鏑矢は放たれた・七
アランシオーネの門は、日が暮れる寸前でも大きく開け放たれていた。それでも門の前には監査を待つ長蛇の列があり、たくさんの人が監査の順番を待っていた。やがて私達の番が来ると、
「〈ヒラソール〉のカサノーバ夫妻に繋いでくれ」
真っ先に、ベイルさんはそう言った。ハーヴィを取り囲む監査役の人達が顔を見合わせ、怪訝そうに問い返す。
「お二人の知り合いか?」
「昔の上司だと言えば、分かる」
「嘘ではあるまいな」
「俺に訊くより、直接確かめたらどうだ。伝声器はあるんだろう」
疑わしそうにしながらも、監査役の人が一人詰所へ向かって行く。しばらくして、詰所の中から声が聞こえてきた。
「こんばんは、警備部のモーゼズです。ヒメナさんは――」
伝声器とは、どうやら電話のようなものらしい。
「あ、ヒメナさんですか。お忙しい所すみません。今、旅人らしい二人組が〈ヒラソール〉のカサノーバ夫妻を名指しで来てましてね。ええ……昔の上司だとかで――はい? ちょっと!?」
そんなやり取りが聞こえたかと思うと、声伝器で話をしていた監査役の人が首を捻りながら詰所から出てきた。
「『すぐ行くから、そこで待たせといて!』だと」
「何だそりゃ」
怪訝そうな顔は消えないものの、カサノーバさんと知り合いであることを確かめたからか、監査役の人達は次の人のところへ移っていく。私達は門の脇でカサノーバさんを待つことになった。
「――来たか」
数分後、ベイルさんが呟くや、街の奥から猛スピードでこちらに走ってくるウェンテが見えた。あれを二人乗りと言っていいのかは分からない。どれだけの速度で走っているのか、後部座席から運転手にしがみついている人は、風に流れる鯉のぼりのように宙にたなびいていた。ひえー、見てるこっちが怖い……。
「ホラ、退いて退いて!! 轢くわよ!」
通行人をなぎ倒す勢いで走ってきたウェンテが、ハーヴィの真横に停まる。運転していた女の人は長い濃紺の髪を掻き上げ、颯爽とウェンテを降りた。歳は二十代の真ん中くらい、すらりとした長身に、きりっとした薄紅の双眸が合わさって、まさしく美人の見本のような立ち姿だ。――一方、人間鯉のぼりだった男の人は地面に立ってもフラフラしていて、膝に両手をつくと動かなくなってしまった。それなのに女の人は男の人をちらとも見ず、にこりと私に笑いかけてから、ベイルさんに向き直る。
監査役の人達は遠巻きにこちらを眺めていたけれど、
「ヒメナさん、その二人は任せていいんですか?」
「問題ないわ」
その一言で、また離れて行ってしまった。カサノーバさんは、この町の治安維持組織にかなり信頼されているらしい。
「久し振りね、隊長?」
女の人は挑戦的な笑みを浮かべ、ベイルさんに言う。
「いきなり訪ねてくるなんて、どんな風の吹き回しかしら」
「仕事でな。部屋を借りたい。都合できるかい」
「部屋って、その子と?」
女の人が私を示す。ベイルさんが「ああ」と頷くと、女の人は目を丸くした。お世話になります、と頭を下げれば、今度は「信じられない!」と叫び声が上がった。
「隊長、女嫌いだからって、まさかこんな子供と?」
「人の話を聞かねえ癖は、まだ治らねえらしいな。仕事だと言ったろう。こいつを護衛対象だ。普通の宿に泊まるんじゃ不安があるんで、お前のところを借りる。それだけだ」
「ああ、なるほど。……って、君、いくつ?」
女の人が膝を曲げて、私の顔を覗き込む。
「十五です」
「隊長、十五のお坊ちゃんには刺激が強いんじゃないの?」
……お坊ちゃん、ですと?
