見知らぬ街で・十
砦に戻ると、辺りは騒然としていた。誰も彼もが慌てた風で走り回っていて、私達には目もくれない。その喧騒に少しも構う風を見せずに、ベイルさんは颯爽とお城に入っていく。
「これからするのは、それぞれの利益を巡る話だ。商会には商会の、ハイレインにはハイレインの思惑がある。くれぐれも、連中の言葉を鵜呑みにするな」
広い廊下を歩みながら、厳しい声が言った。ベイルさんも商会の人であるはずなのに、まるで部外者のような口ぶりだ。
「私も、その話し合いに参加することになるんでしょうか」
「その方が望ましい、とは思うが」
そうは言われても、あのハイレインさんや、商会の偉い人を相手にして交渉できる自信は、これっぽっちもない。
「ええと、その、ハイレインさんなら、そう悪い条件を出したりすることはない、と思うのですけど」
いっそ、あのひとに任せてしまってはいけないだろうか。そんな弱気が顔を出す。
「自信がねえなら、俺が名代に立つが」
「……へ?」
「不満かい」
淡々とした言葉に、慌てて首を横に振る。
「い、いいえ! でも、ベイルさんは商会の人じゃあ」
「ここに所属しなくとも、仕事は受けられる」
廊下を歩みながら言われた、その一言。
前にも抱いた疑問が、また蘇る。かつ、と音を立てて、足が止まった。ぽろりと、疑問が零れ落ちる。
「……どうして、ですか」
「何が?」
一歩先から平然と問い返されて、思わず口ごもる。
「私は、何も持っていません。何も返せません」
「依頼主はハイレインだ。お前が気にすることはねえだろう」
答える声は、どこまでも淀みない。でも、ベイルさんはあくまでも依頼を受けただけだ。わざわざ私の名代に立って、自分の立場を危なくさせる意味なんて、どこにもない。
「俺が信用できねえかい」
もう一度、首を横に振る。そういうことじゃない。
敵はこの上なく強大で危険で、それなのに見返りはないも同然で。関わっていいことなんて、あるとは思えないのに。
「本当に、お前は妙な娘だな」
ぽつりと零されたのは、感心したような声音だった。
「……はい?」
「或いは、不器用とでも言うべきか。手を貸すと言われたなら、素直に利用しておきゃいいだろうに」
「それは、その、気が咎めると言いますか」
もごもご呟くと、そうかい、と軽く声が返る。
「で、どうしても、理由が気になると?」
「その、まあ……はい」
「生憎だが、期待に見合うような大層な理由はありゃしねえ。ただの物好きと、陳腐な自己満足だ。俺が好きで勝手にやってるだけのこと、お前が気に病むことはねえ」
はあ、と気の抜けた相槌が口を突いて出る。はぐらかされたのだろうか。少し釈然としない気分になっていると、覚えのある震えがうなじを伝った。
『お喋りするのはいいけれど、待つ身のことも考えてもらえると嬉しいねえ』
頭の中に直接響くのは、あの千変万化する声。
『言われなくとも、今向かっている。竜族ともあろうものが、暇を持て余した挙句に覗き見か』
ベイルさんの声もまた、頭の中に響いて聞こえた。ハイレインさんは皮肉にも、くすくすと笑うだけだったけれど。
「……ったく、趣味の悪い」
ぼそりとベイルさんが呟く。珍しい言葉に驚いて見上げると、小さく肩をすくめる仕草が目に入る。
「急かされちゃ、仕方ねえ。急ぐぞ」
私が止めてしまった歩みが再開される。しばらくして、ベイルさんは大きく、厳めしい扉の前で足を止めた。私が隣に追いついたのを見計らって、ノッカーで扉を叩く。
「入れ」
低い声が入室を促す。準備はいいか、と問うように隣から投げられた視線に頷くと、静かに扉が押し開けられた。先導する背中の後について、足を踏み出す。
広い部屋は、学校の校長室に似ていた。来客用だろうソファとテーブルが一揃い、その奥には見るからに立派な執務机が置かれている。ハイレインさんは、その執務机の脇に立っていた。
「さあて、お出ましだよ」
「……彼女が事態の根幹であると?」
「その通り。彼の地から広がる悪意の波は、やがて魔物となってこの地に届くだろう。彼女を奪う為に、攫う為に」
「下衆めが」
執務机の奥に座る、五十がらみの男の人が苦々しげに呟いた。整えられた髪は白く、緑の双眸には静かな怒りが燃えている。けれど、その炎も私を捉えると即座に鎮火した。
「よく来てくれた、座りたまえ」
優雅な手振りで、ソファが示される。その言葉に合わせてベイルさんが足を止めたので、隣に並んで窺うと、静かに頷きが返された。失礼します、と断ってから大きなソファの隅に座る。ベイルさんは無言で私の背後に立った。その様子を確認してから、白髪の男の人が重々しく口を開く。
「私はエーリヒ・アルトゥール、この商会を統括している者だ」
「天沢直生と申します」
「うむ。――では、まず各々の目的から整理しよう。ハイレイン氏によると、この島にニーノイエの軍勢が迫っている。到着は明晩。商会は、これを何としても撃退せねばならん」
「……ニーノイエだと?」
「そう。私は直生を追ってこの島に来たけれど、警告に来たのでもある。彼の国に、私の敵はいるんだ。――ともかく、私は直生に無事に私の元へ来て欲しい。その為に〈鵺〉の彼へ護衛を依頼した。目的地は、バドキオン王国東部の湖アイオニオン」
