鏑矢は放たれた・十
ふらりと倒れる直生を、ベイルは右腕で抱き留めた。抱えた腕から魔力を注いで探ってみるも、おかしな気配は見当たらない。突然の変貌が元々の気質だとは考えにくく、一種の洗脳ではないかと踏んだのだが、相当念入りに隠蔽されているらしい。面倒なことだと呟き、直生を肩に担ぎ上げる。
「……軽いな」
不意に零れた一言は、完全に意図せぬものだった。担いだ体躯はやたらに細く、軽い。その事実がベイルの胸中にかすかな細波を起こした。怒りとも哀れみともつかない、仄かな感情。
それを無言のまま呑み下すと、ベイルは大股に裏庭を縦断し、〈ヒラソール〉の裏口に近づいた。扉を開ければ、エンディスの腹立たしげな声が精神感応術式越しに聞こえてくる。
『ナオには何やら呪いが掛けられているようだ。さほど強くはない、精神干渉系のものと見えるが……よく分からぬ』
「探っても考えても分からねえなら、思い悩むだけ無駄だ。異変が起きる可能性だけ把握しときゃ、十分だろう」
『……そうだな』
悔しそうな呟きを残し、エンディスの声は途切れた。
ベイルは黙々と廊下を歩む。表の方から賑やかに騒ぐ声が聞こえてきたが、構いはしなかった。一息に三階まで上がり、宛がわれた部屋の扉を開ける。窓から差し込む陽光に目を細めながら、部屋の奥へと進んだ。服の汚れを丁寧に払い落し、靴を脱がせてから、担いできた娘をベッドに下ろし、布団を掛ける。
堅苦しい言葉遣いや緊張した表情がないからだろうか、眠る娘の面差しは、十五だという年齢よりも更に幼く見えた。
◇ ◇ ◇
傷はすぐに治さなければならない。次の戦闘に支障が出るし、下手をすれば命取りになる。身体に深く染み込んだ実感だったから、眠った身体が治癒の術式を組み上げていくのを感じても、不思議には思わなかった。ただ、疲れた身体は休息を欲していて、完全に復調するまでには、少し掛かりそうだった。
(鈍ったかな)
自然とそう考えたことに、自分で驚く。そして、目が覚めた。
「あれ」
目に映るのは、明け方に見たばかりの天井。
前にもこんなことがあったような――と言うか、二度目だ。気がついたらベッドにいたとか、布団の中にいたとか。
「身体の調子はどうだ」
何とも言えない気分で天井を眺めていたところに声が掛かって、飛び起きる。声のした方を見ると、またテーブルで新聞を読んでいたらしいベイルさんが、振り返って私を見ていた。
「だ、大丈夫です、大体は治したので――それより」
「どうして寝ているのか?」
「……それです」
布団を畳み、ベッドから降りて靴を履きながら、頷く。
「どうもお前の様子がおかしいんで、勝手に眠らせた。あの時のことは、覚えてるかい」
言われていることは分かるし、何となく覚えてもいる。けれど、はっきり思い出そうとすると、嫌な風に頭が痛んだ。
こめかみを押さえる。つい、眉間に皺が寄った。
「どうした?」
「すみません、少し、頭が痛くて」
「頭が? ……この話は止めておいた方がいいな」
「でも」
「無理をさせるのは、本意じゃねえ」
ベイルさんが席を立つ。もう一つのベッドを迂回して歩み寄ってくると、いつも通りの静かな眼差しで、私を見下ろした。
「少し散策にでも出てみるかい。気晴らしにでも」
「で、でも、さっきの続きは」
「根を詰めても仕方がねえさ」
構わない、とベイルさんは頷いてくれる。その瞬間、頬の筋肉が緩んでいくのが分かった。
「ありがとうございます」
「ああ。そうと決まったら、行くか。ちょうどいい時間だ」
ベイルさんが時計を示す。時計は十一時を示していた。随分と長い時間、眠っていたようだ。
「すみま――」
「眠らせたのは俺だ」
そう言ってベイルさんは腰を屈め、手を伸ばした。指が髪に触れて、何度か同じ場所を梳かす。ぽかんとしていると、
「これでいいか」
髪を梳かしていた手が離れる。はあ、と間抜けな声を上げる私に、ベイルさんは事も無げに言った。
「寝癖」
ひぎゃあ、とひっくり返った声が、喉から飛び出した。
寝癖問題はひとまず脇に置くことにして、気を取り直して出てみた街は、お祭りの準備に動き回る人で騒然としていた。
「凄い人ですね」
「この分じゃ、明日は更に騒がしくなるだろうな」
「粋蓮にもこういうお祭りはあったんですか?」
「環理の月に夏祭りがあった。昔一度、ヒューゴに引っ張って連れてかれたきり、出たことはねえが」
「お祭りとか、あんまり行かれないんですか?」
「行く用事が思い当たらねえだけだ。嫌いって訳じゃねえ」
その言葉が、きっと気を使ってくれたからなのだろうと分からないほど、私も鈍感ではないつもりだった。嫌いじゃないとしても、好んで行く訳でもないのだから、とりあえず、あんまり浮かれて迷惑を掛けないようにしよう……。
そんなことを考えていると、どこからか視線が向けられていることに気が付いた。足を止めて、辺りを見回す。
「直生?」
いた。前方、通りの真っ只中に、その人は立っていた。
歳は三十半ばくらいの、男の人。きちんと整えられた髪は金色で、鳶色の双眸には悲しげな光が宿っている。背が高く、見るからに屈強な身体つきだからだろうか。いかにも旅人といった風の服装に、かっちりとした軍服を着た姿が、一瞬重なって見えた。
