本のような字が書かれていくのが見えた。その字は何となくベイルさんらしい気がして、少し面白かった。
宿帳には、グレッグ・ブレイン、レナード・クラフ、エレン・ラムレイの名前が書きこまれた。グレッグがヒューゴさんで、レナードがベイルさんだろう。二人部屋がエレンとレナードになっていたので、多分、そのはずだ。……多分。
「エレン、今の内なら訂正がきくが」
「あ、大丈夫です」
そうかい、とベイルさんはペンを置き、宿帳を差し出した。宿帳を受け取ったおばあさんは、目を細めて読み上げる。
「ラムレイさん、クラフさんが二人部屋。一人部屋にブレインさんですね。では、こちらの鍵をどうぞ。二人部屋が階段を上がって右の二号室、一人部屋が左の六号室ですよ」
おばあさんは食事や設備の説明をしてくれながら、カウンターの引き出しから二本の鍵を取り出した。ベイルさんが受け取り、一方をヒューゴさんに手渡す。おばあさんに会釈をして歩き出すと、行く手の階段から足音が聞こえてきた。
「お、デール、久しぶりだな!」
後ろを歩いていたヒューゴさんが、陽気な声を上げる。目を向けると、特徴的な角を頭に備えた大柄な獣人の男の人――シェルさんの姿が階段を下りてくるところだった。シェルさんは私達の傍まで来ると、表情を緩めてほのかに笑った。
「ああ、三人とも見たところ元気そうで何よりだ」
「そういうお前は、よく出てこれたな」
「その話もしなければならんが、とりあえず荷物を運ぶ方が先だろう。部屋は?」
「俺が六、エレンとレナードが二だ」
「分かった。エレン」
シェルさんが、何故か私に向かって手を差し出す。
「持つ。荷物を寄越してくれ」
「いえ、自分で――って、ベ、あいや、レナードさん!」
話聞いてください、と抗議するも空しく、背負った荷物はベイルさんの手で解かれ、放り投げられた。重たい鞄を軽々と片手で掴み、シェルさんは階段を上がっていく。無言でベイルさんもその後に続くので、仕方がない、大人しく追い駆けることにした。
階段を上がると、すぐに廊下は二手に分かれた。六号室へ向かうヒューゴさんと別れ、三人で通路を右に進む。
「そう言えば、エレン」
廊下を歩みながら、ふとシェルさんが私を振り返った。
「手紙を預かっていた」
「手紙? ですか?」
誰からだろう。商会の人――に手紙を出す用があるとも思えない。首を捻っていると、シェルさんは一通の封書を取り出した。受け取ってみれば、封書ではなく白い紙を折り畳んだだけの簡単なものだと分かる。どこにも署名や捺印はない。
「名乗る名はない、ただのくろいとりだと言っていたが……知り合いか?」
もう聞くことはないと思っていた名前がシェルさんの口から飛び出し、私は目を見開いた。
黒の帳亭の部屋は、どこか〈ヒラソール〉を彷彿とさせる内装をしていた。二つ並んだベッドの手前の方にベイルさんが自分の鞄を置き、その奥にシェルさんが私の鞄を置く。部屋の中央にはテーブルと椅子があったけれど、椅子は二脚しかない。荷物を部屋に置いてから再合流したヒューゴさんの「座っとけ」という言葉に甘えて、片方を使わせてもらうことにする。向かいにはベイルさんが座り、机には地図が広げられた。
「色々気になることも話すこともあるが、まずは今後の予定を詰めておく。大前提として、この街からアイオニオンに直接向かうには無理がある」
「そりゃそうだろうな。何せ遠い」
テーブルの脇に立って地図を見下ろすヒューゴさんが相槌を打ち、その隣のシェルさんもまた頷く。よって、とベイルさんは地図のアイオニオンとクヴィトルの中間地点を示した。都市を示すマークの上に「レグン」と綴られている。
「この辺りで一度補給が必要になる」
「レグンか……。かなり大きな街だとは聞いているが、よくは知らんな。ヒューゴ、知っているか?」
「ガキの頃何度か行っただけだ、詳しくはねえよ。そんでも東部一の大都市ってのは確かだ。追っ手が形振り構わなくなったら面倒だぜ。どれだけ被害が出るか想像もつかねえ」
「そいつは嬉しい話じゃねえな。レグンには五日程で着くはずだから、四日目で二手に別れるか。俺と直生は先を急ぐ。お前達はレグンで補給して、追い駆ける。それでどうだ」
「一人で大丈夫なのかよ?」
「大将が出て来なけりゃな。あいつだけは一人で仕留め切れるかどうか、自信がねえ。――が、お前達が合流するまでの時間稼ぎ程度なら、どうとでもするさ」
肩を竦めて、ベイルさんが言う。ハイレインさんですら一人では目的を果たすことができなかったのだから、当然の警戒なのだろう。何にしても、空恐ろしい話だ。
「……絶対だな?」
「何度も言わせるな」
「へいへい。なら、信じたかんな。シェル、決まりだ。俺達は成る丈早く補給を終えて、大急ぎで追っ駆ける」
「承知した。が、敵はそれほど強いのか?」
首を捻り、シェルさんが問う。……のだけれど、ベイルさんはヒューゴさんへと目を向けるだけで、何も言わない。ヒューゴさんの頬が引きつり――ああ、恐ろしい未来が目に浮かぶ。
「オイ、てめえ、もしかして」
「お前の仕事だ」
「またかよ!」
またしても、説明はヒューゴさんに任せる方針らしかった。