「俺がその辺りの事情を踏まえてねえと思うのかい」
「分かってるけど、一応の確認よ。随分用心するのね。……ま、良いわ。テオ! いつまでへばってんの。行くわよ」
「む、無茶言うな……それに挨拶……くらい……」
ゼーゼー言いながら、男の人が顔を上げる。短い髪は鳶色で、穏やかそうな眼は群青色だった。歳は女の人より少し上かもしれない。容姿端麗な二人が並ぶと、一枚の絵のようにも見えた。
「……ゴホン。えー、お久しぶりです、隊長」
「ああ。相変わらず苦労してるようだな」
「お陰様で。そうだ、彼は俺達のこと、知りませんよね?」
彼、とは残念ながら、私を指しているらしい。ベイルさんが頷くと、男の人はにっこりと笑って手を差し出した。
「俺はテオドロ、こっちは奥さんのヒメナ。宜しく」
手は、やっぱり握手だろう。恐る恐る手を出すと、がっちり握られた。ベイルさんみたいにごつごつした、硬い掌だった。
「天沢直生です。ええと、直生が名前で」
「ナオくんか。ひょっとして、メリノットから?」
「あ、はい。そうです」
それにしても、完全に男だと思われているみたいだ。訂正しておいた方がいいんだろうけど、ううん、どうしよう……。
「ところで、テオドロ、ヒメナ」
「何です?」
「こいつは男じゃねえ」
瞬間、空白めいた沈黙が落ちた。真ん丸に見開かれた、ヒメナさんとテオドロさんの視線が突き刺さる。痛い。物凄く痛い。
「ごめん、ナオ!」
いきなり女の人が抱きついてきて、身体が硬直する。
「――ってことは、隊長、女嫌い治ったの? それとも、若い子ならいいって?」
「だから、どうしてお前は人の話を聞かねえ上に、前に話したことをすぐ忘れやがるんだ」
「つまらないことは覚えていたくないからよ」
すっぱり言い放つヒメナさんには、ベイルさんもなす術がないようで、深い溜息を吐く。ヒメナさんは私の顔を覗き込むと、
「ナオ、くれぐれも気をつけるのよ」
妙な威圧感に圧されて、頷き返す。
「このひと、血も涙もない冷血漢なんだから。あんまり気を許しちゃ駄目よ。後で泣くことになるわ」
何が何だか分からないけれど、もう一度頷く。すると、ベイルさんが呆れたような声で言った。
「お前、五年も経ってまだ根に持ってんのかい」
「その上、この言い草よ!」
ぎりり、ヒメナさんがベイルさんを睨みつける。聞かない方がいいような気がして仕方がなかったけれど、一応、訊いてみる。
「五年前、何かあったんですか?」
「結婚して」
「……はい?」
「五年前、私が部下だった最後の日、そう言ったのよ。それをこの人でなしったら、即答で『断る』よ! 躊躇いもなく!」
「本人の前で言うなよ、ヒメナ」
テオドロさんが苦笑しつつ、ヒメナさんが降りたウェンテに跨る。反応に困り、とりあえずベイルさんを見上げてみたものの、いつも通りの淡々とした表情があるだけだった。
「まあ、今はテオドロと幸せだから良いんだけどね」
「お、おめでとうございます」
「ありがとう。とにかく、隊長は止めておいた方がいいわよ。絶対、泣かされるに決まってるんだから」
ベイルさんを示しながら、ヒメナさんは渋面で言う。対するベイルさんは、肩をすくめてみせるだけだ。
「話は終わったかい。なら、とっとと案内してくれ」
「この泰然自若っぷりが、余計腹立つのよね」
「そりゃどうも」
「誰も褒めてないわよ」
ヒメナさんの眉間に、一層深い皺が寄る。元々恐ろしい程の美貌の持ち主であるだけに、半端じゃない剣呑さが怖い。
「ああもう、ヒメナ、積もる話は後にしよう。早く乗ってくれ」
「あっ! あんた、何私のボニーに勝手に乗ってんのよ!」
「お前の運転は荒すぎるんだよ……。隊長、後からついてきて下さい。案内しますから」
ああ、とベイルさんが頷くと、ヒメナさんは憤懣やる方ないといった調子で立ち上がり、
「ナオ、後でお喋りしましょう。この冷血漢に関する鬱憤が、ようやく晴らせるってものよ」
そう言って、私が返事をする間もなく、テオドロさんの後ろに飛び乗った。テオドロさんがウェンテを起動、走り始める。