「では、天沢君の目的はどうかね」
「こっちは、ひとまず少しでも早い出立を希望する」
「おや? 君は己の所属でなく、直生に肩入れするのかい」
「俺はこの娘の名代だ」
へえ、とハイレインさんが笑うも、ベイルさんは構わず続けた。
「とは言え、今すぐ島を出る許可は出ねえだろう」
「そうだな、お前は貴重な戦力だ。ハイレイン氏の依頼は承ったが、襲撃があると判明している今、出立の許可はできん」
「つまり、襲撃をどうにかしてから旅立て、ということだね」
「有体に言えば、そうなりますな。あなたが依頼をした者は、あくまでも我が組織に所属する傭兵であります故」
「まあ、さすがに私もそこまで無理強いする気はないよ」
「有り難く存じます」
「――だが、それは俺が組織に所属してれば、の話だろう」
駆け引きらしい駆け引きもなさそうだ、と思ったのも束の間。みしりと重苦しい空気が部屋に張り詰めた。
エーリヒさんが眉間に皺を寄せ、「ベイル」と呼ぶ。
「何を……まさか、本気ではあるまい」
「さてな。ただ、そういう選択肢もある、って話だ」
ベイルさんの声には相変わらず感情の振幅が乏しく、真意が読みとれない。エーリヒさんが、渋面のまま言う。
「いや、お前のことだ。他に何か狙いがあるのだろう?」
「ご名答。ヒューゴに正規の手続きを踏んで、同行を依頼すること。可能ならシェルもだが、こっちは当人の意向が優先だ。あいつが断るなら、それはそれで構わねえ」
「分かった、手配しよう。それ以外の同行者は?」
「邪魔になるだけだ。後は、元凶の一人が最大限支援してくれることを祈るだけだな」
「心配しなくても、最初からそのつもりだよ。この島にも、君達にも、できる限り力を貸す。……巻き込んでしまったからね」
「そりゃ結構。――で、現時点における対策は?」
「島主へ伝令は出した。近隣の島へ避難船を出す準備にかかっているはずだ。こちらでも、通信師に船のやり取りのある港へ状況を伝えさせている。明日、この島は完全に孤立するだろう。被害の拡大は最小限に抑えられる。だからこそ、我々はここで転移させられてくる軍勢の殲滅にかからねばならない」
「部隊は俺とシェルの隊の他、どれだけ残ってる」
「四、六、九、十一、十五の五つだ。その内、人員の全てが残っているのは、三、六、十一、十五のみ」
「なるほど。ハイレイン、軍勢の規模は」
「ヒトはいないね。魔物がざっと六十。どれもかなりの大型だ。属性はまちまちだけれど、やや火が少なく、地が多い」
「ふん、本腰入れて奪いに来たって訳か。いきなり街の上に出られるんじゃ、被害が大き過ぎる。術式に干渉して、碧海の上で転移を解くことはできるかい」
「できないことはないが、規模が大きすぎる。今の私では、全てという訳にはいかないよ」
「それで充分だ。転移を解いたところに、グロリアとアズレトの隊を総動員して迎撃させりゃ、かなり数を減らせる」
「分かった、その方針は伝えておこう。お前は、どう動く」
「直生を連れて、東の遺跡近くに陣を張る。下手に護衛をつけて匿っておくより、目の届くところに置いておいた方がいい。念の為、ヒューゴも借りるが」
「構わん。連れていくがいい」
「感謝する。……以上で話は終わりかい」
「そうだね、ひとまずは終わりかな」
「――だ、そうだ。下がって構わん」
「了解。直生、行くぞ」
ベイルさんに従い、ソファから立ち上がって部屋を出る。
廊下に出ると、城内は更に騒がしくなっていた。まるで蜂の巣をつついたような騒ぎで、ベイルさんも度々呼び止められては指示を出すことになった。
「隊長! 良かった、探してたんスよ」
そんな時、廊下の向こうから見覚えのある姿が駆け寄ってくるのが見えた。確か、ヴィサさんと言っただろうか。
ベイルさんが足を止め、私もそれに続く。
「隊長、会長から緊急戦闘準備って命令出てんスけど」
「ああ。明晩、魔物の群れが大挙して押し寄せてくるそうだ」
「ちょ、マジスか! 魔物の群れって、この島にスよね!?」
「全隊緊急戦闘準備が必要な場所が、他にどこがあるって?」
「そ、そりゃそうですけど……」
「一番隊は、東の遺跡に陣取る。ヒューゴもだ。詳しい話をするから、動ける面子全員に招集を掛けろ」
「了解しました!」
威勢よく言い、ヴィサさんは一礼をして走り去った。
どうやら、私には気がつかなかったようだ。単純にベイルさんの後ろにいたから見えなかったのかもしれないし、緊急事態で余裕がなかったのかもしれない。どちらにしろ、それは事態の深刻さを示しているように思えて、また少し怖くなった。
「大丈夫だ」
ふと、静かな声が聞こえた。顔を上げてみれば、ベイルさんが文字通りの目と鼻の先から、私を見下ろしている。
「請け負った仕事は、完遂するのが俺の主義でな」
「……はい」
「お前は、ちゃんと送り届けるさ」
そこまで言われて、ようやく励まされていることに気付く。
「あ、ありがとうございます」
頭を下げると、ベイルさんは何も言わず、くしゃりと私の頭に手を置き、踵を返した。
「時間は有限だ。急ぐぞ」
「――はい!」
少しだけ速くなった足取りの後を、再びついて行く。
そう言えば、ベイルさんの後を歩く時、急いだ記憶がほとんどない。……もしかして、いつも合わせててくれたんだろうか。