花降る街・九
ベイルさんの見立て通り包帯の取れた四日目、この日はヒメナさんに誘われて、食堂でご飯を食べることになった。
カサノーバ家の子供は七人で、その内四人が女性だ。年が近いジョージナさんを筆頭によく話をするのだけれど、男兄弟三人とはほとんど関わりがない。一度だけ長男で同い年のコーディ君と喋ったけれど、それきりだ。人見知りなのかもしれない。
「そう言えば、ナオ、今日からは外出できるのよね?」
「あ、はい」
子供達のやり取りが騒がしい朝食の最中、右隣に座るジョージナさんが、口を開いた。サラダをつつく手を止めて頷くと、ジョージナさんは私を見てにっこりと笑い、
「それは良かったわ! 母さん、準備できてる?」
「当然じゃないの。この日の為に、抜かりはないわ」
ヒメナさんとジョージナさんが、いい笑顔で言葉を交わす。何となく、微妙に嫌な予感がするのは、一体どうしてだろう。
「あ、隊長の分も用意してあるから」
「……訊きたくねえが、何を、と訊くべきなんだろうな」
低く、重々しく問う声は左隣から。ちらりと見上げると、ベイルさんの眉間には、深々とした皺が刻まれていた。
「分かってるじゃない。今日は〈花降〉なのよ」
にんまり、ヒメナさんが明らかに何か企んでいる顔で笑う。ジョージナさんも同じ顔で笑っていた。なんかこわい。
「ええと、その、〈花降〉というのは」
「アランシオーネは、花降る街。その異名の所以たる行事よ」
「花が降るんですか? この季節に?」
「そうよお。祭りでは、初日に収穫したものをケラソスに奉納するしきたりがあるの。その返礼ってことね」
竜の力を持ってすれば、あの大樹に花を咲かせるのも朝飯前ということだろうか。でも、それが「用意」と何の関係が……?
「で? お前は何を企んでる」
「企んでるなんて、人聞きの悪い」
「あー……隊長、〈花降〉の日は、舞踏会が開かれるんです」
「――テオ!」
「話をこじらせても仕方ないだろ? まあ、実際には街中で音楽を流して、あちこちで踊るってだけなんですが」
「生憎と、俺も直生も、この国の文化には詳しくねえ」
「問題ないわよ。あっちこっちの国から楽師が呼ばれてるんだから。踊れる奴で踊れば良いわ」
それ以前に、私はこちらの世界のダンスを全く知らないんですけれども――と、言いたい。言えないけれど。
「それに、もう〈花降〉用の服用意しちゃったのよねえ。飛び入りの長期停泊を受け入れたんだから、これくらいの我が儘、聞いてもらっても良いと思うんだけど?」
「断らせる気なんざ端からねえくせに、よく言うな」
ベイルさんが溜息を吐くと、ヒメナさんはにっこりと満面の笑みを浮かべて見せた。してやったり、みたいな。
「仕方がねえ、直生、付き合ってやれ」
「や、その、でも――」
「あ、大丈夫よ? 着つけも化粧も、私がするから」
安心しなさい、とジョージナさんが胸を叩く。それ、全くフォローになっていないんですすみません。……ど、どうしよう!
