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トランクィル・タワー【旧版】  作者: 奈木
第四章
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荊棘は潜む・五

「友が、失礼を致しました」

「構わぬ」

「寛容に、感謝を」

 頭を下げる。最初のハードルは越えた。大事なのは、ここからだ。慎重に言葉を選んで、紡ぐ。

「今の状況を語ることは簡単です。けれど、私は弱く愚かなヒトの子で、あなた方のように誇り高くはあれません。主観的な、私情を挟まずには語れないのです。もしその手間を惜しまないで頂けるのなら、どうか私に語らせないでください」

 生意気だと怒りを買うかもしれない、と恐れたのも一瞬。低く唸った彼女は「その殊勝は褒めるに能う」と、宙に手を掲げた。無事に意図は通じてくれたらしい。彼女の細い指先から迸る、冷え切った魔力の波が意識を浚っていく。

 短い沈黙の後、静かに彼女は口を開いた。

「確かに、汝に咎は存在せぬ。汝は我が父との約定の為、我が母の亡骸を届けに参る最中であるとな。されば、汝らを付け回す狗めが、真なる咎人かえ」

「……願いを異にするものであるのは、確かです」

「実に愚かなり」

 憎々しげに言うや、彼女の足元に一人の女性が現れた。

 物体、それも生物の強制転移。〈竜の寵児〉ほどの術者でやっと可能になる、大魔術だ。けれど、魔力を持つ全てのものは、同時に魔術への抵抗力を持つ。意に添わない魔術に逆らうことができるのだ。竜の爪を持つゾエさんは、〈竜の寵児〉に勝るとも劣らない抵抗力を持っているはず。だというのに、こうまでも容易く転移させる。空恐ろしくなる光景だった。

 血塗れのゾエさんが、苦々しげな顔で片膝をつく。白金の髪を揺らす彼女は、無言でその姿を睥睨した。

 ――刹那の、空白。

 幼い竜の秀麗な顔が、憤怒と憎悪に染め上げられる。気付いてしまったのだろう、ゾエさんが何を持っているのか。

「何と……我が母のみに飽き足らず、同胞までもを辱めしか!」

「それがどうした」

 激昂する彼女に、平然とゾエさんが切り返す。

 短い黒髪は血が凝って斑になり、痩せた顔は真っ青になっている。それでも、緑の双眸は持ち前の光を失っていなかった。竜と対峙して尚、鋼の意志を保ち続けている。〈鋼の騎士(スルーズ)〉と称えられる、その在り方のままに。

「痴れ者が、よくもぬけぬけと」

「雛は大人しく殻に籠っているがいい。貴様に用はない」

 そう言って、ゾエさんは新たな血痕を雪の上に散らしながら、立ち上がった。右手に剣を、左手に何か棒のようなものを持っている。それが何なのかは、よく見えない。

「そら、アンドラステ。お前に土産だ」

 血を吐き捨て、ゾエさんは左手に持っていたものを投げる。緩い放物線を描き、飛沫を散らしながら眼前に落ちてくる何か。どさりと雪の上に転がった、それは――

「捨て石にしては、上等だったな」

 ひ、と喉が鳴った。

 ――それは、ひとの、腕だった。

「てめえ――!!」

 ゾエさんの冷えた声も、ヒューゴさんの怒号も、耳を右から左に抜けていく。目の前に転がった「それ」が、瞼に焼き付いて消えない。何かを掴もうとしたのか、何かを掴んでいたのか。空を掻く指は、不揃いに硬直していた。

「は、っ……」

 自分の呼吸する音ばかりが、頭の中で反響している。なのに、少しも息ができている気がしない。苦しい。水の中にいるみたいに。眩暈がしてきた。頭も痛い。それなのに、雪の上の真紅だけが、鮮やかに、ああ、いやだ、こわい、みたくない――

「ヒューゴ、逸るな。今の目的はそれじゃねえ」

 視界が暗転。何が、どうして。分からない。思考は空転。ひゅうと喉が鳴る。

「分かってるよ!」

「あな憎し! 愚かしき咎人めが、その髪一筋すら残さず殄滅させて呉れん!」

 頭上を飛び交う声の中、左肩と左手に宿った温かさに気付く。尊い竜が、優しい魔祇が、確かに在れと叱咤する。その熱が、砕けかけた自分を辛うじて繋ぎ止めた。

「持ち直したか」

 視界に光が戻り、やっと掌で視界を塞がれていたことを理解する。ベイルさんは後ろを向いていた私の顔を元の位置へ戻すと、一際大きな声を張り上げた。

「ハイレインの娘、俺達は先に進む! 構わねえかい!」

「汝らの旅路、何故我が阻む。疾く進むが良い!」

 彼女が答えた瞬間、ベイルさんは停止していたハーヴィに魔力を注ぎ込み、強引に発進させた。周囲の景色が急速に動き出す。雪の晴れた夕空はどこまでも赤く、雪に埋もれた世界は血の雨でも降ったかのよう。馬鹿馬鹿しいと思いながらも、その妄想を振り払うことができず、私はただただ縮こまって震えていた。



