見知らぬ街で・二
「そりゃ、どういう意味だ」
怪訝そうな声が聞こえたけれど、答える余裕はなかった。恐る恐る両手を目の前に持ってくる。ぶるぶると震える、見慣れた自分の手。指を曲げて、伸ばす。その感触は、やっぱりどこまでもリアルだった。……とにかく、確かめなくちゃ。
「おい」
意を決して、手を動かす。指先に強張った頬の感触。思い切って息を止めて、ありったけの力を込めて――
「あ痛ぁっ!?」
「そりゃ、自分の顔を抓って痛くねえ奴はいねえだろうよ」
頭上から降る声は、呆れているようにも聞こえた。ですよね、と涙目で頬を擦りながら、相槌を打つ。頬は痛いけれど、これで確かになった。溜息を吐いて、声の主を見上げる。
立っていたのは、背の高い男の人だった。歳は三十歳くらいだろうか。癖のない短い髪は淡い金色で、眇めたように細い双眸は深い藍色。けれど、色彩や他の何より、その表情こそが特徴的に思えた。完璧な無表情。声までも抑揚がない。
「それで? さっきの質問の答えを、まだもらってねえが」
「すみません、ええと、家族、ですよね。その……ここにはいない、と思います。さっきの人達に攫われた、とかではなく」
「思う?」
「私の知らないところで、この街に来ているのでなければ」
「結局は一人ってことかい。……どうにも、要領を得ねえな」
男の人は訝しげに眉根を寄せる。私は「すみません」と呟くしかなった。我ながら、あんまりな説明だとは思う。
「とりあえず、白碧――この街の人間じゃあねえんだな?」
「あ、はい。それは、そうです」
「そうかい。この街はアルトゥール商会の拠点であるだけ、他所よりは治安が良い。……が、薄昏に限って言えば、下手な貧民街よか、よほどタチが悪い。今し方、身をもって知ったろう」
その通りだ。さっき助けてもらわなければ、どうなっていたか分からない。はい、と小さく頷くと、
「そんな街に、お前の親はろくな知識を与えもせず、娘を放り出したのか」
どこまでも静かな――底冷えのする声。追われていた時なんて比べ物にもならない緊張が、頬に冷や汗を滴らせた。
「……家族、は、ずっと、遠いところに、いて」
ありったけの勇気を振り絞って、震えた声を紡ぐ。言葉を発する――たったそれだけのことが、ひどく難しかった。
威圧。
その言葉の本当の意味が、分かった気がした。重く、苦しく、挫けそうになる――これこそが、それだ。
「この街、を、知らない、んです。私が、勝手に、来てしまったので、家族が、悪い訳じゃ、ありません」
「家出かい」
短く続けられた問いには、ただ首を横に振る。すぐに「だろうな」という呟きが返ってきた。目を見開いて見上げれば、淡々とした声が事も無げに言う。
「家出なら、わざわざ庇いやしねえさ。どんな理由があった――あるのかは知らねえが、大人しく家族のところに帰れ。知らねえ街に来て、ろくな情報収集もせずに歩き回るもんじゃねえ」
「か、帰りたいん、ですけど」
「――けど?」
「……帰り方が、分からなくて」
「普通、帰りは来た時と同じだと思うがな」
その通りなのだけれど、私は自分でここに来た訳ではない。困り果てて黙っていると、男の人が「やれやれ」と溜息を吐いた。
「どうにも、妙な事情があるらしいな。――故郷の名は?」
「木津野です。木津野市」
「……国は」
「日本、ですけど」
沈黙が落ちる。ただ、今回は気まずくもなかった。
この場所が私の知る世界と大きく異なっていることは、もう嫌というほど思い知っている。だから、予想はしていた。
「そんな国は、聞いたことがねえな」
そう、言われるのだろうと。それでも、やっぱりショックはショックだ。そうですか、と答えた声にも、落胆を隠しきれない。
「持ち合わせはあるかい」
変わらずに淡々と問う声に、また首を横に振る。お金どころか所持品自体、一つもない。