叫ぶヒューゴさんを意にも介さず、ベイルさんは地図を畳み始める。しばらくヒューゴさんは「何で俺が」とか「お前が訊かれたんだろ」と食い下がっていたけれど、ベイルさんの聞く耳持たぬ姿に諦めたか、やがて深い溜息を吐いた。……お疲れ様です。
「ちくしょーめ。……シェル、話ゃ俺の部屋でいいだろ」
「ああ。それにしても、ベイルとナオは随分親しくなったのだな」
何気ない風で発された一言に、どきりと心臓が蠢いた。特別な意味なんてない、ただの世間話だろう。そう思っても、妙に鼓動が早くなった。
「一月も一緒に行動してりゃ、仲良くもなるだろーよ」
「それもそうか」
頷くシェルさんは、ヒューゴさんの言葉で納得してくれたようだ。思わず、ほっと息を吐く。私が勝手に意識しているだけだとは分かっているけれど、誰を好きだ嫌いだの話題は苦手だ。
「そんじゃ、また明日な」
「ナオ、よく休むようにな」
そう言い残して、ヒューゴさんとシェルさんは連れ立って部屋を出て行った。ぱたん、と音を立てて扉が閉まり、人の減った部屋には沈黙が落ち――
「で、」
るかと思いきや、しばらく黙り通しだったベイルさんが、おもむろに口を開いた。
「くろいとりからの手紙は、どうした」
……あ。すっかり忘れてた。
ポケットに入れたままだった手紙を、慌てて引っ張り出す。
「――あれ?」
手紙を開くや、間抜けな声が口を突いて出た。どうしたものか困ってベイルさんへ目を向けると、無言で手が差し出される。見易いように広げてから、渡した。
白い便箋へ目を落とすと、ベイルさんは眉根を寄せた。その反応も当然だろう。何せ、白い紙にはただ一つ、黒い鳥のシルエットが描かれているだけなのだから。
「何かの魔術、でしょうか」
ベイルさんは便箋を眺めたまま、「ああ」と頷く。
「音声を転写してある」
そこまで聞いて、やっと思い出した。精神感応と同じ無属性情報系には、情報転写という魔術も存在する。玄鳥さんはその術で音声を絵にして、便箋に転写したのだろう。問題は、私はその解読ができないということなのだけれど。
「あの、私はできないんですけど、ベイルさん、解読は」
「できねえと思うのかい」
言うが早いか、手紙に魔力が込められる。ジジ、とノイズ音がしたかと思うと、聞き覚えのある声が流れ出した。
「くろいとりから、運び手のお嬢へ」
独特な言い回し。間違いない、玄鳥さんだ。
「これを聞いてるってことは、お嬢達も無事に山を抜けて国境に到達できたってェコトかと思いやす。まずはおめでとうございます、と言っておきやしょうかね」
「何が無事にだ」
ぼそりとベイルさんが呟く。その声は心なしか不機嫌そうで、思わず少し竦んだ。
「幸か不幸か、あっしの方が一足先に国境に着けたようで。立場上、手前の状況はお伝えできやせんが、〈鉄騎〉の旦那にこれを託せたことから、ある程度察して頂けるかと思いやす。全く、王子も分のない勝負に出たもんで……。まあ、何はともあれ、これで義理は果たしやした。あっしは仕事に戻りやす。恨み憎み呪い、どうされても結構。そもそもが敵同士にござい」
そこまで語ると、手紙はごく短い沈黙を挟んだ。
「――なんて言っておきながら、こう続けるのも阿呆でやすが。お嬢も旦那方も、どうぞご武運を。お嬢の旅に良き終わりが巡るよう、お祈りしてやす」
以上、転写終了。その一言をもって、今度こそ声は途切れた。
ほう、と震えた息を吐く。目頭が熱い。片腕を失わせてしまって、こんなことを思うのは失礼かもしれないけれど。でも、生きていてくれて良かったと、心の底から思った。
「ま、上出来か」
声に重なって、バチリと音がした。何事かと見れば、ベイルさんの手の中で玄鳥さんの手紙が黒い塵に変わっていた。
「後に残るようなものは、残さねえに越したことはねえ」
「あ……そう、ですよね」
掌の塵を払うと、ベイルさんは真っ向から私を見据えた。
「で? 竜との謀は上手くいったんだろう。そろそろ詳細を教えてもらいたいもんだが」
鋭い眼差しの前には、そもそも頷く以外の選択肢が用意されていないような気がした。……そろそろ、種明かしの時だろうか。
軽く深呼吸をしてから、説明を始める。
「翠珠の王家は今後の交渉の為にも、ハイレインさんの空蝉を引き留めるだろうと思ったんです。でも、空蝉は空蝉で、ハイレインさん自身が、アイオニオン――アーディンの傍にいることに変わりはありませんよね。そして、アーディンは私とハイレインさんとの間を行き来することができる」
「成程な。お前に自分のところまで無事に来て欲しいハイレインが、翠珠の勝手を喜ぶはずもねえ」
「はい。アーディンには、ハイレインさんに翠珠から追手が出ていることを伝えてもらったんです」
「その結果、竜に脅されて翠珠は大人しくなった、と」
「多分、そうなんだと思います。……まあ、これで追手が全く出なくなる、とまでは言いきれないんですけど」
「そりゃそうだ。王子が追撃停止の命を出したとしても、下僕が独断で『勝手に』出ることは十分に有り得る。王子がそう言い張ることもあるだろう。だが、大規模な襲撃は連中も控えざるを得ねえ。十分だ、よくやった」
「あ、ありがとうございます」
ストレートな言葉に、うっかりどもってしまった。これで少しは恩を返せたことになるだろうか。なれば、いいのだけれど。




