荊棘は潜む・一
お祭りを堪能して〈ヒラソール〉へ戻ると、ヒューゴさんはもう到着していた。着飾った私とベイルさんを見たヒューゴさんは陽気に笑って、「似合ってんじゃねえか」と褒めてくれたけれど、ベイルさんに「馬子にも衣装」と言って鳩尾に拳を頂戴し、悶絶していた――のは、見なかったことにして。
とにかく、これで出発の準備は整った。ヒメナさんに衣装を返すると、私達は急いで三階の部屋へと向かった。
「――で? 今後の予定はどうなってんだ?」
部屋の中央のテーブルに地図を広げ、話し合いは始まる。
「旅に必要な荷物はテオドロに頼んで、二週間は持つように整えてもらった。補給はアーブルの街でする」
「となると、山越えか」
「ああ。今後は極力街を避けて最短距離を行かねえと、どれだけ被害が拡大するか分からねえ」
「敵――〈爪〉ってのは、そんなに強えのか?」
今一つ腑に落ちない様子で、ヒューゴさんは首を捻る。
「その気になれば、連中は街の一つ二つ片手間に滅ぼすさ。それだけの性能を持ってる。油断はするな」
「分かってら、いくらなんでもそこまで馬鹿じゃねえ」
「なら、結構。出発は明日の早朝だ、最初の目的地はボワフォレ山。俺と直生はハーヴィで出るが」
「んじゃ、俺は適当に並走するわ。ディーネがあるからな」
「分かった。――直生、次に出てくる奴の検討はつくかい」
「二人のうち、どちらが先に来るかは分かりませんけど、どんな人かなら。一人はゾエ・ミッテランという女の人で、剣が得意でした。でも、魔術も相当上手かったです。ただ、結氷系の人なので……だったら、雪が降り始めてから動きますよね」
氷に近しい雪は、特に結氷の術者にとっての好材料になる。ふむ、とベイルさんが浅く頷いた。
「大いに有り得るな。二人目は?」
「リオネル・ルジュヌという男の人で、属性は光。四人の中で、一番魔術を得意としていました」
「げ。こっちもこっちで雪が積もると面倒だなオイ」
「更に翠珠からも追手が出る見込みだ。千客万来だな」
重く溜息を吐きながら、話し合いを続ける。それが終わると、明日早くの出立に備えてか、早々にヒューゴさんは自室へ戻っていった。ヒューゴさんがいなくなり、静まり返った部屋の中で地図を片付けながら、ベイルさんがふと私を見た。
「そのミッテランとルジュヌとやらは、職務に忠実かい」
「……私が従わないと判断すれば、二人とも殺すのに躊躇いはないと思います」
ゾエさんは合理的かつ厳格な人で、極めて職務に忠実だ。躊躇ってくれることは、期待できそうにない。普段は物腰柔らかなリオネルさんも、行動はゾエさんと変わらないはずだ。誰よりもハーデさんに心酔していたのだから。
「そうかい。なら、気を引き締めていくとするか」
「……宜しく、お願いします」
椅子から立ち上がって、頭を下げる。下げた頭に、大きな手が載せられた。
「任せとけ」
静かに請け合う、揺るぎない声。きっと大丈夫だろうと、楽観してしまいたくなるような響きだった。
「道中、どうか気を付けて」
「ナオ、もう無理しちゃ駄目よ」
「が、頑張ります」
「信用できない返事ねえ……。ま、いいわ。あの服はとっておくから、またいらっしゃい。春にもお祭りがあるのよ」
「ありがとうございます。……嬉しいです」
短い別れの会話を交わし、まだ薄暗い時刻に私達はアランシオーネを発った。見送りはヒメナさんとテオドロさんの二人きり。子供達は起こさないようにと、お願いしておいた。
「子供連中には、本当に会わなくて良かったのかい」
「会っても、辛くなるだけですから」
ベイルさんとヒューゴさんの駆る二台のウェンテは、街道をまっすぐに北上していく。道沿いには、馬車の停留所が一定の間隔で設けられていた。施設の保全も領主の役目だそうで、竜巻の後でも壊れた風はなかった。
三つ目の停留所に差し掛かった頃、ヒューゴさんの持つ懐中時計が正午を刻んだ。せっかくなので停留所で昼食をとることにすると、私達の向かう方から馬車がやってきて、アランシオーネの方へと走り去って行った。
馬車を使った定期便は、街に定住する人々の貴重な移動手段なのだという。街から街へは何日もかかることが多いので、停留所は無人ながらも宿泊施設を兼ねているのだとか。そんな話をヒューゴさんから聞いていた時、
「そう言えば」
黙々と食事をしていたベイルさんが、不意に口を開いた。私とヒューゴさんは、揃ってベイルさんへと目を向ける。
「護符は渡せたのかい」
護符、ときょとんとした風でヒューゴさんが首を傾げた。ベイルさんは答えず、顎で私を示す。
「何だ、ナオ、何か用事があったのか?」
「ええと、その、あると言えばあると言いますか……」
何だそりゃ、と怪訝そうな顔をするヒューゴさんに曖昧な笑いを返しつつ、足元に置いていた鞄を開く。鞄の中でも一番上に置いていた、小さな包みを取り出すと、ベイルさんが目を細めた。
「渡し損ねたかい」
「あの、いえ、これは――」
もごもご呟いていると、ヒューゴさんがニヤニヤし始めるのが見えた。……恥ずかしい。どうして今朝の私は、なけなしの勇気を振り絞って渡してしまわなかったのだろう。タイムマシンがあるなら、今すぐ過去の自分を殴り倒しに行きたい。
「えーと、その……どうぞ」
テーブルの上に置き、向かいに座るベイルさんの前へ両手で押し出す。
「俺に?」
