見知らぬ街で・十二
ぼたぼたと、涙が次から次へと溢れては流れていく。おわ、とヒューゴさんが引っくり返った声を上げた。
「ちょっ、ど、ど、どうした! 痛かったか!?」
「ヒューゴ、何を泣かせてるんだ」
「ガキを泣かせてんじゃねえ」
「いや、ま、待て、泣かせようとした訳じゃねえ! 何だ、アレだ、とりあえずベイル、何か拭くもん!」
全く、と呟きながらベイルさんが壁際の棚へと歩いていく。
「シェルは、えーと、その毛皮貸せ! もこもこだ!」
「意味が分からん」
「あーもー、何だどうした! ええい、俺が悪かったってことでいいから、な! 泣き止んでくれ! 泣き止んで下さい!」
「うぐっ、ず、ずびばぜん……」
「だから、謝らなくっていいんだっつの!」
「だから、叫ぶなやかましい」
戻ってきたベイルさんが、ヒューゴさんの後ろ頭を叩いた。差し出されたタオルを、お礼を言って受け取る。
「喚く暇があるなら、下に行って厨房から何かもらってこい。具体的には、食べるものと飲むもの」
「あ? 何で俺がお前の小間使いしなきゃならねえんだよ」
「襲撃騒ぎのせいで、食事がまだだ。泣いた分水分補給も必要だろう。発端なら、それくらいの埋め合わせをしろ」
ヒューゴさんが、ぐっと言葉に詰まる。唇をへの字に曲げるものの、ガタリと椅子から腰を上げた。今度は私が慌てる。
「いえ、そんな――」
「気にすんな。腹立つが、こいつの言うことは間違ってねえ。さっさと行ってくるから、少し待ってろな」
「す、すみません……。ありがとうございます」
「ついでに俺の分もな」
「――あ!?」
「一人分も二人分も似たようなもんだろう」
「何だよ、結局てめえの都合じゃねえか!」
叫びにも似た抗議にも、ベイルさんは素知らぬ風を貫き通す。
「詐欺師か!」
そんな叫び残して、ヒューゴさんは部屋を出て行った。重く激しい足音が、徐々に遠ざかっていくのが聞こえる。
全く騒がしい、とシェルさんが溜息を吐いた。
「それで、バドギオンにはどのルートを通って向かう? まっすぐにセトリアを突っ切って北上するか」
「いや、ホロスを経由して、まずはホヴォロニカに入る。最初の停泊地は、アランシオーネだ」
「ふむ。迂回にはなるが、被害は最小限に抑えられるか」
「今回はそれを最優先した方がよさそうだからな。来月の半ばにバドギオンに入れりゃ、御の字だ」
ホヴォロニカは、昼間見せてもらった地図に書いてあったのを覚えている。セトリアの東の国だ。バドギオンは翠珠の周辺になかったから、きっと遠いところなのだろう。
「ああ、そうか。ナオは国の名だけでは分からんな」
「あ、ホヴォロニカは、分かります。昼間の地図で見ました。セトリアの東にある国ですよね」
シェルさんは軽く目を瞬かせ、「覚えがいいな」と笑った。
「その通りだ。俺達はセトリアを経由してホヴォロニカに入り、ホヴォロニカを縦断して、バドギオンに向かう。バドギオンは、セトリアやホヴォロニカの北に広がる国だ」
「シェルさんと、ヒューゴさんの生まれた国なんですよね?」
「そうだ。雪に閉ざされた国で、魔術研究が進んでいる。とは言え、魔道大国を称するミスミには適わんし、最近はアルト――アルトゥ・バジィに押され気味で、大陸第三位に転落することもそう遠いことではないかもしれんが」
アルトゥ・バジィ。聞き覚えのある名前だ。
どこでだったか、と記憶を探っていると、語ったひとの特徴的な声と一緒に、その時の光景が脳裏に蘇った。はっとしてベイルさんを見ると、頷きが返される。
「俺の生まれた国だ。ニーノイエの北、セトリアの西。山以外に何もねえ国さ。魔術研究の経緯も、褒められたもんじゃねえ」
「どういうことですか?」
「戦争に勝つ為」
さらりと言われた言葉に、息を呑む。二の句を継げないでいると、「止めとくかい」といつにも増して淡々とした声が問う。先を聞くのを、ということだろう。迷わなかった訳ではないけれど、気付けば首を横に振っていた。
ベイルさんは短い沈黙の後、静かに話を再開した。
「開戦は、もう十二年前になるか。相手は隣国のラクストゥ・バジィ――アルトの更に北にある国だ。ラクスは覚えてるかい」
「ヒューゴさんの、お兄さんが」
