荊棘は潜む・六
肩を揺すられて目を覚ますと、辺りは明るくなっていた。ベイルさんは朝まで同じ体勢で寝てくれたようで、すみません、と謝ってその腕の中から抜け出したら、無言で頭を撫でられた。傍にいたヒューゴさんにも、また無言のまま抱きしめられて、朝から泣きそうになったけれど、何とか耐えた。
相変わらず気分は陰鬱なままだけれど、それでも旅は続いていく。アーブルの街は、聞いていた通りボワフォレ山から小一時間ほど走ったところにあった。アランシオーネより小さいものの、活気では勝るとも劣らない。この街での目的は補給だ。ハーヴィは一路、商業区――多くの街は行政・住宅・商業・学芸の四区、そして非公認の貧民街からなる――へと向かっていく。
「あれ?」
……と思っていたのに、ハーヴィが停止したのは小さな宿屋の前だった。ぽかんとする私を尻目に、ベイルさんとヒューゴさんは手早く打ち合わせを進めていく。
「じゃ、俺は買い物行ってくら」
ああ、とベイルさんが頷くと、ヒューゴさんはディーネを再発進させ、颯爽と人混みの中へ消えていった。その姿をちらとも見ず、ベイルさんは宿の呼び鈴を鳴らす。
はいよ、と軽快な声を上げて、宿の中から恰幅の良いおばさんが出てきた。その光景を眺めながら、私は首を捻った。ここで足を止めることに、一体何の意味があるのだろう。
「じゃあ、一晩だね。部屋は二つ」
「ああ」
結局、今夜はこの宿で一泊することになったらしく、気付けば私も簡素な一室に収まっていた。二つ並んだベッドの片方に腰を下ろし、どしんと背中から倒れ込む。
今までの野営を思えば、ベッドで寝られるだけで夢のようだ。柔らかい布団は、自然と眠気を誘う。それでもまだ目を閉じて突き付けられる暗闇が怖くて、微睡と半覚醒を繰り返していると、
「え?」
突然、視界が切り替わった。視界を塗り潰す、闇の色。
ベッドの上に寝ていたはずの身体まで、いつの間にか二本の足で立っている。ぎょっとして辺りを見回してみても、茫漠とした漆黒が広がっているばかりだ。
不意に、遠くでチカリと光るものが見えた。誘われるように足が動き出し、遠い光を目指して、ひたすら歩いていく。
十分、十五分……もっと歩いただろうか。やっと辿り着いた光の在り処――そこにあったのは、一本の樹だった。
どれほど永く生きてきたのか、見たこともないほど大きい。鬱蒼と生い茂る葉は淡く光っていて、樹の周囲だけが明るかった。
「うわあ……」
幻想的な景色に見惚れていると、光の中に女の人の姿が浮かび上がった。ふわりと舞い降りるそのひとには、見覚えがある。三色斑の髪、澄んだ水色の瞳――花降る街の、竜だった。
「ケラソス、さん?」
「ええ、名乗る機会は逸したままでしたね。改めて、私の名はケラソス。あなたの名前は何と、お嬢さん?」
「天沢直生です。ええと、直生と呼んで頂けたら」
「では、直生。小さな、弱き生き物のあなた。あなたは役目の最中にある。そうですね?」
問いかけに、浅く頷き返す。
「恐怖に竦み、喪失に惑う暇はありますか。あなたは自らの手でもって、その道を選び取った。進むと決めたのでしょう」
穏やかな水色の双眸が私を見据え、静かに言う。
ああ、そうだ。そうだったと、思い出す。引き返す道は初めからなくて、進む以外に願いを果たす術もない。
「身代わりを買って出たあの者も、同様です。同じ覚悟を抱いて戦いに臨んだ。その結果が如何であれ、全ては彼のもの。同情や謝罪はかえって侮辱となるでしょう。――そもそも、彼は自ら選んだ道について、あなたに責を負わせようとするでしょうか」
項垂れて、頭を振った。なんとなく、しないような気がしていた。だからこそ、申し訳ないと思う。――そう思うことが違うのなら、どうすればいいのだろう。
「感謝を。それだけで良いのではないかと、私は思います」
そういうものなのだろうか。とりあえず、分かったと答える代わりに頷いて見せる。ケラソスさんは淡く笑って頷き返すと、一転してどこか物憂げな風で続けた。
