花降る街・六
「だが、奴の言葉にも一理ある。手加減をしてお前が傷つくようじゃ、元も子もねえだろう」
敢えて婉曲に言ってくれたのだろう、その真意は分かる。けれど、頷くことはできなかった。
すみません、と何度目とも知れない謝罪を繰り返す。ベイルさんは、もう何も言わなかった。殺す覚悟もないのに、剣を手放すこともできない。馬鹿みたいな話だ。
遠くで、手当てを終えたらしいエジードさんが、短剣を左手に持ち直すのが見える。エジードさんは左手でも利き手同様に剣を扱う。それでも利き腕を封じたのは、確かな有利だろう。
軽く深呼吸をして、刀を握り直す。同時に胴に回っていた手が離れ、間近にあった気配が離れていく。その間際、
「まあ、いい。骨は拾ってやる」
ぽん、と背中を叩いて、耳に馴染む低い声が囁いた。目が見開く。左腕の傷も痛みが消えていた。治してくれたのだろう。
ありがとうございます、と困惑混じりの呟きを返す。何というか、困ってしまう。甘やかし過ぎじゃないだろうか。
「礼を言うなら、勝て」
正論を残して、ベイルさんは再び風の中を走り出す。左腕で宙を掴み、何かを投げる動作をすると、その軌道上――並び立つナタンさんとエジードさんの間で、砂塵が舞い上がった。地面を大きく抉る剣、その着弾の寸前にそれぞれ回避行動を取った二人の距離は、一瞬前とは打って変わり、遠く離れていた。
本当に、助けてもらってばかりだ。これ以上足を引っ張る訳にはいかない。脚力を強化し直し、一息にエジードさんへ接近。
「――明かされざる秘は無く」
紡ぐは、神秘を象徴する一文字。
両眼に魔力を集中させ、エジードさんの纏う呪いを透かし見る。やっぱり、傷を受けた肩から綻びが発生していた。
「巡り流るるもの、凱歌を揚げよ」
刀には、五つのルーンが刻まれている。その中から二つ、水と戦いを象徴する文字を選んで、魔力を流し込む。術式を構築する間に、間合いは歩数で数えられるほどに縮んだ。刀を振り抜く。
限界まで充填された魔力が逆巻く水の渦となって迸り、殺到。エジードさんは障壁を生成して防御するものの、大渦は防壁を破砕し、過たず右肩に命中。着弾の衝撃で足をもつれさせた隙に、その懐へ踏み込み、右脇へと刀を打ち込んだ。
「まだ峰打ちかよ……!」
辛うじて刀を受け止めたエジードさんが、忌々しげに言う。交差した刀と短剣が、カチカチと音を立てて震えていた。
完全に拮抗した、鍔迫り合い。押し負けぬよう、両脚で強く地面を踏みしめ、刀に魔力を回す。魔力に呼応した刀のルーンが、飛躍的に膂力を膨張させる。
「どこまで甘ったれてんだ、お前は!」
「――勁き雄牛の如く!」
怒号に答える代わりに、叫んで刀を振り抜いた。短剣の刃が砕け散り、刀の峰がエジードさんの脇腹を直撃する。
痛みか驚きか、頭上で息を呑む気配がした。それに意識を払う間もなく、足元で影が渦巻く。ゆらりと立ち昇る輪郭は、まさしく蛇そのものだ。
大きく跳び退り、一斉に放射された影から逃れるものの、数が多すぎた。刀で捌ききれない切っ先があちこちを掠め、鋭い痛みが走る。一度間合いの外に出ようかと思案した瞬間、身体のバランスが崩れた。右足が何かに掴まれ、引き倒される。慌てて目を向ければ、足首から脛へ、黒い線が巻きついていた。
「――しまった!」
多くの影が正面からの刺突を繰り返す一方で、地を這い、密やかに接近していたものがあったのだ。右足に絡む影を振り払おうにも、物が物だけに埒が明かない。
頭上を振り仰げば、かつての槍衾の再現。冷や汗が頬を滴り落ちる。その時、うなじが震え、頭の中に声が響いた。
『呆けてねえで、立って走れ。援護してやる』
言葉の余韻が消えるより早く、頭上で雷鳴が轟いた。真っ白い光が、草原を照らし出す。影が蒸発し、右足が解放された。立ち上がり、雷光が踊る草地をまっすぐに走り抜ける。
行く手を塞ぐ影は、雷光が悉く散らしてしまった。最後の一歩を大きく踏み込み、一足飛びに懐へ。先の胴への一撃で、確実に肋骨の二、三本は折れているはずだ。雷光に照らされたエジードさんの顔は、紙のように白かった。
左手を刀から離し、右手で刀を握ったまま、拳を作る。至近距離から突き出した拳に、抵抗はなく。
――ただ、ひたすらに重い手応えだけがあった。
アンドラステ、と掠れた声が間近で呼んだ。
「……じゃねえ、ナオ、だったっけ。本当、お前、甘いのな」
そうですね、と頷く。私はどこまでも臆病だ。怖いから目を逸らして逃げて、許して欲しいと甘えている。
拳を引くと、エジードさんの身体がふらりと泳いだ。少し迷った後で、刀を持ったまま抱き止める。
「俺は、お前を殺そうと思った」
ぽつりと呟きが落ちた。げほ、と苦しげな咳。
「それが情けだと思った。俺達が鍛えて、お前は強くなった。けど、それは苦しみを長引かせるだけ、だろ。遅かれ早かれ、お前は竜騎兵に戻る。逃げるなんて、無理だ。あの人が、逃さねえ。だったら、ここで、死んどいた方が、マシだろ、って」
「……なら、どうして精神干渉、使わなかったんですか」
精神汚染とも言われるそれは、暗示をかけ、幻覚を見せる類の術式だ。上位の術式になると、洗脳すら可能になる。