短い間の後に聞こえたのは、意外そうな声だった。
「め、迷惑でなければ」
「本当に、良いのかい」
「む、無理にとは、言いませんけれども」
どもりながら答えると、かさりと乾いた音がした。明後日の方向に背けていた視線を、ちらりと向けてみる。長い指が包みを拾い上げて包装を解き――中から出てくるのは、あの銀と碧の。
「へえ、随分と上等なもんだな」
「そうなんですか?」
「えらく純度の高い魔力が込められてる気がする」
ヒューゴさんと話していると、少しずつ緊張も和らいできた。ひっそり息を吐き出していると、
「直生」
静かに呼ぶ声。また全身が硬直する。
「は、はい! ……な、何でしょう」
「感謝を。有難く、受け取った」
どう致しまして、と更にどもりながら答える。隣でヒューゴさんがまた笑っていたけれど、今度は脳内編集で見なかったことにしておいた。
アランシオーネを発って一日目の夜は、昼間と同じように停留所を利用した。もう二日ほどすれば寒冷な地域に入り、草原ものっぺりとした砂地へ変わっていくらしい。
三日目を過ぎると、明らかに気温の低下が感じられるようになった。それでも用意した防寒具で十分に凌げる程度だったし、ニーノイエで受けた鍛錬のお陰で、硬い床に丸まって眠ることも苦にはならない。そもそも、夜の間中ベイルさんとヒューゴさんは交代で見張りを続けてくれているのだ。暢気に眠っていられる私が不満を言うなど、もっての外である。
そして、四日目。ついに整備された道は途切れ、行き来する足で踏み固められただけのものに変わった。停留所のような建物もないので、夕方は野営場所を探すことから始まり、諸々の準備に時間を取られる。自然と一日に進める距離は減っていった。
「ミスミからの追手は、追い付くと思うか」
夜になり、焚き火を囲んで夕食をとっていると、厳しい声でヒューゴさんが切り出した。
「追い付くだろうな」
対するベイルさんは、いつものように淡々と肯定する。
「粋蓮からアイオニオンに向かう経路自体、数が多くねえ」
「んで、ありったけ動員するとなりゃあ――追い付くか。王子と竜の交渉も、破談に終わりそうだって噂だぜ。ま、あっちだってニーノイエを襲う理由はあっても、ミスミに味方する理由はねえんだし。当然は当然だけどよ。王子の野郎は俺達の運ぶものを奪取して、取引っつか、脅迫する腹ってとこかね」
「だろうな。御偉方の考えそうなことだ」
「いつ追い付かれるやらなあ。誤魔化してやり過ごせるか、〈爪〉と潰し合ってくれりゃ最上なんだが」
「おそらく、追手は〈花禽〉だ。そう楽にはいかねえさ」
ベイルさんが肩を竦めて、会話は途切れた。沈黙の内に食事は終わり、そうなると後はもう寝るだけだ。空が白み始める頃には出発するのだから、早く寝ておくに越したことはない。
――のだけれども、
「寒くなってきましたねえ」
震えながら、テントに向かう。吐く息も白い。
魔術で編まれたテントの周囲には冷気や寒風を遮断する結界が張り巡らされ、内部には魔石を用いた暖房具も置かれていたけれど、それでも焚き火を離れると少し寒かった。
「……ヒューゴ」
「おう、そろそろだな。ナオ、ちょい顔出してみ」
呼ばれたので、毛布を身体に巻きつけてから、テントの入口から顔を出す。焚き火の傍にいたヒューゴさんが立ち上がり、テントの方に足を向けたかと思うと、
「うひぇ!?」
その姿が、消えた――のでは、なくて。一瞬で、まるで違うものに変わっていた。
「え? ええ?」
頭の中が疑問符で埋め尽くされる。この世界はどこまで私の常識を裏切ってくれるのだろう。信じられない、としか言いようがなかった。何しろ、ヒューゴさんが立っていた場所に今いるのは――紛れもない、犬なのだから。
「期待通りの、良い反応だな」
笑いを含んだ、よく知った声。何故か、発信源はその犬であるように聞こえた。
白銀の毛並みの、大きな犬。長い毛が焚き火できらきらと光っていて、つい見惚れてしまう。犬は軽やかな足取りでテントに近付いてくると、橙色の双眸で私を見上げた。
「俺は人獣族だ」
また、犬からヒューゴさんの声がする。
「人獣族は、人と獣の二つの姿を持つ種族でな。これも俺って訳だ。――つーことで、中に入れてくれや」
呆然としたまま、一歩退いて道を開ける。悠然とテントに入ってくるのは、やっぱり大きな犬で、犬以外の何物でもなかった。
……もう、これは認めてしまうしかなさそうだ。
「あ、暖かそうですね」
「おう。ヒトの格好の時よか、大分な」
「便利ですねえ」
まあな、と頷きつつ、ヒューゴさんはごろりと寝転がる。そして、もこもこした毛並みの前足で、私を手招きするのだった。もこもこに目を奪われた私は、またたびに釣られる猫宜しく、ヒューゴさんの隣ににじりよる。
「さ、触っても良いですか?」
「おう」
犬の姿になっても、ヒューゴさんであることに変わりはない。分かっていても、触らずにはいられなかった。そうっと手を伸ばして、背中に掌を乗せる。温かくて、柔らかな手触り。
「わー、もふもふですねえ。ぎゅーってしたいですねえ」
「さすがにそれは止めとけ。ほれ、暖房んなっててやるから、もっと寒くなる前に寝ちまいな」
「はい、ありがとうございます!」
柔らかな毛並に張り付いて、寝転がる。目を閉じると、すぐに睡魔はやってきた。