「だったら、ここから通りを二つ越えた先、招籠て通りにある『黒の鎧亭』って宿屋に行くといい。店主に『〈鵺〉に紹介された』と伝えりゃ、便宜を図ってもらえる。そうすりゃ、少なくともさっきの連中に捕まるよりかは、いくらかマシに過ごせるはずだ」
どうする、と続けて問われる。その流れが余りにも滑らかすぎて、ぽかんとしてしまった。茫然と見上げていると、
「不満だってなら、別に無理強いするつもりもねえが」
「あっ、いえ、違います! ……その、私、怪しくないですか」
「確かにな。だが、職業柄、人を見る目は持ってるつもりだ」
「お仕事、ですか?」
「傭兵。さっき言った、アルトゥール商会――傭兵の寄り合い所とでも言えばいいか。そこに所属してる」
「よ、傭兵?」
鸚鵡返しに繰り返せば、「ああ」と短い返事。その顔は冗談を言っているようにも見えなくて、何と答えたものか分からずにいると、男の人の腰にあるものが目に付いて、ぎょっとした。
――剣。それ以外に表現しようのない、すらりと細い棒。前に漫画で見たサーベルに、少し似ていた。
「それで、どうする」
もう一度問い掛けられて、我に返る。ああ、そうだ……サーベルっぽいものに驚いている場合じゃなかった。
何としても、帰る方法を見つけなければならない。これは絶対だ。とは言え、ここに「日本なんて国はない」のだから、一朝一夕に見つかるとも思えない。空恐ろしいことだけれど。
「あの、その宿屋さん――『黒の鎧亭』では、働くところを紹介してもらえたりも、するでしょうか」
「できるだろう。なけりゃ、こっちから何か回してもいい」
男の人の答えはどこまでも簡潔で、そして予想外だった。
今更怪しむ訳ではないけれど、どうしてここまで親切にしてくれるのだろう。不思議で仕方がないけれど、それを正面から問うのは、何となく気が咎めた。悶々としていると、
「どうかしたかい。他に何か懸念でも?」
「いえ、その……私は、お礼の一つもできないんですけど」
見上げて言うと、男の人は微かに目を見開いた後で、ゆっくりと瞬きをした。そして、首を横に振る。
「気にする必要はねえ。俺が勝手にやってるだけだ。気紛れだとでも思っておけばいい」
そうは言われても、割り切れない。黙っていると、
「存外、律義で頑固な性質らしいな。悪くはねえが、気にする余裕ができてからにしろ。今悩んだって価値はねえ」
「そう、ですか」
「ああ。で? 結論は」
何度目かの問い掛け。散々待たされているのに、責める言葉もない。いい人――優しい人? なのだろう。それに、これまでを振り返ってみれば、この人は確かに信用に値するように思えた。
うん、と胸の内で頷く。心は決めた。
「宜しくお願いします」
顔を上げると、男の人は「分かった」と頷いた。すると、何故か首を伸ばして、私の背後を覗き込む。
「さっきの連中は、完全に他所へ行ったらしいな。これなら招籠まで面倒もなく着けるだろう。飛び降りられるかい」
「と、飛び降りる!?」
慌てて振り返った先では、足元の白い石畳が不自然に途切れていた。その縁に這い寄ってみれば――確かに、遥か下であの薄暗い路地が広がっている。
「な、なな、なんで!?」
「手っ取り早く撒く為に上がった。少し手荒になったのは悪いと思わなくもねえが、まあ、仕方がなかったと思ってくれ」
「や、いえ、あ、ありがとう、ございます……?」
「どういたしまして。その様子じゃ、飛び降りろってのも無茶な話か。大人しくしてろよ」
言うが早いか、男の人は私を抱え上げ、躊躇いなく屋根から宙へ身を躍らせた。
「ひ、あわ――」
悲鳴が裏返る。高いところは苦手なのだ。軽やかに着地した男の人に下ろしてもらって、「大丈夫かい」と問われても、がくがくと頭を上下させることしかできない。男の人は頭を掻きながら、
「とても大丈夫にゃ見えねえが……まあ、歩いてるうちに落ち着くか。こっちだ」
通りの右手を示す。再びがくがくと頷いて、私は歩きだした。