「ちょっ、ヒメナ、首、首! 締まってる!」
「あーら、そうだった? ごめんなさいねえ」
言葉の割に、謝る声が楽しそうに聞こえるのは何故か。
「相変わらずだな」
前を行く二人に続いてハーヴィを走らせるベイルさんが、溜息を吐く。私はただ、笑っておいた。今は幸せだという言葉に、確かに間違いはないように思えたのだ。
テオドロさんの案内で街を走ると、やがて艶やかな色彩の灯りで飾られた一角に出た。繁華街の語で連想する景色そのものの街並みには、華やかながらも薄暗い、独特の空気が流れていた。
「ここです」
テオドロさんがウェンテを停めたのは、通りで最も大きな建物の前だった。店先にはヒマワリの描かれた看板が吊るされ、綺麗な細工の格子が嵌まった窓の中には、着飾った女の人が見える。
「ウェンテは裏に停めて下さいね」
テオドロさんの先導で、お店の裏手に回る。裏庭では、小さな女の子や男の子が忙しそうに走り回っていた。子供達はテオドロさんとヒメナさんに気付くと、口々に「お帰りなさい」と言い、好奇心に満ちた目を私とベイルさんへと向けてきた。
「お客さん?」
「それとも新入り?」
「こら、静かに。俺とヒメナの、個人的なお客さんだよ」
口々に喋る子供達をなだめると、テオドロさんは庭の隅の車庫にウェンテを停めた。ハーヴィも、その隣に停まる。
ヒメナさんは開店の準備があるとのことで、ここからの案内はテオドロさんが一人でしてくれることになった。荷物を持ってハーヴィを降り、裏口から建物に入る。
「部屋自体には余裕がありますけど、護衛ならやっぱり離れる訳にはいかないですよね」
「残念ながらな。直生、不便を強いるが」
「あ、いえ、大丈夫です」
「だ、そうだ」
「分かりました。それじゃあ、三階の客室で――あ、夕食はどうします? 宜しければ、一緒にいかがです」
「なら、頼む」
打ち合わせをしながら階段を上り、廊下を歩む。ここです、とテオドロさんに案内されたのは、三階の角部屋だった。
「夕食になったら、また呼びますね」
ベイルさんに鍵を手渡してそう言い、テオドロさんは踵を返して階下へ向かって行った。これだけ大きいお店だから、やっぱり忙しいのだろう。その背中を見送り、私達も部屋に入る。
内装は淡い暖色で統一されていた。部屋の中にはベッドが二つと大きなテーブルが一つに、椅子が二つ。その他にちょっとした家具も置かれていた。ベイルさんは一通り部屋の中を観察した後で、二つのベッドが並んだ区画へと目を向ける。
「直生、お前は奥を使え」
はい、と返事をしながらベッドへ向かい、荷物を下ろす。ベッドのすぐ右手には窓があり、大通りが見えた。
完全に日が暮れた今は灯りの数も増えて、その眩さは少しだけ日本の夜景に似ていた。かすかに湧き上がった郷愁を振り切るように、カーテンを閉める。小さく溜息を吐いて振り返る――と、
「……!?」
思いも寄らない光景が、そこにあった。
ぽかんとした空白から我に返って、忍び足でテーブルへ移動する。極力音をさせないよう、慎重に椅子に座りながらも、目は二つ並んだベッドの一方から動かすことができなかった。
(……寝て、る?)
ベッドに座るベイルさんは軽く顔を俯け、腕を組んだまま動かない。かすかな寝息が聞こえるのでなければ、何か考え事をしているように見えなくもなかった。
考えてみれば、ベイルさんは粋蓮での襲撃から今までの丸二日、睡眠どころか満足に休憩も取っていないのだ。疲れていない方がおかしい。日が落ちて、部屋の中は肌寒い。着ていたコートを脱いで椅子から立ち上がり、そそくさと手前のベッド――ベイルさんの背後に回り込む。何もないよりマシなはずだと信じて、眠る肩にそっとコートを掛けた。
……反応はない。起こさずに済んだようだ。
ほっと息を吐き、ついでに左袖が裂けて血まみれの服を着替える。テーブルに戻って椅子に座り直すと、妙に身体が重く感じられた。ひょっとして、私も疲れているのだろうか。
『そなたも、少し眠ればいい』
頭の中で、囁く声があった。うん、と頷き返すと、途端に意識は闇に落ちていった。




