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トランクィル・タワー【旧版】  作者: 奈木
第二章
22/69

鏑矢は放たれた・九

 少し眠ったとは言え、まだ疲れは残っていたらしい。お風呂を借りた――左腕の裂傷は完全に治っていた――後、部屋に戻るや否や、また私は布団にもぐりこみ、熟睡してしまった。

 けれど、寝付いてからどれくらい経った頃だろうか。

「起きなさい」

 夢現に、そんな声を聞いた。柔らかな、知らない女の人の声だった。夢にしては生々しい、質感を伴った声。

「敵!?」

 瞬時に意識が覚醒し、布団を蹴飛ばして跳ね起きる。

「敵であれば、声を掛けずにその首を掻き切っていますよ」

 薄闇の中、女の人の姿が浮かび上がる。

 歳は四十ばかりか。赤と黄と茶の三色が斑になった髪が目を引く、しゃんと立った姿が様になる人だった。その人は淡い青の目を伏せると、嘆息するように言った。

「ヒトの子、北の同胞の縁を持つ子よ。この地に騒乱を招くならば、私はあなたを歓迎できません」

 同胞。その言葉に、思わず息を呑む。どうりで私の内に棲む彼女が反応をしない訳だ。きっと、私だけを選んで起こしたのだろう。このひとならば、それも可能だ。

 何を言うべきか迷ったものの、ひとまず頭を下げる。

「……すみません、ご迷惑を」

「私は争いを厭う。けれど、同胞の苦難を見過ごすことも、またできません。故に、あなた達が自らの手で事態を収拾するというのであれば、その為の助力はしましょう」

「ありがとう、ございます」

「その言葉は、まだ早いでしょう。……ヒトは少しずつ力を得ながら、歩んできました。そして今、決まるのかもしれません」

 女の人が手を伸ばす。細い指先が私の左頬に触れ、首筋から肩へと伝っていく。後に残ったのは、じんわりとした温かさ。

「ヒトと竜が――あなた達と私達が、同じ大地で生き続けられるのか。それとも、遠く離れて生きるべきなのか」

 悲しそうに言って口を噤むと、それきり女の人の姿は消えた。



 チチチ、と鳥の囀る声が聞こえた。目を開ける。陽光に照らされた見慣れない天井が目に入って、粋蓮からホヴォロニカへ旅をして、アランシオーネに辿り着いたのだと思い出す。

 目を擦りながら起き上がり、隣のベッドを見る。空だった。はてどこに、と眠気の抜けきらない頭で考えていると、

「起きたかい」

 声は、部屋の中央――テーブルの方から聞こえてきた。明るい陽射しにしぱしぱする目を擦りながら顔を向けると、椅子に座って新聞を読んでいる背中が目に入る。

「お、はよう、ございます」

「おはよう」

 ベイルさんはその体勢のまま目を向けることもなく、いつも通りの淡泊さで続ける。

「飯は三十分後だと」

「分かり、ました」

 軽く頭を振り、残った眠気を振り払う。まずは身支度を整えなければ。鞄から着替えを取り出し、向かうのは洗面所だ。

 洗面所には、大きな鏡が設置されている。その前で顔を洗い、パジャマの上着を脱ぐ。袖から抜いた左腕は綺麗に治っていて、痕らしい痕もない。ベイルさんに、後でお礼を言わなくっちゃ。そう思いながら着替えを取り上げて、鏡を見た――時だった。

「にぎゃあああああああ!?」

 転がるようにして、洗面所から飛び出す。

「何だ、どうか――って、お前」

 一足飛びにテーブルへ突撃。ベイルさんが呆れた顔で私を見たけれど、今はそんなことを気にしている場合ではない。

「あ、あわわわわわわ……!」

 混乱しきった頭では、ろくな言葉が出てこない。ベイルさんは深々と溜息を吐くと、読んでいた新聞を畳み、

「分かった、分かったから落ち着け。そして服を着ろ」

「そ、そんなことを言ってる場合じゃないんですうううう! ヒィイイイ、な、何かの呪いでしょうかこれ!」

 これこれ、と左首筋から二の腕にかけて浮かび上がった、緑色の蔦のような紋様を示す。ベイルさんが目を細め、手を伸ばす。けれど、私の腕を掴む寸前で、白い手がそれを弾いた。