「……あなたを、知ってる」
ふと、そんな言葉が零れ落ちた。懐かしいようで恐ろしいような、奇妙な心持ち。じっと見つめていると、その人は困ったように笑った。溢れ返る人を避けて、歩み寄ってくる。
「久しいな、アンドラステ」
思いの外、穏やかな声音だった。
お久しぶりです、と答えかけて、失敗する。急に掴まれた腕を強く引かれて、言おうとした言葉はどこかに消えてしまった。いきなりのことにぽかんとして、私は目の前に現れた背中をただ見つめる。まるで視界を遮断するかのように、入れ替わりに対峙するかのように、ベイルさんは私の前に立っていた。
「止まれ。それ以上近付けば殺す。――何者だ」
「ナタン・ラパラ。ニーノイエ国軍竜騎兵団は〈爪〉の一。ベルムデス様の配下と言えばいいか」
「遂にお出ましって訳か。それで? 今、ここでやる気かい」
「この地の竜までも刺激するな、と厳命されている。街中で行動に出はしない。故に、違う場所での勝負を申し込みたい」
「いいだろう。いつ、どこがご希望だ」
「祭りの三日目の夜、この町より一キロ東の地点にて」
「妙に間を空けるな。仲間でも呼ぼうって腹かい」
「いや……その間、アンドラステを楽しませてやってくれないか」
その言葉が聞こえた瞬間、ベイルさんの纏う空気が一変した。凄絶なまでの――これは怒りだろうか。
「慈悲のつもりか? 笑わせるな」
隠しもしない嘲りを滲ませて、ベイルさんが吐き捨てる。
掴まれたままの腕が、少し痛い。その指に込められた力の強さは、それだけ怒りが激しい証だろうか。
「巻き込んだのは、貴様らだ。巻き込まれるはずがなく、巻き込まれるべきですらないものを、手間暇掛けて引きずり込んだ。その元凶共が、どの面を下げて偽善を騙る」
「言い訳はしない」
「聞くつもりもない」
ベイルさんは鋭く切り捨てる。短い沈黙の後、ナタンさんは溜息のような声で言った。
「あなたは何故竜に肩入れをする? ベルムデス様は竜を憎悪しておられる。そもそも、あなたを含めた同胞全てが、竜を好むはずがない。特にあなたは最も竜が憎み、竜を憎むものの――」
「黙れ。今ここで殺されたいか」
ナタンさんの言葉を遮って、低く鋭い声が響く。まるで冷え切った鋼のような声だった。私がその声を向けられている訳でもないのに、ひくりと喉が鳴る。……怖い。
「失礼、余計なことを口にした。――それでは三日後の夜、街の東門の外で。それまで、アンドラステを宜しく頼む」
そう告げる声がして、一陣の風が吹き抜けた。急な風に驚く声があちこちで上がる。ベイルさんの脇から顔を出してみれば、ナタンさんの姿は跡形もなく消えていた。
「……馬鹿が」
舌打ち混じりに呟くと、ベイルさんは私の腕を離した。もう声に刺々しさはない。振り向いた表情にも、さっきのことが夢だったかのように、いつも通りの冷徹さがあるだけ。
「悪かったな。……痛かったろう」
腕のことを言われているのだと、少し遅れて気付く。慌てて首を横に振ると、ベイルさんは眉間に皺を寄せて「そうかい」と呟いた。そうして再び私の後ろに立つと、背中を軽く押す。
「道草を食ったな。行くぞ」
何か問うこともできなくて、私はただ歩みを再開させた。
あちこちに出ている露店で簡単に昼食をに済ませた後、何やら「少し用事がある」そうで、商店街へ向かうことになった。
「お買い物ですか?」
「まあな。だが、その前にこれを換金する」
ベイルさんがポケットから見覚えのある石を取り出す。粋蓮で遺跡に向かう途中、魔力の扱い方を知る為に使った石だった。
「質のいい魔力を秘めた魔石は、高く買い取られるからな」
「ね、値段、つくでしょうか……」
「心配しなくとも、高値で買い取られるだろうよ」
そう言って、ベイルさんはある露店の前で足を止めた。店主は灰色の髪のおばあさんで、じろりとベイルさんを見上げる。
「何の用だね?」
「魔石の買い取りを」
ベイルさんがあの石を差し出す。おばあさんは目を細めて石を受け取ると、指の腹で表面を二度三度となぞった。
「……銀貨三枚ってところだね」
「妥当だな」
商談成立だね、と銀貨を取り出すおばあさんと、ベイルさんが石を交換する。銀貨を受け取ったベイルさんは私へ向き直り、
「直生、手を出せ」
言われるまま手を出せば、掌の上に銀貨が揃えて置かれた。きっちり三枚。ぎょっとベイルさんを見上げる。
「これ、あ、あの」
「お前が稼いだ金だ。好きに使うといい」
「あ、ありがとうございます」
銀貨を握り締めて頭を下げると、くつくつ笑う声が聞こえた。目を向けると、おばあさんが目元を緩ませて笑っている。
「お前さん達、魔術師の師弟か何かかね。お弟子は筋がいい。また来てくれるなら、歓迎するよ」
「そりゃどうも。行くぞ」
「あ、はい!」
おばあさんに会釈をして、ベイルさんの後について歩き出す。商店街のある通りは広く、たくさんのお店が並んでいて、冬に備えた装備や、他の必要物資も全て揃えることができた。