 山を下りると、空はすっかり暗くなっていた。今夜は麓で野宿だという。一度でも振り返ってしまえば、二度と立ち上がれなくなるような気がして、私はがむしゃらに動き回って野営の準備をした。ベイルさんが指示を出し続けてくれたのも助かった。聡い人だから、全てを察してのことだったのかもしれない。

 そして、夜も更けた頃に再び彼女は現れた。

 焚き火の光を受けて幻想的に輝く豊かな白金の髪と、ひらひらした純白の衣装とが揃って、優雅に空から舞い降りる姿は天使のようだ。ただ、その天使の表情はどこまでも硬い。淡々とした視線を向けるベイルさんにも、目を丸くするヒューゴさんにも構わず、彼女はじっと私を見据えた。

「汝、名は何と。我が名はアーディン。父より賜いし名、特別に呼ぶことを許す」

「ありがとうございます。天沢直生と申します。直生、と」

「では、直生。汝、咎人の王を知るや? 咎人を庇い立て、我が爪より逃がし果せた輩が居やる!」

「……ここから遥か南西の国に、〈竜の頭〉と呼ばれるひとがいます。おそらく、その人でしょう」

「あな憎し。彼奴等を捨て置くことは、我と我が種の誇りが許さぬ。いずれ我が手で葬り去ってやろうが、直生。汝も、努々咎人の手に落ちる勿れ」

「……はい。もちろん、そのつもりです」

「良き答え哉。――嗚呼、父が呼ばわる。帰らねばならぬ」

 そう残すと、アーディンは姿を消した。陽炎のように、影も形もなく。

「……何だったんだ」

 しばらくの沈黙の後、呟いたのはヒューゴさんだった。

「空蝉、か? ありゃ」

さあな、とベイルさんが肩を竦める。

 空蝉は巨大な体躯を誇る竜が小さな生き物と接触する為に作りだす、端末のようなものだ。陽炎や蜃気楼とほとんど変わらない虚像。それにしては、少し妙な気配だった。だから、ベイルさんも肯定はしないのだろう。

「そーだ、これからの日程はどうなるよ」

「明日はアーブルの街に入る。その予定に変更はねえ」

「そっか。シェルが合流すりゃ、少しは心配も減るんだが」

 あーあ、とヒューゴさんが溜息を吐く。私はただ、黙ってその会話を聞いていた。必要以上に、集中をして。

「ああ、そうだ。ナオ、大丈夫か? 何か痛いとか困ったとか、ねえか」

 言外にゾエさんとの一件に関して問うているのだとは、その目を見て分かった。今は心配げに揺れる、炎にも似た明るい橙色の双眸。人柄そのもののように、温かく優しい色だ。

「大丈夫です」

 気遣わしげな顔のヒューゴさんにそう答えた時、私はきちんと笑えていただろうか。



 会話もない気まずい食事を終えると、私は逃げるようにテントへ入り込んだ。毛布をかぶって丸くなれば、疲労からかすぐに眠気がやってくる。うとうととし始めた頃、ひそやかな声で交わされる会話が意識の片隅に入り込んできた。

「……持ってきちまったが、腕、どうするよ」

「生きてても、探し出す気はねえだろうよ。死んでるなら、尚のこと埋めるなりしときゃいい」

「あからさまに埋める一択じゃねえかよオイ」

「あからさまも何も、どうでもいいからな。もう少し後腐れのねえように倒れりゃいいものを、嫌な終わり方をしやがって――何だ、その間抜け面は」

「いや、お前がんなこと言うたあ思わなかったもんで……じゃなくて、さりげなく間抜けとか言うなてめえ」

「事実だろうが」

「さよですかったくよう! で、見張りはどうするよ」

「立てるだけ無駄だ。代わりに、結界の作動範囲を広げておく」

 それきり会話は他愛ない雑談に変わったけれど、改めて残酷な現実が胸に刺さった。玄鳥さんは、少なくとも片腕を失う大怪我を負った。命を失っていても不思議ではない。じわりと胸に染み出す苦い感情を感じながら、意識は眠りの淵に沈んでいった。


