鏑矢は放たれた・十一
買い物を終えて〈ヒラソール〉に戻ると、午後三時を過ぎ、四時近くなっていた。開店準備に追われるヒメナさんやテオドロさんに挨拶をしつつ、三階の客室に向かう。そうして部屋に到着するなり、ベイルさんが「エンディス」と呼んだ。
「俺は少し外に出てくる。時間を掛けずに戻るつもりだが、どうなるかは分からねえ。その間、直生を任せて構わねえかい」
『ナオを同行させれば済むのではないのか?』
「連れていっても、延々無為に立ちっぱなしになるだけだ」
『それは確かに酷な話よの。あい分かった、護衛の一時代理を引き受けよう。早くに戻れよ』
「そのつもりだ」
エンデにそう答え、ベイルさんは私を真正面から見た。
「悪いな」
「だ、大丈夫です。気をつけて行ってきてください。……部屋からは、出ない方がいいですよね?」
「ああ。窮屈だろうが、そうしてくれ。念の為、いくつか結界を張っておくが、部屋の外に出られちゃ意味がねえからな」
分かりました、と頷いてみせると、ベイルさんは手早く結界を張り巡らせた後、部屋を出て行った。廊下を歩むかすかな足音は徐々に遠ざかり、やがて完全に消えてしまう。
心細い気がするのは気のせいだと思うことにして、手持無沙汰を紛らわせる為にテーブルへ向かってみると、ベイルさんが昼間読んでいた新聞が残っていた。手に取って、広げてみる。
『スィレン島襲撃――ニーノイエ国軍の威嚇攻撃か』
エンデが読み上げる。新聞の表一面には、そんな煽り文句が大きな文字で綴られていた。見出しの下の文字を読み進める。
今の粋蓮島は、完全な封鎖状態らしい。襲撃の被害が激しく、危険だからだと書いてあるけれど、私が見てきた限りでは、そこまでひどくはなかった気がする。
『方便だな。権力者から圧力でも掛かったのだろうさ。ベイルの外出も、或いはその件に関連してのことやも知れぬぞ』
「そっか、連絡を取りに行ったのかも。残りの二人と」
『ああ、シェルとヒューゴとか言ったあれか』
「うん。……ベイルさんは、自分一人で護衛を続けるのは危ないと思ってるんだと思う。ハイレインさんだって手を焼く相手なんだから、当然の心配だけど」
『確かにな。私とてあれに立ち向かうとなれば、策を弄する。真っ向から力勝負をするのは下策だ』
露骨に嫌そうな声には、しみじみとした実感。
「そう言えば、エンデは私のこと、よく知ってるんだよね?」
『ああ、今朝の鍛錬の最中の話を聞けていたのだな?』
「何とか。私、ニーノイエでどんなことしてたの?」
軽く投げてみた質問には、予想に反して重苦しい沈黙だけが返された。さすがにちょっと、動揺する。
「エ、エンデ? 何、もしかして言えないようなこと?」
エンデ、ともう一度名前を呼ぶと、やっと語りだした。ひどく苦々しげな、渋い声ではあったけれど。
『私は、そなたにあの半年――ニーノイエでの記憶を、失ったままでいて欲しいと思っている。そなたは望まぬだろうが、できるなら過去を捨て、この世界で幸せを得てもらいたいと。故に、ハイレインとの邂逅だけは、何としても阻みたかった』
果たせなかったがな、と寂しげな呟き。
「じゃあ――花歌での、あれは」
あの時の、苦しい程の不安は。
『左様。そなたには辛い思いをさせた。それは謝罪する』
「……そうだったんだ」
『怒るか』
窺うような声音に、首を横に振る。エンデはいつも私を心配して、気遣って、助けてくれた。うっすらとだけど、そのことは覚えている。だから、今回もきっとそうだったのだろう。
「ニーノイエでのことは、そんなに思い出さない方がいいの?」
『そなたにとって、忘却は限りなく救いに近い。思い出したが最後、その全てがそなたを縛り、傷つける』
「どういうことか、分からないよ」
『分からずとも良い。私はそなたに何も知って欲しくないのだ。本音を言えば、アイオニオンにすら行かせたくはない』
「ねえ、エンデ」
『否。何度乞われようと、私は何も言わぬ。そなたが記憶を得るのを止めはせぬが、その為の手助けはせぬ』
「頑固だなあ、もう……。いいよ、じゃあ自分で思い出すよ」
『怖いとは思わぬのか』
「そりゃ、怖いし、できれば逃げたいけど……。自分のことなんだから、逃げようったって逃げられないよ」