私は特にその手の魔術に弱くて、それをこの人が知らない訳もない。この人達こそが、私に戦いを教えたのだから。
「最初は、お前を道具だと思った。思おうとした」
けれど、返ってきたのは、脈絡のない言葉。
「俺達と同じように、使い潰されるものだと。――けど、無理だった。どうしても、できなかった」
エジードさんは、五年前――十七歳の頃に、竜騎兵としての素質を見出され、時計技師から軍人に転身したのだという。決断の理由は、稼ぎ頭であった父親を亡くし、困窮した家族の為だったそうだ。引き換えに、家族の保護――生活の保障を求めた。
その点で言えば、ニーノイエで周囲にいた誰よりも、私の立場に近い人ではあったのだと思う。他は皆、自分の意思で軍に入ることを選んだ、叩き上げの職業軍人だった。
「お前は俺達と違って、自分で選ぶこともできなかった。俺達がさせなかった。いつからか、それが、すげえ後ろめたかった」
静かに語る声が、また咳き込む。
「お前を殺さなくちゃならねえと、思ってたよ。それしか、お前の為にできること、思いつかなかったから。でも、できるなら、生きて、逃げ延びて欲しいとも、思ってたんだ」
語る声は、震えていた。結局、やさしいのだ、この人も。
胸に渦巻く感情を、唇を噛んで呑み下す。そうしなければ、何かが折れてしまいそうな気がした。
「俺が知ってるお前は、いつも、張り詰めてた。ずっと、我慢して、耐えてた。だから、この前お前を見て、驚いたんだ。比べ物にならねえくらい、気の抜けた顔しててさ」
「……それは、どうも」
つい、声が尖った。怒んなよ、と笑われ、更に唇が曲がる。
「俺は、嬉しかったんだ。これが、ほんとの、お前なんだって、最後に知れて。……でも、それを知ったから、もう、俺はお前を殺せなくなった。殺したく、なくなっちまった」
「そう言う割には、容赦なかったじゃないですか」
再会早々に見せられた幻覚のお陰で、こっちは丸一日苦しむことになったと言うのに。
「それで、憎んで、吹っ切れて、火が点けばいいと思ったんだ。殺さねえように戦うのは、ただ殺すより、遥かに難しい」
知ってるだろ、と囁く声に、言葉もなく頷く。
「その枷を解いたら、ひょっとして、あの人から逃げ果せることも、できんじゃねーか、ってさ。その為に――お前の為になら、それくらい、してやってもいいと思った」
それはつまり、私に殺されようとしていたということだ。
どうして、と呟く声が掠れて歪む。なんで、そんなこと。
「だって、なあ……怨んでる、だろ?」
泣いているような、声だった。ぐっと言葉に詰まる。
「迷惑だろーけど、俺にできること、もう、それくらいしかねえし。ほんとに、さ。お前とは、もっと違う形で出会いたかったんだ。言うだけ野暮、かもしんねーけど」
その言葉への答えなど、私は持ち合わせていなかった。黙っていると、ああ、とエジードさんが嘆息する。
「最後まで、悪役面、できりゃよかったんだけど」
ごめんな――。最後にそう残し、声は途切れた。抱いた身体が重みを増す。頬を伝う感触は分かっていたけれど、無視した。組み上げた術式を発動し、意識を失った身体を拘束にかかる。
「話は、終えたか」
不意に吹きつけた突風が、エジードさんの短剣を空へ舞い上げる。はっとして見上げれば、予想外に近い空中に、ナタンさんが立っていた。ナタンさんは柄だけになった短剣を掴み取り、
「エジードも、甘い」
未だ憂いの消えない顔で、言う。
その途端、覚えのある魔力が漂いだした。身構える間もなくエジードさんの身体が消え、術式が私へ矛先を向ける。しまった、と思っても遅い。転移術式独特の圧迫感に、吐き気がした。
『否、それはさせぬ』
鋭い一声。エンデの魔力が爆ぜ、圧迫感が消える。
『呆けるな、粗忽者! 上だ!』
ほっと肩の力を抜いた瞬間、エンデが叫んだ。顔を上げれば、月を背にサーベルを振りかぶるシルエット。
切っ先に渦巻く暴風が振り下ろされる。全速力で逃げても、皮膚を裂く強烈な風に身体が軋んだ。激しい痛みに思わず足が止まりかけた時、目の前に立ち塞がる影があった。
影は構えた剣を一閃する。それだけで、風は消え去った。呻きながら膝に手をつき、全身を焼く痛みに耐える。
「すみません、何度も……」
「それは俺の台詞だ。遅れて、悪かった」
顔を上げると、苦々しげに言う背中は、あちこちが焼け焦げていた。その痕跡に残る気配は、紛れもなく――
「ハーデさん、ですか」
「ああ、足止めを食らった。言い訳にするつもりはねえが、ありゃハイレインが手を焼くのも無理はねえな。いつの間に、あれだけの力を得たんだか」
竜ですら、手を焼く。つまり、ハーデさんはこの世界の頂点に坐すものに匹敵するのだ。正直、ぞっとする。
「だからこそ、多少邪魔をした程度で退く理由が掴めねえがな」
その理由は、とベイルさんは上空へ声を投げる。
「答える義理はない」
「だろうな。それで、一人で二つを操る腹かい」
「目的を果たす為ならば」
ナタンさんが答えるや、猛然と竜の魔力が迸った。手で触れられそうな密度のそれが、辺りへ拡散していく。