「で? 踊るにしても、一人じゃ踊りようがねえだろう」
「何言ってんのよ、隊長の分も用意してあるって言ったでしょ。一人蚊帳の外にいようだなんて、許さないわよ」
「知るか。俺は盛装の類が嫌いだ」
「知ってるわよ。だから本格的にするつもりはないし、そもそもこの辺りで昔から着られてる衣装を着るだけだもの」
「戦闘の邪魔になるような服装は御免蒙る」
渋面のまま、ベイルさんはばっさりと切り捨てる。ヒメナさんは溜息を吐いて、肩をすくめた。
「本っ当に、強情ねえ。第一、ウチの子じゃまだエスコートは無理よ。隊長なら、ダンスだって無駄に色々知ってるでしょ?」
「無駄な知識はさっさと捨てる主義でな」
「ダンスが無駄だとは一言も言ってないわよ」
「有意義だという意見にも賛同しかねる」
またもベイルさんがきっぱり言い切ると、重苦しい沈黙が落ちた。二人して一歩も譲らないので、あれだけ騒がしかった子供達でさえ、口を噤んでしまっている。
ふと、ヒメナさんと目が合う。その瞬間、思わず全力で顔を逸らしてしまった。人の笑顔をこんなに怖いと思ったことはない。笑顔なのに、鬼も裸足で逃げ出すような、凄まじい眼光だった。
言外に告げられる指令はただ一つ――説得しろ。
いっそのこと、泣きたかった。私にそんな大仕事ができる訳がない。けれども、ヒメナさんのあの顔を見てしまった以上、何もしない訳にもいかない。涙を呑み、口を開く。
「……あの、ベイルさん。護衛をしてもらえるんですよね、お祭りに行く時も」
「そのつもりだが」
「だったら、ヒメナさんの言う通りにした方がいいんじゃないかな、と、思うのですけど。ほら、郷に入っては郷に従えって」
そこまで言って口を閉じると、再び沈黙が落ちた。これで説得になっただろうか。ちらり、ヒメナさんを見る。
「ほら、ナオだってそう言ってるのよ。いい加減諦めなさい」
にやりと笑ったヒメナさんが、更に一押し。短い間の後、ベイルさんは深い溜息を吐いた。拒絶の言葉は、もう無かった。
「うん、似合ってるわ! 凛々しくて、いい感じ」
姿見の前でジョージナさんに後ろから肩を叩かれ、私は引き攣った顔で笑った。鏡の中の着飾られた自分は、まるで別人のようだ。緑の結晶で花を形作った髪飾りから垂れる銀の鎖が視界の端にちらついて、どうも落ち着かない。
「もう少しで終わるから、ちょっとだけ辛抱ね」
ホヴォロニカは草原、遊牧の国だ。だからか、古くから着られているという伝統衣装は、社会科の資料集で見た、中央アジアの遊牧民族のそれによく似ていた。
白い簡素な上下にシャツやスカート、ひらひらとした裾の長い上着を重ね、帯で纏める造りで、ジョージナさんはその帯の折り目を整え、髪に挿したような細工物を挟んでいく。
「よし、これでいいわ。どう? あの人が藍と黒を基調にしているから、ナオは朱と黒にしてみたの」
そう言ってジョージナさんが示す上着には、黒地に朱色を基調にした、鮮やかな刺繍が施されている。袖口や襟元にも細かな刺繍が施されていて、何とも賑やかな服だった。
「刺繍が、綺麗ですね」
でしょ、と笑い、ジョージナさんは私の背中に回り込んだ。後ろから私の頭を掴み、逸らしていた顔を姿見に向けさせる。鏡に映り込んだ、頭のてっぺんからつま先まで装飾された自分が、目に飛び込んできた。……ああ、気まずい。
「私と母さんの見立てに間違いはなかったわ。かわいい!」
満面の笑顔で、ジョージナさんは言ってくれる。それがまたくすぐったくて、私は姿見から目を逸らした。
「あ、ありがとうございます……」
「照れない照れない! あ、それからこれ、靴ね!」
最後に衣装に合わせたブーツを借りて、ジョージナさんの部屋を後にした。三人の妹達は、とっくに街へ飛び出している。昼間は〈ヒラソール〉も閉店中だということもあり、三階の部屋までの道のりは静まり返っていた。階段を上がりきると、何やら部屋の方から声が聞こえてくる。足を止めて耳を澄ませてみると、ベイルさんとヒメナさんであるらしかった。まだ私から二人の姿が見えないように、私の到着も見えていないはずだ。踵を返し、話が聞こえないよう、そそくさと踊り場に下りる。
「――あなたは、どこまで無関心なの?」
なのに、すぐそこで話しているかのような、確かな響きを持って声は届いた。どうして、と目が見開く。
「どうして、自分の生きている、自分を取り巻く世界を、そこまで突き放していられるの」
「興味がねえからだろう。お前自身がそう言ったはずだ」
「そんな答えを聞きたいのじゃないわ。言葉遊びはいらない」
ヒメナさんの声には、隠しもしない苛立ちが滲んでいた。
