荊棘は潜む・四
暗殺者だと言うけれど、玄鳥さんは極悪人だという訳ではないと思う。善い人ではないのかもしれないとしても、少なくとも自分の行動に責任持ち、正面から向き合っているように見えた。
だから、再出発から小半時が経ち、行く手の雪上に佇む人影を見つけた今、私は迷っていた。これから戦いに向かう人へ、本当は敵である人へ、どんな言葉を向けるべきなのか――。
「玄鳥さん」
戸惑いながら呼ぶと、肩越しに振り返った顔の口元には、左手の人差し指が当てられていた。子供にお喋りを止めるよう示すかのような、そんなおどけた仕草を見せて、ほのかに笑う。
「お三方、どうぞ武運を」
「おうよ、そっちもな」
ごく短いやりとりを交わし、隊列は二手に分かれた。行く手に佇む人影へ、玄鳥さんだけが突き進む。その意図など見透かしているということか、ゾエさんは玄鳥さんに一瞥もくれることなく、私達から視線を外さない。
「おっと、他所見はいけませんやね。どこのどなたさんだか知りやせんが、あっしの相手をしてもらわなくっちゃァ」
玄鳥さんの声が聞こえるや、ゾエさんの視界を遮るように雪煙が弾けた。壁のような白い幕は、完全にあちらとこちらを切り離す。未だ展開させたままの探査術式と、風に乗って聞こえる声だけが、彼岸の状況を知る手掛かりだった。
「お前も、傭兵か」
「いーえェ。あっしゃ、しがない暗殺者でさァ」
「暗殺者?」
「そちらさんの同類でやす。強権の尖兵、高貴の汚れ役」
「成程。何の因果であれを庇い立てするかは知らないが、邪魔をするのならば降すまで。名乗りは要るか、尖兵」
「名乗るに値する名なんぞ、持ち合わせちゃいませんで。ただの玄鳥と覚えて頂けりゃあ」
会話の終わりを待たず、二つの気配が衝突する。飛散した魔力は物理的な衝撃となって、ハーヴィを揺らした。
玄鳥さんと別れて、どれだけ経ったのか。いつの間にか、辺りは薄暗くなり始めていた。それでもまだ麓には到着せず、私達はひたすらに下り道を進み続けている。
これまず絶えず感じられていた、山頂付近で激突する二つの魔力。その散る気配が届いたのは、そんな頃のことだった。
「……負けたか、鳥は」
ベイルさんの呟きに、ぎくりと肩が跳ねる。胸の中に氷が落ちたようだった。
「直生、今は考えるな。気に病むのは後にしろ。この場を切り抜けたら、その後で泣き言でも何でも聞いてやる。――ヒューゴ」
「おう、分かってる。氷相手なら、それほど悪かねえ」
「頼む」
矢継ぎ早に下された指示に、落ち込む間もなく呆然とする。つまり、ヒューゴさんも玄鳥さんと同じ行動をとるということだ。思わず振り返ってヒューゴさんを見ると、
「そんな面すんなよ。お前にゃお前の、俺には俺の役目がある。それだけのことだ」
かすかに笑って、投げられる言葉。
そう言われてしまうと、私は何も言うことができなかった。既に一度「役目」に背いているだけ、余計に。
「奴が近付いてきたら、教えてくれ」
ただ、頷き返す。それからごく短い間、私達は無言で先を急ぎ――そして、その時がやってきた。
「ヒューゴさん」
「おう、どれくらいで追い付かれる?」
「この速さなら、五分も掛かりません」
「てこたあ、どうすっかな。下手に足を止めて、頭越しにお前らを狙われでも困る。ぎりぎりまで引き付けても良いか?」
「やり易いようにやれ」
おう、と応じたヒューゴさんの身体から、ぼうっと燃え盛る炎のような熱い魔力が漂う。私は言葉もなく、その炎が氷雪に消し去られないことを祈るばかりだった。
『私から、逃げられると思ったか』
感傷を切り裂いて、鋭い声が響く。前方で強烈な魔力反応。
目と鼻の先に、真っ白な壁が出現する。舌打ちをしたベイルさんが雷を撃ち、見事直撃――はしたものの、分厚い氷壁は罅割れて尚も倒れず、山道を塞ぎ続けていた。
「完全に捉えられたな」
ベイルさんが低く呟く。壁から落ちた破片が浮かび上がり、弾丸のように飛んでくる。ベイルさんは片端から雷で砕いていくけれど、数が多すぎて、今度は壁の破壊にまで手が回らない。
「ヒューゴ!」
「分かってる、ちょい待て!」
怒鳴り返す声に連なり、短く詠唱する声が続き――
「ナオ、頭下げろ!」
慌てて上体を折り畳む。頭上を灼熱が通り抜け、コートに降り積もった雪が音を立てて蒸発するのが聞こえた。一拍遅れて、轟音。ひそりと顔を上げれば、炎に巻かれた氷壁が倒れていく。
――けれど、探査術式には、更に剣呑な反応。
「上空に魔力反応、多数!」
叫びながら見上げれば、巨大な氷柱が浮遊していた。過たず進路上へ落下してくる氷柱を、ベイルさんもヒューゴさんも巧みに回避するものの、ウェンテは減速する一方だ。
「同じ轍は踏まねえ、ってか」
苦々しげにヒューゴさんが言う。ゾエさんは、もう足止めをさせる気もないのだろう。遠隔攻撃で歩みを遅らせて、足が止まった時にこそ止めを刺すべく仕掛けてくるに違いない。どうすればいいのか、どうするべきなのか……。
「焦るな」
ふと、静かな声が聞こえた。はっとして見上げれば、いつも通りの泰然とした横顔。