 一面の暗闇。漆黒の世界に、ぼうっと細いシルエットが浮かび上がる。誰であるかは、すぐに分かった。ほんの短い時間のこととは言え、一緒に旅をしたのだから。

 名前を呼ぼうとした瞬間、その背中が大きく揺れた。肉を裂いて、骨を断つ生々しい音が響き渡る。赤い飛沫を散らし、数多の白刃が細身を貫いていた。

 ひゅうひゅうと掠れた呼吸が喉を焼く。見たくないのに、縫い止められたように目が動かせない。

銀色の刃が閃く。一際高く、紅色が弾け飛んだ。緩やかな弧を描いて、「それ」が宙を舞う。ごろりと落ちて転がった形は、未だ褪せることなく、鮮明に瞼に焼き付いている。

 ――硬直した五指。切断された腕。

 呆然と見下ろしていたその時、ひ、と喉が鳴った。闇に横たわる、血塗れの腕。それが独りでに転がり出したのだ。がりがりと怖気のする音を立てて、這いずってくる。逃げようして、足もまた動かないことに気付いた。怖気の走る感触が指先から甲へ、足首へ這い上り――

 カッ、と目が開いた。

 テントの内にこもった闇は、ランプに残された細い灯りで少しだけ淡い。暗闇でないことにほっとしながら、目だけを動かして辺りの様子を窺う。熱を発する魔道具の周囲に、私達は円を描くようにして寝ていた。斜向かいでは銀の毛並みがかすかに光っている。何も、おかしなところはない。

 ……夢。あれは、夢だったのだ。

 その事実を噛み締めると、緊張が解け、どっと全身が重くなった。どくどくと早鐘を打つ心臓がうるさい。

『ナオ』

 エンデが小さな声で呼んでくる。その声音に、少しだけ勇気付けられた。は、と無理矢理に詰まっていた息を吐く。

『ごめん、ね。いつまでも、』

『何を謝る! あんなもの、恐れ厭うて当然だ!』

『でも、それじゃあ、生きていけなかった』

 エンデが押し黙る。

 生き延びる為に、強くならないといけなかった。泣いている暇はなかったし、怯えている場合でもなかった。そんな感情は、徹底して排除するように教え込まれた。それを呑み込んで、生き長らえてきた――つもりだった、のに。

『でも、怖いよ。怖くて、どうしようもないよ』

『……とにかく、今は眠れ。明日も急ぐのだから』

『分かってる』

 分かっている。悪い夢なんて忘れて、さっさと寝ないといけないことなんて。何が恐ろしかろうと、それに振り回されて目的を見失ってはいけないことだって。

『目を閉じよ、ナオ』

『分かってるんだってば!!』

 それでも、同じ夢を見るのは恐ろしかった。あんな夢をこれから何度も見る羽目になるとして、果たしていつまで正気を保っていられるのだろう。それとも、もうとっくにおかしくなってしまっているのだろうか。

『……エンデ、私はまだ正気かな。おかしくなってないかな』

『何を馬鹿な! そのようなことが――何だ、精神感応か?』

 不意に施された術式は、確かにエンデの呟き通りだった。なのに、待ってみても響いてくる言葉はない。頭を突き合わせるように並んで寝ているのだから、すぐに様子は窺える。どうしたのだろう、と頭を動かそうとして、

「っ……!」

 自分のものではない魔力に包まれて、身体が硬直する。身動きもできずにいると、頭の後ろに大きな掌を感じた。その手に引き寄せられて、広い胸にこつりと頭が当たる。触れた額から穏やかな心音が伝わってくる頃になって、やっと緊張が解けた。

 ゆっくりと思考が回り出す。局所的な転移。単純なその答えに辿り着くのに、どれほどの時間を掛けてしまったのか。自嘲混じりの息を吐き出すと、頭から手が離れて、背中へ回された。毛布を掛け直してくれた手が、撫でるように優しく背中を叩く。

 それから。――うたが、聞こえた。知らないはずなのに、どこか懐かしい響き。ほのかな旋律。掌の添えられた背中から、少しずつ温かな何かが染み込んでくるよう。

不思議な気分だった。あれだけ目を閉じるのが怖かったのに、するすると落ちていく瞼が、今はもう少しも恐ろしくない。

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