『思い出したことで、気が狂うやも知れぬぞ』
「……そこまでひどいの?」
『そなたに嘘は言わぬよ。ナオ、今一度忠告する。決して、思い出すでない』
「でも、駄目だよ。やっぱり思い出さなくちゃ。大丈夫、何とかなるよ。今までだって、どうにか生きてきたんだから」
『そなたは、甘い。甘過ぎる』
苦々しげな――と言うよりは、苦しげな声音だった。
聞き覚えはないはずなのに、その台詞が妙に懐かしかった。今は思い出せない過去のどこかでも、言われたのかもしれない。
「……ありがとうね」
『何だ、藪から棒に』
「きっと、エンデがいてくれたから、生き延びられた」
根拠もないけれど、その確信だけはあった。
『……ならば、今からでもアイオニオンへ行くのを止めてもらいたいところよの』
「それは無理だなあ」
だろうな、とエンデが拗ねたような声で言う。その声に小さく笑いながら、新聞の続きを読み進めることにした。
ふと顔を上げると、辺りはすっかり暗くなっていた。随分と長いこと新聞に熱中していたようだ。席を立ってカーテンを閉め、明かりをつける。照明は天井に埋め込まれた白い石で、魔力を光に変える性質のある魔石なのだと、エンデが教えてくれた。
『遅いな』
焦れた呟きに、「そうだね」と相槌を打つ。ベイルさんはまだ戻ってきていない。用事が長引いているのだろうか。
『用事などと言いつつ、遊び呆けているのではあるまいな』
エンデは苛ついているけれど、ベイルさんにすれば気晴らしでもしなければやっていられないだろうと思う。かつての部下だった人と敵対しなければならないのだし、昼間のこともある。
「ベイルさんも、あんな風に怒るんだねえ」
『何だ、いきなり』
何でもないよ、と適当な返事をして、新聞を畳む。
ベイルさんは一体何に対して、あそこまで怒っていたのか。その内実が気にならないと言えば嘘になるけれど、気にするべきではないとも思う。個人的な話だろうし。
――カッカッ
考え込んでいたところにいきなり硬い音が飛び込んで来て、びくりと肩が跳ねた。一拍遅れて、ノック――来客だと気付き、慌てて扉へ向かう。
「どなたですか?」
「俺だ、ベイル」
扉越しの、聞き慣れた声。ほっと息を吐いて、扉を開ける。
「お帰りなさい!」
「ただいま。長く留守にして、悪かったな」
「大丈夫です。ベイルさんの用の方は、どうでした?」
「どうにか済んだ。商会へ状況報告のつもりだったが、翠珠の王家が騒ぎを嗅ぎつけたせいで、面倒なことになってな」
「新聞に載っていた、粋蓮の封鎖のことですか?」
「ああ、読んだかい。そいつは話が早くて助かる」
言いながら、ベイルさんは部屋の中央――テーブルへと足を向けた。椅子に座り、私にも向かいに座るよう示す。席に着くと、ベイルさんは溜息を吐いて語り始めた。
「翠珠の王家は、早耳と交渉上手で有名でな。その地盤を作ってるのが、国内外へ派遣されてる直属の隠密部隊だ。つまり、大量の諜報員」
「……もしかして、粋蓮にも」
「勿論、いるさ。だからこそ、王家の動きはこれほどまでに早かった。俺達がセトリアに入ると同時に、王家の使い――佳怜第四王子が砦に入って、粋蓮を封鎖させたそうだ」
「じゃあ、すぐに出発して正解だったんですね」
「ああ。しかし、既に佳怜は事態の大筋を掴んでる。佳怜との交渉を担当してるのはハイレインだが、そこに会長が同席しねえ訳にはいかねえし、王子に問われれば、会長も話さねえ訳にはいかねえ。この分じゃ、シェルも当分身動きが取れねえだろう。ヒューゴは潜んでる場所が場所だが……どうだかな」
そこまで言って、ベイルさんは一旦口を閉ざした。短い沈黙を挟んだ後、真っ向から私を見つめる。
「この話には、まだ続きがある。お前には酷な話になるが」
それでも聞くか、と無言の問い。聞きたくないと言えば、きっとベイルさんはここで話を終わらせてくれるのだろう。そのまま何も言わずにナタンさんと戦って、アイオニオンへ連れて行ってくれるのかもしれない。それが、仕事だから。
けれど、発端は私なのだから。その当事者が目を逸らして、耳を塞いでいて、いいはずはない。
「聞かせて、ください」