「玄鳥もあれで〈彩李〉、手傷の一つ二つは負わせてるだろう。向こうにもそう余裕があるとは思えねえ。いずれ奴も焦れる」
その言葉だけで嘘のように落ち着けてしまうのだから、不思議だ。はい、と声に出して頷くと、ベイルさんも小さく顎を引いて頷き返してくれるのが見えた。
「……お、止んだ」
ベイルさんの言葉通り、攻撃が止むまでそう長くは掛からなかった。とは言え、ゾエさんが標的をみすみす逃すはずがない。何か意図があるはずだ。神経を研ぎ澄ませて探っていると、
「ベ、ベイルさん!」
呼んだ声は、ほとんど悲鳴だった。後方から猛然と殺到する、嵐めいた魔力の奔流。再びの雪崩。その最前線からは、鞭のように凝縮された雪の帯が無数に伸び出していた。
「野郎、勝負を賭けてきやがったか!」
呻きながら、ヒューゴさんが追い縋る雪鞭を打ち払う。
「雪崩が――速いです、このままじゃ呑み込まれる!」
「ヒューゴ、小物に構うな!」
「つっても、無視して無事に済むもんでもねえだろ!」
苦戦しながらも、ハーヴィとディーネは速度を上げていく。それでも雪崩との距離は確実に縮まっていた。どうしよう、何とか……どうにかしなくっちゃ。
深く息を吸い、体内で魔力を循環、練り上げ
「直生」
「ヒィッ!」
たことを、本気で後悔した。
その声の低さと言ったら、まるで地獄の底から響いてきたかのよう。あんまりにも怖くって、思わず叫んでしまった。――っていうか、怒ってる、明らかにまた怒ってる……!
「返事は」
「は、ハイッ!」
「元気が良くて結構。だが、余り俺を怒らせるな」
「で、でも、」
「でもも何もねえ。俺はお前に頼らねえと、お前を守ることもできねえと思うのかい」
厳しい声で発された言葉に、びくりと肩が跳ねる。返す言葉もなく俯くと、頭の上にぼすりと何かが載せられた。上目に窺ってみれば、ベイルさんが左手を私の頭に置いている。そのまま、ぐりぐりと撫でられた。
「気持ちだけ有難くもらっとくから、大人しく座ってろ」
「う、あ……はい」
結局、押し切られてしまった。背後で盛大に噴き出すのが聞こえた気がしたけれど、多分きっと気のせいだと思いたい。
――と、現実逃避しかけていたら、一帯を強力な風属の術式が取り巻いていることに、今更気が付いた。その術式はウェンテを加速させながら、同時に雪崩を凍らせてもいた。雪の波は凍結を乗り越えて流れてくるものの、確実に進攻を遅らせている。
多分、今の心境を感嘆すると言うのだろう。あの大質量に干渉しながらウェンテも加速させるだなんて、本当にとんでもない。私なんて、雪崩に干渉するだけで気絶しそうだったのに。
『小賢しい!』
業を煮やしたのか、語気鋭くゾエさんが叫ぶ。迸る魔力で膨張した雪崩が、高波となって頭上から影を落とした。見上げた空は白く覆われている。ぞっと全身から血の気が引いた。
「……え?」
なのに、その白色は唐突に、嘘のように消失した。
「何とまあ、騒がしきことかや」
そして降り注ぐのは、鈴を転がすような子供の声。
誰もが空を仰いでいた。まるで時が止まったかのように、身動ぎもせずに、見上げていた。
彼女は緩やかに、雪の止んだ空から舞い降りる。
ゾエさんが繰る紛い物の気配は、すっかり彼女のそれに打ち消されていた。最早それは気配などではなく、彼の存在のみが持つことを許された、万象を屈服させる問答無用の力だ。雲を払い、雪崩を消し、生き物を戦慄させて止まない、絶対的な圧力。
彼女が「何」であるかなど、考えるまでもなく知れたこと。これほどまでに強大な生き物は、過去未来を通してただ一つ。
遥か遠き、高潔なるもの――その名を、竜という。
「実に面妖。汝、何故我が母を身の内に封ずるや?」
波打つ白金の髪を揺らし、雪上に降り立った彼女は大きな銀の瞳で私を見据えて問うた。軽やかな声音とは裏腹に、その言葉には虚偽を許さない烈しさが満ちている。
見かけは幼い少女ではあるものの、おそらく彼女こそが私が初めて見た真正の竜なのだ。駆け引きをする必要もなければ、言葉を乞う必要もない。その生命のままに在る、隔絶した生き物。
「この娘は、貴女が殺意を向けるべきものではない!」
俄かに、絹を裂くような声が響いた。身体の中から流れ出す、よく知った気配。
「この娘は貴女の母君と同じく、ヒトの下らぬ思惑に翻弄されているだけだ」
私を庇って彼女との間に立ちはだかり、両腕を広げて我が身を差し出さんとばかりにエンデは言った。ほう、と呟く彼女の双眸が、剣呑に細められる。
「蛇、我は汝に答えを求めておらぬ」
「エンデ、止めて!」
これでは、華歌での私と同じだ。あの時はハイレインさんだったから見逃してもらえた。たった一度限りの幸運だ。
左手の紋章に意識を集中する。申し訳ないけど、ここは無理やりにでも戻ってもらうしかない。その気配を察したのか、エンデが振り向く。驚き、何故と問う目顔。
「ありがとう、ごめん」
それだけを聞かせて、エンデを引き戻す。深呼吸をして、私を見据える彼女を見返した。
賽は投げられた。腹は括った、覚悟はした。