 いつかのように、細腕が両肩に回る。彼女(・・)のゆったりとした衣服が、ふわりと私の身体を隠すように覆った。

「そなたは相変わらず粗忽よな。不明を問うのは構わぬが、その格好はどうか。ベイルとか言ったか、確かにナオは小僧めいているが、これでも一端の娘。気安く触れるでない」

 涼しげな声が、咎めるように言う。そりゃ失礼、とベイルさんが肩をすくめた。ついでに、聞き捨てならないことを言われた気がするけれど――まあ、今は脇に置いておこう。

 振り返る。視線が合うと、彼女はほのかに笑った。

 波打つ浅葱色の長い髪。瞳孔が縦に細長い桔梗色の眼。青白いほどに白い肌の、線の細い美貌。どれも知らないはずなのに、狂おしいまでの懐かしさが胸に込み上げる。

 じっと見つめていると、彼女はにこりと笑みを深めた。

「ここまでよく持ち堪えた、そなたの苦しむ様を目の当たりしながら手助けができぬ……その何と口惜しかったことか」

 言葉に合わせて、太く長い錆浅葱の蛇の尾が、床を叩く。私の腕でも抱えられるか怪しいほどに大きなそれは――そうだ、俄かには信じがたいけれど、彼女の下肢だった。

「魔物――いや、魔祇か」

 同じく彼女を観察していたらしい、ベイルさんが呟く。

 ヒトは自らの手に負えぬ魔物を、恐怖と畏敬の念をもって「魔祇」と呼ぶ。彼女もまたその名で語られる、人身蛇足の大魔だ。何故なのかはまだ思い出せないけれど、彼女は私に力を貸してくれている。そして、私は彼女を――

「エンディス――エンデ?」

 そう、呼んでいた。ようやく思い出した。

「漸う呼んだな。待ち侘びたぞ」

 肩を抱く腕に力がこもる。答える声は、珍しく弾んでいた。

「ええと、その、ごめん、ね? ずっと、忘れてて」

「否。そなたのせいではない」

 柔らかな声に、胸が締めつけられる。ありがとう、と答えるので精一杯だった。

「……で? その魔祇とはどういう関係だ」

 冷徹な声で問われ、はっとしてベイルさんを振り返る。

「ええと、エンデは、どういう経緯だったか、まだ思い出せないんですけど、私に力を貸してくれているんです」

「正確には憑いている、と言うべきよの。私はこれに宿り――」

 エンデは私の左手を取って、ベイルさんに示す。掌を貫通する傷跡の上には、エンデの鱗と同じ錆浅葱の花を模した紋様が浮かんでいた。結晶細工みたいな、鋭角な意匠の花。

「ナオを内外の脅威から守っている。これまでは竜の腕と共に封じられていた故、満足な手助けもできなかったが」

「で、今になって出てこれるようになった理由は?」

「ナオが私を奪い返し、且つこの地の竜の助力を得られた故。平時、私は竜の腕の封じに力を割いているのでな」

「――てことは、直生が泡食って見せに来たそれは」

「是、竜の祝福よ」

 さっくりと肯定。ぎょっとして、エンデの袖を引いた。

「あれ、やっぱり夢じゃなかったんだ?」

「術式がそなたにのみに絞られていた故、会話の内容は知れなかったが、竜がそなたに精神感応を施したのは確かだ」

 ぽかんとしていると、「ふむ」とベイルさんが小さく唸った。

「何を言ってた?」

「確か……街に争いを呼び込むなら歓迎はできない、けれど、私達が自分達で事態を収拾するなら、力を貸す――と、そんなようなことを言われたような気がします」

「なるほどな。だったら、今日は鍛錬を優先させるか」

「挨拶に行かなくても、大丈夫でしょうか」

「あっちがそう言うなら、こっちはこっちで打てる手を全て打っておくべきだろうよ」

「そういうものですか……。あ、そうだ、ベイルさん! 左腕、綺麗に治ってました! ありがとうございます!」

 剥き出しの左腕を示して、うっかり伝え忘れるところだった言葉を口にする。――と、ベイルさんは何故か深い溜息を吐いた。

「どう致しまして、と言っておくが。礼を言う前に、お前は自分の状況を思い出せ。まず着替えを済ませろ」

 二度目の忠告。ようやっと、自分の状態を思い出した。多分、その瞬間、私の顔は真っ青になったと思う。

「し、失礼しました……!」

 もごもご言うのもそこそこに、全力で洗面所に戻る羽目になった。



 カサノーバ家との顔合わせを兼ねた朝食を終えた後、私とベイルさんは裏庭に出た。エンデは私の左腕に埋め込まれた竜の亡骸の封印に集中しなくてはいけないので、また姿を消している。