ベイルさんの目を見返して、答える。分かった、と小さく頷くと、ベイルさんは話を再開した。
「今後、確実に翠珠からも追手が出る。翠珠はニーノイエへの侵攻にハイレインの力を借りたいらしい。ニーノイエに恨みがあるのは同じだろうと、佳怜は言ったそうだ」
ニーノイエへの侵攻――つまり、戦争だ。ごくりと息を呑む。
「だが、ハイレインにあるのはハーデへの敵意であって、ニーノイエの国そのものに向けたものじゃねえ。翠珠に手を貸す理由自体、ありゃしねえしな。奴は申し出を断ったそうだ」
「お、王子は、それで諦めてくれたんですか?」
「面倒なことに、否だ。会長はニーノイエの目的を『竜の亡骸を封じた器』と説明したそうだが、佳怜はそれを信じて、お前を魔道具か何かだと思ってる。佳怜はお前を奪取し、ハイレインとの交渉のカードに使うつもりらしい。粋蓮を封鎖したのも、全て俺達への助勢を阻む為だ。今の粋蓮で外部と連絡を取るには、王家直属の兵の目を盗まねえとならねえ」
「だから、時間が掛かったんですね」
「ああ。たった数通の手紙の為に、今の今まで掛かった」
さすがにうんざりした、と溜息。お疲れ様でした、と言ってから、一番気になっていることを問い掛けてみる。
「……戦争は、始まってしまうでしょうか」
「俺達がアイオニオンへ辿り着けば、防がれるだろうとは思うがな。ニーノイエに対してハイレインが直接動き出せば、翠珠もおいそれと手は出せなくなるはずだ」
裏を返すと、アイオニオンへ辿り着けなければ、戦争は始まってしまう。そうしたら、私もきっと巻き込まれる。途方もない重圧に、気が遠くなりそうだった。
「はあ……それにしても、ハイレインさんはとっくにアイオニオンに戻ったものかと思っていましたけれど」
「事件が明るみになれば、翠珠が接触してくるのは目に見えてたからな。竜なら王家とも対等以上に渡り合える。身内を拉致でもされちゃ敵わねえと、会長がハイレインに頼んだそうだ」
「ら、拉致ですか……」
「竜の力を得られる魔道具が手に入るとなれば、大抵は血眼になる。翠珠だってそうだ。俺達の行方を知る為に、その類の強行手段を取ることも考えられた」
「ああ――そっか、遺跡であの兄妹に言っていたのは、そういうことだったんですね」
「そういうことだ。情報ってのは、どこから漏れるか分かったもんじゃねえ。あのまま遺跡に留まれば、手っ取り早い情報源として目をつけられる可能性も、なくはなかったからな」
その結果、何が起こるかは、もうあの遺跡で聞いたから知っている。思わず、ぶるりと身体を震わせると、
「聞かないでいた方が、良かったかい」
おもむろに問い掛けられた。少し躊躇いはしたものの、首を横に振る。開戦という最悪の事態や、翠珠からも追手が出ることを考えると、確かに怖いけれど。
「何も知らないままでいたら、その方がしばらくは楽だったかもしれませんけど……でも、怖いことを先延ばしにして目を逸らしていたって、後で自分が困るだけでしょう?」
「まあ、そうだな。そいつは正しい認識だが、正しいと分かっていても実行できる奴は、存外多くはねえ。良い根性だ」
ベイルさんはごく淡い笑みを浮かべて、そう言った。ほんのわずか唇の端を持ち上げるだけの、文字通りの微笑。たったそれだけのことなのに、何故か、ぎくりと心臓が痛いほどに震えた。自分で自分の反応が理解できなくて、内心で動揺する。
「ところで、あの、一つお訊きしてもいいですか?」
動揺していたので、いつの間にかそんな問いを投げていた。言ってから、余計に困った。何を訊こうか。質問なんて、何も思い浮かんでいないのに。けれども、ベイルさんは目を細め、無言で先を促してくれてしまう。――ええい、ここまできてしまったのなら、仕方がない! 当たって砕けてしまえ!
「その、失礼なことなのかもしれませんが」
「構いやしねえさ」
「ナタンさんと話していた時、」
「ご飯だよー!」
意を決して口にした問いが、絶妙なタイミングで阻まれる。扉の外――廊下から、陽気な声が叫んでいた。
「ごー飯ー!」
声の主はカサノーバ家の四女、アンジェリカだ。扉の向こうで騒ぐアンジェリカの姿が、目に浮かぶ。
やれやれ、とベイルさんが肩をすくめた。
「どうやら、先に飯だな」