「迷うな、とは言いません。けれど、考えて。考え続けて。考えること、生きることを止めてはいけない。そして、どうか覚えていて。命を賭すことと、命を軽んじることは違うのです。それを間違えないで。あなたの命が誰かより軽いということは、決してないのですから」
告げられた言葉は真剣そのもので、今度ばかりはその真意を理解しきらないうちに頷いてはいけないと思った。固まる私に、ケラソスさんは困り顔で微笑む。
「私は、あなたが死んだら悲しみます。それはあなたの傍にいる者も同じでしょう。だから、あなたが自ら命を危険に晒すなら、平静ではいられない。故に、あの者はあなたを怒るのです。あなたも彼らが自らの命を軽んずるならば、怒りますね」
「はい……それは、確かに」
「それと、同じことなのです」
何となくだけれど、ようやく分かったような気がした。曖昧ながらも頷くと、ケラソスさんはにこりと笑った。
「それが分かれば、大丈夫。――お行きなさい、波乱の子。世界は厳しい。それでも、あなたは決して独りではないのです。どうか、それだけは忘れないで」
もう一度頷き返して、淡く光る大樹に背を向ける。今度は眩く煌めく光が見えた。その輝きに向かって、走り出す。
「あなたの身の上に、幸い多からんことを」
ありがとう、と囁いて光へと飛び込んだ。
水の中から浮上するような感覚。目を開けば、暗い天井が目に入った。寝ていたのだろうか。
不思議と軽い身体に首をひねりながら、壁の時計を見る。目を閉じてから、大体一時間くらい。そろそろ太陽も昇りきる頃だ。明け方は曇っていたけれど、少しは晴れただろうか。そんなことを思いながら、身体を起こす。
「……!?」
そして、頭を抱えたくなった。何というか、前にも今と同じことがあった気がする。ベッドに倒れ込んで泥のように眠ったと思ったら、起きた時にはきちんと布団の中に収まっていたという、どこの小人さんの仕業かという事態だ。
何とも情けない気分でベッドから這い出し、靴を履く。予想外に部屋の中は暖かかった。見回せば――ああ、成程、暖炉で赤々と炎が踊っている。
暖炉の傍らには、また覚えのある景色。簡素なテーブル、新聞を広げた背中。私が目を覚ましたことには気付いているだろうけれど、それでも何も言わないのは、新聞を読んでいるからか、怒っているからか。どちらでも自然な話だとは思う。情報収集は重要だし、まだ雪山での「話」も終わっていない。
深呼吸をしてから、足を動かす。テーブルを右から回り込んで空いている椅子に座ると、ベイルさんが鋭い眼差しを投げ――たのは、被害妄想かもしれないけれど。ともかく、頭を下げた。
「すみませんでした。前に怒られたことを、繰り返して」
「……分かったなら、いい」
重々しい溜息を吐いてから、ベイルさんは言った。溜息混じりではあるけれど、許してもらえたみたいだ。ほっと息を吐く。
「それで、調子は戻ったかい」
「戻った、と思います。玄鳥さんのことも、大丈夫――とは言えませんけど、少しは、整理できたので。たくさん、ご迷惑をお掛けしてしまって、すみません。ありがとうございました」
もう一度頭を下げると、きしりと椅子の軋む音がした。ベイルさんが背凭れに寄り掛かったのだろう。そのこと自体は別に何もおかしくないのに、何だか意外な感じがした。……私はベイルさんを何だと思っているのだろうか。
「あれだけの大魔術に干渉して、反動のねえ方がおかしい。昨日までは竜の目があって気を張ってたから持ったんだろうが――まあ、復調したなら何よりだ。予想より随分早く目覚めたな、エンディスかい。それとも、ケラソスか」
「ケラソスさんのお陰、だと思います」
会話をしただけだけれど、こんなに身体が軽いのだから、きっと何かしてくれたのだろう。本当に、私は助けてもらってばかりだ。早く、もっと強くならないと。迷惑を掛けないで、一人でちゃんとできるように。