「質問を変えるわ。一体、何が起きているの。何が起きたの。何が起ころうとしているの。ハーデは何をしたいの?」
「お前が知る必要はねえ」
「……どうしても教えてくれないのね。じゃあ、最後に一つ聞かせて。あの子、ナオは何? あなたがここまで気にかける、最初の存在。それが何の意味も持っていないはずはないでしょう」
「それで?」
「打算があるだけでなければ良いと、そう思うだけよ。……人も獣も、魔でさえも群れるの。竜だって、永久に孤独ではいられない。――あなただって、きっとそうだわ。そうでしょう?」
ヒメナさんの声には懇願するような響きがあった。それでも、ベイルさんの答えはない。ヒメナさんは溜息を吐いて、
「あの子が、あなたにそう思わせてくれることを祈るわ」
嘆くように呟いた。そして、よく響く声で付け足す。
「ナオ、出てらっしゃい」
分かってはいたけれど、やっぱり気付かれていたみたいだ。そろりと階段を上がり、廊下を歩む。部屋の前にはヒメナさんとベイルさんがいた。ヒメナさんは苦笑を浮かべて、言う。
「ごめんなさいね、気を遣わせちゃって」
「いえ、こちらこそ……お邪魔を」
「謝らないで。その気遣いを、私は無下にしたのだもの。勝手だけれど……聞いておいて欲しかったのよ」
そこで言葉を切ると、「それはさて置き」とヒメナさんは私を正面から凝視した。その視線の強さにたじろいでいると、短い沈黙の後、満面の笑顔が向けられる。
「うん、似合ってるわ! かわいいわよ」
嬉しくない訳ではないのだけれど、褒められることには、いつになっても慣れることができない。つい、口篭る。
「ジョージナさんのお陰です。手際がよくて、凄かったです」
「でしょう? 何たって、私の娘だもの」
そう言って笑うヒメナさんは、今までで一番綺麗だった。
屈託なく自分の子供を誇る母親の姿はとても美しく、何よりも羨ましかった。それは過ぎ去った時間のいつか、私が心から欲したものであり、結局手に入れられなかったものだ。
「支度が済んだなら、出るぞ」
おもむろに淡々とした声が言い、胸の中の小さな棘が刺さったような、かすかな痛みから意識が逸れる。確かに、そうだ。
これほど綺麗に着つけてもらえたのだから、沈んでなんていられない。早くお祭りを楽しみに行こう。強張った頬を無理矢理に動かし、「はい」と頷いて笑う。そのまま、階段へ歩き――
「ちょっと、隊長、その前に言うことがあるでしょう?」
だそうとすると、何故かヒメナさんが私の肩を掴んだ。怒ったような声で言いながら、私をベイルさんの前に引きずり動かす。
ベイルさんはいつも通りの平然とした表情で私を見、そして、眉間に皺を寄せてヒメナさんを見た。
「お前は昔からお節介だな」
「どういたしまして」
つっけんどんな答えに、ベイルさんが肩をすくめる。逆らうのを諦めたようだった。その視線を私へ向けるや、
「俺は女の服装に興味はねえが、まあ、その格好がこれきりなのは、いくらか惜しいんじゃねえかとは思うな」
実に、まったくもって平坦な口調で、そう言ったのだった。
『何とも婉曲なことよなあ』
エンデが笑う。その軽口に言い返す余裕すら、なかった。ぽかんと口か開く一方で、妙に心臓がドキドキと騒いでいる。更にどうしたことか、ヒメナさんまで完全に沈黙していた。
「隊長、手紙ですー!」
階下から響いた声が、重い沈黙を破った。先に行ってる、と残し、ベイルさんが音もなく歩き出す。すぐ近くを通り過ぎる背中を首を捻って見送ると、今更に服装の変化に気がついた。
ジョージナさんの言っていた通り、それは黒と藍を基調にしていた。基本的な形は同じはずなのに、ひらひらした印象はなく、全く違うもののように思える。ベイルさんが、すっと背筋を伸ばして歩くからかもしれない。それにしても、
(格好いいなあ――)
――って、ちょっと待て、今何考えた私!?
自分の思考に、自分で驚く。ちょっと動揺もした。エンデが爆笑している気配が伝わってきても、何一つ言い返せない。
「びっくりした」
不意に、心底驚いたという風でヒメナさんが呟いた。その声が意外で、動揺も忘れて問い掛ける。
「そんなに驚くようなことだったんですか?」
にやりと、ヒメナさんが不穏な笑みを浮かべた。
「あのね、隊長って今まで誰がどんなに言っても、人の服装とかそういうものに自分の感想、言ったことないのよ」
「全く、なんですか?」
「ええ、全く。それが、驚いたわー。だったら、素直に似合うとか言えばいいのに。回りくどい言い方しなくったってねえ」
私は、その言葉には答えることができなかった。何と答えればいいのか、分からなかったのだ。