「そうだ。俺とヒューゴはその戦争で会った」
「え? ……あの、それじゃ」
口ごもる私の疑問など、お見通しなのだろう。ベイルさんは軽く頷くと、事も無げに言い放った。
「俺はアルトの軍人で、あいつはラクスの傭兵だった。終戦までの七年間、飽きもせず延々と殺し合った仲って訳だ」
今度こそ、絶句した。ヒューゴさんとベイルさんは、時に衝突しつつも、気が置けない間柄に見える。なのに、まさか同じ戦争で戦った敵同士だったなんて。
「ま、その後色々あって、戦争が終わってからしばらく、つるむことになった。一年近く一緒に旅してたか」
ベイルさんがそう結ぶと、ガンガンと扉を叩く音が聞こえてきた。溜息を吐きながら、シェルさんが扉を開けに向かう。
「こんな使いっ走りは二度と御免だからな、俺は!」
荒い足音と、声。目を向けると――
「器用ですね……」
ヒューゴさんは頭の上と両腕に食べ物が載ったお盆を載せ、小脇には三本もの瓶を挟んでいた。手慣れた風でシェルさんが瓶やお盆を受け取り、テーブルに並べていく。
「この時間では、流石に温かいものはないか」
「火はとっくに落としちまったって、料理長にどやされた」
「す、すみません……」
「あー、いや、まあ気にすんな。どうせこいつのせいだろ」
「確かにな。夕飯時に街に連れ出したのはベイルだ」
「あっ、そう言やそうじゃねえか! やっぱりひでえ奴だな」
「オイ、栓抜き取れ」
「――って、人の話聞けよ!」
ヒューゴさんの叫びもどこ吹く風、ベイルさんは瓶を取り上げる。改めて見てみると、お皿の上には見たことのない食べ物も多かった。紫の果物や、青いパン――それらを見詰めていると、
「明日に備えて、食べとけ」
「あ、はい……。頂きます」
食べ物を前にすると、確かに自分が空腹であることが実感できた。とりあえずサンドイッチを手に取ってみると、お馴染みのハムサンドのようだった。そこはかとなく安心して、一口かじる。
「……おいしい」
自然と、声が出た。だろ、とヒューゴさんが笑う。
「ここの料理長の飯は美味えからな。それだけでも、城に間借りする価値があるってもんだぜ」
「そう言いながら、何故お前まで食べてるんだ」
「目の前に飯があったら、そりゃ食うだろ。お前もどーよ」
「遠慮しておく」
呆れた顔で言いながら、シェルさんは瓶を手に取った。手慣れた風で栓抜きを扱い、封を開ける。
「水分も必要だろう」
「あ、ありがとうございます」
差し出された瓶を受け取る。コップはないようなので、直接口をつけた。ベイルさんもヒューゴさんもそうしているので、細かいことは気にしないでおくことにする。瓶の中身は、柑橘系のジュースらしかった。控え目な甘さが丁度いい。
「……ナオ、お前、顔が赤くないか」
食事が終わる頃になって、引き攣った顔でシェルさんが言った。
「え? そうですか?」
「おわ、マジだ。真っ赤じゃねえか、大丈夫か? つか、顔から指先まで綺麗に赤いってどういうことだこりゃ」
「……直生、酒は得意かい」
「ええと、分かりません。まだ十五歳で、飲んだことなくて」
そう答えると、ベイルさんが深々と溜息を吐き、「ヒューゴ」と呼んだ。その目には、明らかな非難の色が浮かんでいる。
「ちょっ、俺のせいじゃねえだろ不可抗力だ! 酒持たせた料理長が悪い! つーかシェルも飲ませる前に気付け!」
「無理を言うな、子供と食事はせん。そんな習性があるか」
「無理でもやれよ! あ、待て、フラフラし始めたぞオイ。どーする、カレルヴォ呼ぶか?」
「さすがに、この時間では寝ているだろう」
「その上、子供に酒を飲ませたとなりゃ、お前の説教は確実だ。さぞやかましいことになるだろうよ」
「そいつは御免だ――って、何で俺限定だよ!」
そんな会話が聞こえていたけれど、だんだん頭がぼんやりしてきて、誰が何を言っているのか分からなくなってきた。お腹が一杯になって、眠くなってきたのかもしれない。……うん、さっさと着替えて寝てしまおう。
「あ、ちょ、待てナオ、服! 脱ぐな脱ぐな!」
「シェル、押さえろ」
「何で俺だ!?」
最後にそんな慌てふためいた声が聞こえたような気もしたけれど、気のせいだったような気もしないでもない。