「――お前が今、何を考えてるか当ててやろうか」
「え?」
「早く強くなって、自分の手だけでどうにかできるようになければ……そんなところだろう」
正解だった。返事に詰まると、ベイルさんは肩を竦めた。
「向上心があるのは結構。が、内に籠るのは減点」
「……すみません」
「不足分を他所で補うことも知るべきだ」
そうですね、と頷きかけて、はたと気付く。これは、そう容易に頷いていい話なのだろうか。停止した私の思考を見透かしたかのように、ベイルさんは短い間の後、続けた。
「お前は本当に、強情で無謀だからな」
やれやれ、とばかりの声音で言われて、がっくりと項垂れる。すみません、と繰り返すしかなかった。
「想定外の無茶をされて肝を潰すのは、もう御免蒙る。暴走する前に、まずは話せ。よほど馬鹿げたことでもなけりゃ、手を貸してやるから。その代わり、お前も俺の仕事を少しは気にしろ。俺がお前を守る、その邪魔をするな」
最初、何を言われたのか分からなかった。数拍の間の後、ぎょっとしてベイルさんを見ると、驚く私をいつも通りの静かな眼差しが見つめていた。
そもそも、私の行動を縛ること自体は容易なのだ。行動を制約する系統の術式だって存在するし、以前実際にベイルさんも使っていた。なのに、それをしないで、許して――
「ありがとう、ございます」
自然と、その言葉が零れた。ほう、とベイルさんが少しだけ笑いを帯びたトーンで相槌を打つ。
「また、お前は謝るかと思ったが」
「謝るのは、違うと思うんです。何度も親切を裏切って、迷惑を掛けて、本当に申し訳ないと思うんですけど、また繰り返さない自信も――すみません、なくて」
そこで一旦、言葉を切る。自分の中に渦巻く色んな思いを言葉にするのは、ひどく難しかった。
「だったら、謝ったらいけない。許してもらおうなんて思っちゃ駄目ですよね。分かってて、それでもやろうとしてるんだから。それに、私がこんななのに、見捨てないでくれて、その、ベイルさんは、とても優しい人ですね」
「買い被りだな」
「……何も即答しなくても」
事実だ、と素っ気なく言い、ベイルさんは続ける。
「俺がしてることは全部俺の勝手で、同時に仕事だ。そんな評価を受ける謂れはねえ。――が、我が儘を言うのはガキの特権で、時にゃそれに折れてやるのも大人の仕事ってもんだろうよ。ただし、俺が譲歩できるのは非戦闘員及び戦意喪失した者に限る」
それは構わねえな、と念押しをする眼差しに、頷き返す。そこが本当にギリギリのラインだ。それ以上なんて、望めない。
「なら、話は終わりだ。今後は、くれぐれも違えるなよ」
そう言って、ベイルさんは新聞を広げた。平静そのものの面持ちと涼やかな眼差しは、まるで何事もなかったかのようで、余りにも変わりがなさすぎて、つい確かめたくなる。
「でも、その、本当に良いんですか? 後悔したり」
「ほう、俺が嘘を言うと」
「そ、そんなことは」
「そんなことは?」
……な、何でこういう時に限って、絶妙に訊き返してくれるのかなあ! 面と向かって言うのは、妙に気恥かしい。
ああ、くそう。胸の奥で自棄っぱちに呟いて、吐き出す。
「全く、思って、ません、けれども!」
「そりゃどうも」
……。……何だろう、この敗北感……。
ゴホン。咳払いをして、無理矢理話を変える。
「とにかく、ありがとうございます」
ああ、と頷く姿はいつも通り泰然と。本当に凄い人だなあ、と心の底から思う。だからこそ、これ以上甘えてはいけない。
「きっと、このご恩はお返しします」
今言える言葉は、その程度。
「気にするな」
全く、敵わない。そんな風に、まるで何でもないように言われてしまったら。
その後、買い物から帰ってきたヒューゴさんも、自分だって疲れているはずなのに私を気遣ってくれて、本当に良い人達に巡り会えたのだとしみじみ実感した。