 広い裏庭も、今は私と対峙するベイルさんの二人きり。静かに呼吸を繰り返し、タイミングを測る。不思議なことに、何をどうすればいいか迷うことはなかった。ぐっと右足に力がこもり、強く地面を蹴ると、弾けるように身体が前へ飛び出した。鋭く呼気を吐いて突き出す右の拳は、脇から当てられた掌底で逸らされ、空を切る。左の拳も、同じように弾かれた。淡々と、完璧にベイルさんは攻撃をいなす。まるで歯が立たない。

「!?」

 そんな中、がくりと突然身体が揺れた。膝が折れ、地面に座り込んでしまう。一体どうして――何が起こった?

「エンディス、直生が戦い方を覚え始めたのはいつ頃だ」

『およそ半年前だ。こちらに呼び込まれてすぐ、ナオは私の山に放り出された。そこで私を得たばかりか、竜の腕を御す規格外の有用性を示してしまい、昼に夜に鍛錬が課されるようになった』

 立ち上がろうとするのに、身体が上手く動かない。苛立ちだけが募る中、今更に顎の痛みに気付く。ああ、なるほど。見事に一発もらっていたらしい。

「たった半年にしちゃ、随分と筋が良いな」

『それだけ、ナオに課されたものは過酷だったのだ』

 動け、といくら念じても足は動かない。俯いた視界の端にベイルさんの靴の先端が映って、一層焦った。

 ――敵は必ず殺せ。

 不意に、知らない誰かの声が耳の奥で囁いた。

 ――確実に息の根を止めろ。

 冷淡な声が繰り返す。ひどく頭が痛い。そのせいでまた苛々したので、魔力を巡らせて無理矢理身体を動かした。

 ――殺せ。必ず、

 まだ声は繰り返している。呪詛めいた言葉を振り払うように、両手で地面を弾いて立ち上がる。顔を上げ、相手を視認。わずかな間合いを突進するように詰める。繰り出した右拳は、正面から受け止められた。そのまま握り込まれて、腕が引けない。

「いきなりどうした、血相変えて」

 拳を掴む手の力が強い。振り払えない。訊ねてくる声が、まるで余裕の誇示のように思えて、ひどく腹立たしい。

「……だんまりか。エンディス?」

『私とて、ナオの全てを把握しているわけではない』

「そっちでも分からねえ、と。……仕方がねえな」

 頭上で溜息を吐く気配、無意識に身体が仰け反る。寸前まで頭のあった場所を、颶風のような膝蹴りが通過していった。

「手加減はしてやるが、手は抜かねえ。上手く捌けよ」

 掴まれていた手が解放される。仰向いた視界に、すらりと伸びる脚が見えた。――左肩に、重い衝撃。振り下ろされた踵の一撃に、再び膝が折れかける。それでも、意地で何とか堪えた。

「まだ懲りねえかい」

 何を馬鹿なことを、敗北とは死に他ならない。

 呆れた、とばかりの風で相手が上段に回し蹴りを放つ。対策も無しに受けるのは無茶だ。四肢に魔力を充填。詠唱を省略し、強化の術式を高速構築。更に踏み込み、痺れの残る左腕で蹴りを受けた。懐近くにまで入ってしまえば、辛うじて受け止められるだけの衝撃に抑えられる。そのまま膝を取ろうとすると、

「いきなり、物騒になったもんだ」

 溜息混じりの声がして、目の前に手が伸びてきた。

「しばらく寝てろ」

 頭を掴む手に、視界が暗く覆われる。精神干渉術式独特の、痛みに似た圧迫感が意識を占めた。しまった、と思えど遅い。猛烈な後悔と自己嫌悪の中、意識はすとんと闇に落ちていった。

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